2.4 プリムス
シンシアは口を開けて寝息を立てている。老人が毛布をかけてやると、寝言を呟いて ごろんと寝返り、また寝息を立て始めた。
老人は窓から漏れる月明かりに気づき、カーテンを直した。
部屋の奥からダイニングへ老人が戻ってくると、食器を洗い終わった蓮慕が手を拭いていた。
「あ…シンシアは?」
「疲れて寝てしまったみたいだ」
風呂から出たアーラは窓にかかった蜘蛛の巣をじっと見つめている。
湿り気が残る肌は熱を帯び、月光が瞳に吸い込まれ、無機質な星のようだった。
蓮慕がテーブルに着き、移民街で譲り受けた地図を取り出して広げた。
「なあ、一体ここはどこなんだ?」
老人は地図をゆっくりと眺めると、ユスティシアの海を隔てた大陸の海岸を指差した。
「この村はプリムス。
大陸の大体はユスティシアの属国扱いだが、もとよりここの周辺には人がいない。
事実上の支配下とはいえ独立している村だ」
蓮慕はアーラと顔を見合わせた。
「俺らはユスティシアから海を渡ってきたんだ。すぐ隣の陸地に辿り着いていたんだな……」
「なるほど、それで砂浜に打ち上げられていたわけだな」
アーラは左耳を掻き「あれは大変だった」と笑いを漏らした。洗い立ての耳かざりがジャラリと音を立てた。
蓮慕は老人を制止した。
「ちょっと待て。なんで砂浜に打ち上げられたのを知ってるんだ?
俺らとあなたが会ったのはこの巨大な…家の前だ」
老人は言葉につまり、アーラはきょとんとして二人を見比べた。
「気づいていたさ……知らない顔だったから警戒してだんだ。
そしたら弱りきったガキ二人がずぶ濡れになってここまで歩いてくるもんだから、まあ害はないと思って助けたんだ」
「お前、オレのこと引きずって来たのか?」
「ちゃんとおぶったさ。お前重いんだよ」
蓮慕は食い気味でアーラを止める。その剣幕にアーラはケタケタと笑った。
元に戻ったその様子に、蓮慕は少し胸を撫で下ろした。
「おっさん」
アーラが老人に向き直る。
「ありがとう。助けてくれて」
「…ああ」
老人の背後には棚に積み上げられた医療器具が散乱していた。老人はゆっくりと立ち上げるとやかんに水を注ぎ、湯を沸かし始めた。
「でもここにいたら迷惑になる。すぐに出ていくから安心してくれ」
老人の背中に向けられたまっすぐな眼差しに、蓮慕は躊躇いながら口を挟んだ。
「そのことだが……" 厄災 " がここにいるってことが知られてしまった」
「だから出ていくんだろ?」
「話聞いてたのか?この村はもともとユスティシアに干渉されてなかったんだ。
それが数日前の " 厄災 " の目撃によって警備が強化された。だから村の中に兵士がうろついている」
やかんから噴出する湯気を見つめて、老人は静かに頷く。
痺れを切らした蓮慕は、頬杖をついてぽかんとするアーラに詰め寄った。
数日前、処刑台の上で見た景色はあまりにも眩しかった。
群衆は蓮慕に手を差し出した " 厄災 " を、間抜けな表情で見ていた。
あの時の胸の昂りは、生への一歩、などという明るいものではなかったのかもしれない。自分だけが知っていた " 厄災 " が、群衆の目に晒されたことからくる焦りだったのではないか。
「きっとすでにあの母親たちが通報していて、明日の朝にはもっと兵士がやってくる。
お前がこのままいなくなっても、この村のそばには王国軍のキャンプが残ったままなんだ」
「オレのせいだって言いたいのかよ?」
声を荒げるアーラに、蓮慕はカーテンの向こうで眠るシンシアのことを思い出し、「しっ」となだめた。
老人は棚から茶葉を取り出し、ポットにセットして湧き上がった熱湯を注いだ。
「ああそうだ。お前のせいだよ。だが兵士が村で悪さをしているのはお前のせいじゃない」
「…はあ?」
「助けてもらった俺たちが優先すべきことは、この村にこれ以上迷惑をかけないことだ」
「わからねえ、はっきり言えよ」
苛立ちを見せるアーラの肩に、蓮慕は手を置いた。
「俺たちがこの村から出るってことを、知らせないといけないんだ」
ティーカップがアーラの前に置かれた。ほかほかと湯気立つ花の香りが部屋に充満する。
「少なくとも『この村にはいない』と確信させる。そのために俺たちの次の目的地を知らせるんだ。
" 厄災 " が動くのなら、この村に居座る理由なくなる」
「それが迷惑をかけない方法なのか?」
理解したのかしていないのか、アーラは眉間に皺を寄せて紅茶を飲んだ。「熱いぞ」と老人が声をかけたのも関わらず、飲み干したティーカップの底に茶葉の屑が浮かんだ。
蓮慕もつられてカップに口をつけるが、上唇に走った熱で思わず机に置き直した。
「それで、お前たちはどこを目指して国を出たんだ?」
老人が机に肘を置いた。蓮慕は返答に詰まり、アーラを振り返った。
アーラはきらりと目を輝かせ、白い歯を魅せた。
「さあな!」
「え…?」
蓮慕の口から思わず漏れた言葉に、アーラは反応もしなかった。
その様子を老人は鼻で笑う。
「お前たちの旅には目的地がないのか?」
「いや俺は、永遠の夜が……」
「無いさ。オレはただの冒険家だ。誰も見たことがない場所へ向かうために旅をしている」
アーラの空いたカップに、再び紅茶が注がれた。
蓮慕が呆れて頬を掻くと、シャツの袖から少し顕になった右腕に老人が目を止めた。
「それは?」
「ああ、ただの火傷だ。……多分」
蓮慕の右腕は赤く、傷と水脹れがあちこちにある。
老人が訝しげにそれを見つめ続けると、観念したかのようにため息をついた。
「これは、蓮華の一族……がどうとかで。まあ、ちょっと…怪我をした。
俺はそれについてもっとよく知りたくて、こいつと国を出た。
生きていたら、いつか自分の命の意味を見つけられるんじゃないかって」
アーラがまた一気にカップを飲み干し、「大袈裟だな」と笑った。
老人は大きく鼻から息を吐いた。
「その一族とやらはよく知らないが…二人とも若いのに、大きなものを背負っているんだな。大したもんだ」
老人は視線を落とし、テーブルの下で拳を握りしめた。その背中は小さく見え、しおれているようだった。
蓮慕もカップを空にすると、机の上の地図を丸めてアーラに押し付ける。
「そうと決まれば出よう」
「どこへ?」
「キャンプだ」
「何しに?」
蓮慕に釣られてアーラも装備を身につける。少し磯の香りが残っていたが、全て乾ききっていた。
「噂や目撃証言じゃ、兵団は大きく動かない。直接王国軍の前に出て、煽ってやるのさ」
口角の上がった蓮慕を見て目をまるくしたアーラは、ぶっと吹き出した。
「お前、大胆になったなあ。キャンプにいる兵士たちは一応同僚だろ」
「だからこそ王国軍の動きが読めるんだ」
笑い合う若者二人を背後を老人は一人見つめる。ふと振り返った棚の上には、医療器具の上に古い手紙が置かれていた。封筒の宛名はかすれ、茶色く変色している。
「キャンプは、広場の後ろの森の中だ」
その言葉に、リュックを持ち上げたアーラが振り向いた。
蓮慕も手を止める。
「今の村は、兵士たちの暴挙に疲れ果てている。あの子達をこれ以上怯えさせたくない。
……任せたぞ」
老人がアーラの手を取る。しわがれた手が温かく、アーラは一瞬驚いたようだったが、子供のようにふにゃりと笑った。
「おう!」




