2.5 焚き火
「なあ、目的地がないって本当なのか?」
「ん?」
月明かりを頼りに広場を抜けた。村は静まり返っていて、明かりのついた家はなかった。
二人が森へ入ると、月明かりは木々に遮られ、森の中は闇に沈んでいた。
「さっきあの人に言ってたろ。誰も知らない場所へ行く、って」
「うーん……どうだろうな」
蓮慕が足元の樹根につまずいた。
アーラはまるで昼間と変わらないといったようににどんどん進む。
「牢屋で親父の冒険記をみせただろ?オレはその記録に追うように旅をしてる。
ユスティシアも親父の通った道の一つだった……まあこの村は想定外なんだが」
「じゃあ、次に向かう場所は決まってるんだな?」
「ああ。ここから少し遠いが、大きな都市へ行くぞ」
アーラが足を止めた。
蓮慕がアーラの背中にぶつかるが、アーラはびくともしない。その視線の際にはほのかな灯りが見えていた。
「あれがキャンプだ」
それは焚き火の灯りだった。パチパチと音を立てて燃える炎をテントが囲み、外では数人の兵士たちが酒を飲んでいた。
影の茂みに潜んだアーラと蓮慕は、彼らの声に聞き耳を立てた。
「まっずい酒だ」
炎に照らされた兵士の顔は赤く、焚き火のせいだけではないことがわかる。しゃっくりと共に持っていた酒瓶を投げると、蓮慕の足元に転がってきた。
「…!」
酒瓶につけられたラベルは、村で採れた果実を元にしたものだった。蓮慕は老人と回診で村の中に訪れた際、小さな屋台で売られているのを覚えていた。
当然、代金は支払われていないのだろう。
蓮慕が酒瓶を手に取り、じっと見つめているそばで、アーラは訝しげに囁いた。
「なんだお前、酒好きなのか?」
「アーラ。次に向かう街の方角は?」
「えっと、確か東だ」
蓮慕の表情は曇り、手にした空瓶をギュッと握りしめた。広場で見かけた、籠を持った女性の震える肩を思い出した。
「じゃあ王国軍を西へ誘導しよう。お前を追って来させるんだ」
アーラの表情は暗闇でもわかるほどぱあっと輝き、「なるほど」と2回呟くと、蓮慕の瞬きの合間に立ち上がって焚き火の前に出た。
酒瓶を手にした兵士たちはぎょっと静止し、暗闇から突然現れたそいつに呆気に取られた。
茂みに残された蓮慕の頭も真っ白になる。
「オレらは西へ向かうぞ!!!」
アーラの瞳の中で炎が揺れる。蓮慕の喉の奥には唾がつっかえた。
「な、何してんだ!」
「え?」
兵たちは不思議そうな顔を残したまま、腰を瞬時に起こし、そばに置かれていた剣を手に取った。さすが訓練された兵士と言える動きだった。
蓮慕が慌ててアーラの腕を引っ張ると、焚き火の炎がそよ風とは逆方向に揺らいだ。
兵士の鋭い剣が炎ごと切ったのだと気づくのに数秒遅れ、蓮慕はアーラを連れて暗闇へと紛れた。
「何してんだ?」
「こっちのセリフだ!!!あんな堂々と敵の前に現れる奴があるか!」
「だって誘導しようって」
「もっと作戦を練ってから……!」
月明かりは雲に覆われた。
兵士たちは暗闇には決して入らず、焚き火の光の届くところへ立ち、森の奥に目を凝らした。
酔っ払っていた視線は別人のように鋭くなった。
そのうちの一人が、背の高い雑草をかき分けながら、闇に一歩踏みだす。
「……知ってる顔だぜ、あいつ。軍の若い衆で一番腕の立つガキだろ?」
その言葉に蓮慕はぐっと動きを止める。
アーラは蓮慕の腕に抱えられ、樹幹の裏で共に息を潜めた。
「ギロチンの手前で逃亡したって聞いたぞ」
「どれくらい強いか腕試しさせてくれよ!最近まずい酒を飲んでばっかりで、体が鈍ってるんだ」
脂汗が滲む蓮慕を見て、アーラは耳打ちした。
「もう西へ行くって言ったんだからよ、全員ボコって東にトンズラしようぜ」
「俺は剣を持ってないんだぞ!」
その言葉に、アーラは足元に落ちていた小枝を蓮慕に手渡す。
申し訳程度に生えていた枯葉がポトリと落ちる。
「いや無理だって…」
樹木の影から蓮慕が様子を見ると、兵士の手には幅の大きな剣。銀色の剣身が草木を真っ二つに割った。仕事中に飲んだくれるような兵士ならまともに使ったこともないだろう、と嫌味が頭をよぎる。
「だけど、このまま逃げ切れる確証もないな」
風に吹かれて炎が揺れた。濁った雲から月が顔を覗かせ、アーラの透き通る金髪がきらりと光った。
弱光に迷わず反応した兵士はこちらへまっすぐ走り出した。
「くそっ」
即座に立ち上がってアーラの腕を引く。
ふわっと軽くなったかと思うと、アーラは並外れた速度で迷わず走り出し、蓮慕の腕を振り払って、暗闇をものともせず森の中へ消えた。
蓮慕は樹根につまずき、よろめいた。あっ、と思考が停止した瞬間に、視界の端に兵士の足が見えた。
横腹に衝撃が入る。
「ぐっ…!」
世界がひっくり返って土の香りがしたかと思うと、目の前には樹根に蔓延った苔が現れた。
月明かりが辺りを照らす。
蓮慕の前には屈強な兵士が立ちはだかっていた。
「思ったより弱えなあ」
遅れて他の兵士も追いつく。
腰には剣がない。アーラの足音も聞こえなくなった。
顔をしかめた蓮慕の髪を掴み、兵士たちは無理やり立ちあがらせた。
「逃げ切れるとでも思ったか? " 厄災 " はどこだ?」
兵士は蓮慕の頬を軽く叩き、ニヤリと笑った。
月光が木々の隙間から届く。蓮慕はその顔にどこか見覚えがあった。
赤子の鳴き声、月明かりが照らす土埃、ひっそりと静まり返った街。
兵士の口元からも笑みが消えていった。
「おいおいおい…お前まさか、移民街のガキか?」
心臓が跳ねた。身体中の動脈に血が通っていくのがわかる。
あの夜の血の匂いと、怒号を忘れたことはない。
「あ…!? もしかしてジョゼフを殺した、あの?」
間違いない。あの夜の兵士だ。
蓮慕は鼻から息が吸い込めなくなり、眼球に血が通るのを感じた。
「こんなところで再会するとは、縁があるなあ」
兵士が蓮慕の髪を離すと、蓮慕はふらつきながら木にもたれかかった。
右肘が熱くなる。月明かりが途端に眩しく思えて、視界がくらくらした。
頭が真っ白になって、何も考えられない。手足が言う事を聞かない。
蓮慕を囲んで見下す兵士たちは去勢を張るように口角を上げているが、その目の奥には怒りが静かに燃えていた。
みぞおちに衝撃が入る。
鈍い音と共に耳鳴りがして、顎が揺れた。
____お兄様
春の陽気のような声が、脳裏にこびりついて離れない。
母さんが死んでから、変な夢をよく見るようになった。
台所の床で冷たくなった母さんが、口だけを動かして俺に話しかけてくるんだ。
カレンは?
俺は膝を抱えて後ろを向いている。
母さんに突き刺さったままの包丁が、バランスを崩してカランと床に落ちる。
カレンはどこ?
カレンは無事?
カレンは泣いていない?
カレンはどこ?
あなたが守るのよ
せめてカレンだけは
佳蓮だけは守り抜いて
佳蓮はどこ?
カレンはどこ?
佳蓮が死んだのは______
どすん。
鉄球を引きずる音が遠くで聞こえる気がする。
背後にずっと誰かが立っている気がする。ずっとこちらを見ている。
振り向いたらいけない気がして、無視して歩く。
そのうちに声はどんどん近づいていって、耳元で何かを怒鳴り始める。
焦点が合わなくなる。視界にねじり込まれてくる血色の無い顔が、俺をまっすぐ見ている。手足はぐにゃぐにゃに曲がって鉄球の重さに引きずられていく。
目を合わせてはいけない気がして、だけど目を逸らすのもいけない気がする。
気づいたら俺の両足にも鉄枷がついていて、そのうち俺は前に進めなくなる。
カランと包丁が床に落ちる。
どすんと鉄球の衝撃が広がる。
目の前から歩いてくるあの軍帽が、盛り上がった頬を見せる。
_____蓮華の一族
「いつまで殴られてるんだよ」
布が取られたように頭のモヤが晴れた。
力を振り絞って視線だけ上に向けると、木の上にアーラが座っている。
琥珀色の瞳はまるで月が3つあるかのようだった。
「" 厄災 " だ……!」
兵士たちは頭上のアーラの声に一歩後退して、慌てて剣を引き抜いた。
皆が驚きの表情でアーラに視線を寄せたとき、蓮慕は重い身体を起こした。
ふくらはぎに熱がめぐる。
肺は素直に膨らんでくれた。
木々の間を通り抜けた風が、落ち葉を巻き上げる。
「何も知らないまま……死ねるかってんだ」
葉の擦れにかき消された蓮慕の声は、兵士たちの耳には届かなかった。
アーラが枝の上に立ち上がると、兵士たちが強張って剣を構える。
彼らは完全に " 厄災 " だけが目に入っていた。
うち一人が「がっ」と鈍い声と共に白目を剥いて倒れた。
兵士たちがゆっくり振り返ると、幹に燃え移った炎があっという間に葉の先まで広がった。
「え…?」
昼間のように明るい。
焚き火からは随分と離れている。
突然上がった火柱に呆然とした兵士は、あの夜の匂いを思い出した。
兵士たちは母を殺し、妹を奪い、少年を袋叩きにした。
少年に刺されたジョゼフの顔は酷く怯え、真っ青になって事切れた。
ジョゼフは死ぬことが怖かったのではなかったのだ。と、兵士はどこか冷静に考えていた。
こいつだ。
ジョゼフはこいつに恐怖を与えられて死んだんだ。
「蓮慕?」
アーラの呼びかけに蓮慕は答えない。右腕から吹き出し続ける炎は威力を増し、赤から青へと色を変えた。
目の焦点は合わず、左足を踏み出して、業火に包まれながら振りかぶった。




