2.1 水平線
寸分先も見えない霧の先でぼんやりと浮かび上がる人影。
人影は遠くへと歩みだし、次第に小さくなっていく。
その背中へ伸ばした手は空を掴んだ。
________お兄ちゃん___
「カレン?」
霧が足元にまとわりつき、重さを増して行手を阻む。
歩いても歩いても近づくことはできない。
人影がこちらを振り向くと、柔らかな猫っ毛が宙に舞った。
視線を感じ、蓮慕は足を止めた。
「……カレン」
人影はじっと蓮慕を見つめると、再び遠くへ向かって歩き出した。
ぬかるんだ地面ではなかなか前に進まない。
踏み出すほど身体が沈み、気づいた時には膝が浸かって一歩も動けなかった。
「カレン、待ってくれ! カレン!」
蓮慕の叫びに立ち止まることなく、人影は霧の奥へと薄れていき、形も捉えられないほど小さくなっていった。
「クソ……クソッ!」
拳で地面を叩くと泥が跳ねた。
足掻けば足掻くほど深くまで沈み、重い沼の中で四股は固まり、締め付けられて呼吸が滞る。
ゆっくりと瞼を閉じた時、耳元で低い声が響いた。
___どうして助けてくれなかったの?
辺りに響く波の音。
上空からしつこく降り注ぐ太陽。
上体を起こすと、びっしょりと濡れた服がまとわりつき、強く握りしめた拳からは白い砂が漏れ、足元は重く沈み込んでいた。
視界を覆う水平線は膝下まで押し寄せ、また奥へ引いていく。
「……ここは…」
太陽が反射する群青の海。熱が籠った柔らかな砂浜。
木片と化したボートが浜辺に打ち上がり、押し寄せる波に揺れている。
後ろを振り向くと、浜辺から線を引いたように密林が広がっていた。
艶やかな緑の葉は密林の奥まで生い茂り、木々の先には影が続く。
弾かれたようにポケットの中を探ると、青いビロードの箱が出てきた。
中のペンダントもちゃんと入っている。海水には浸かっていなかった。
ほっと胸を撫で下ろし、隣に倒れるアーラに目をやった。
ローブは塩水に濡れ、藻が張り付いている。
蓮慕はその藻を剥がし波の中へ放り投げると、アーラの肩を揺らした。
「起きろ、アーラ。どこかに着いた」
アーラが起きる気配はない。
鼻に手をかざすと微かに息があった。
外傷は無いようだが、どれだけ頬を叩いても目を覚まさない。
「生きてはいる、みたいだな」
蓮慕は浜辺の先に広がる密林を見上げた。
奥から野鳥の声がこだまする。太陽はじきに沈み、夜が来れば灯りは無い。
アーラの抱える荷物の中に野宿のための道具があるかもしれないが、本人が気絶している最中に漁るのも気が引ける。
大きなため息を吐き出すと、蓮慕はぐったりと項垂れるアーラを背負い、浜辺を背に森の奥へ足を踏み入れた。
「こいつ、本当に……人間かよ……!?」
独房の鉄格子をすり抜けてしまいそうなほど華奢だった身体は想像以上に重い。
ローブの下に潜めていた大量の荷物や武器を外し歩き始めるが、それでもこの重量。
兵士として育てられる中で、血の滲むような訓練を繰り返し相当な力をつけて来たが、自身の服も海水に濡れているのも相まって、鍛錬の日々は全て無駄だったのではと思うほど身体は重かった。
どのくらい歩いただろうか。
蓮慕の息は荒く、足は音をあげ、一刻も早く背の大岩が目を覚まして自分で歩き出してくれるのを願うばかりだった。
生い茂る熱帯植物。
踏み固められた道はなく、草木をかき分けながら進む。
蓮慕の衣服は棘や枝で裂け、虫に曝け出された肌が痒み始めていた。
右腕に焼いたような激痛が走る。腕の表面に血が通っているのを感じ、顔を歪ませた。
異様な気配に蓮慕は足を止めた。
「……!」
ガサガサと草木をかき分けて走っていく動物の気配。
日が沈む前に安全な場所を見つけなければと焦りが募り、息を吐きながら疲れた身体に鞭を打つ。
顔を上げたその時、木々の先に妙な影が見えた。
「あれは…」
残った体力を振り絞り進むと、開けた場所に出た。
周囲の木々は刈られ、太陽が真っ直ぐ見上げられる空の下には、ぽつんとそれが座っていた。
大きな鉄の塊。
部品の欠けたプロペラ。
突出したガラス張りの小さな空間には一脚の椅子。
「…これは……?」
鳥のような形をした巨大な鉄塊だった。
動きだす気配は一向になく、ただそこに寝ていた。
地に伏せた車輪には蔦が登り、苔が全体を覆っている。
蓮慕は鉄の残骸に目を奪われ、背負っていたアーラが地面にずり落ちた。
木陰に阻まれていた太陽は、切り株が並ぶその空間だけに真っ直ぐに降り注ぎ、そこはまるで遺物の墓のようだった。
「見ない顔だな」
背筋を駆ける悪寒。
「誰だ!?」
振り向くと、小柄な老人が後ろに立っていた。
肩に手ぬぐいをかけ、麦わら帽子を目深に被り、手にした袋からは野菜がのぞく。
蓮慕は習慣のように自分の腰に触れる。
しかし剣は無い。握り慣れた剣は牢で取り上げられてしまっていた。
老人は足元に倒れるアーラを見下ろした。立派な髭で口元が覆われ、表情がわからない。
アーラは気絶したまま地面に伏せている。髪は乾き始めているようだった。
「怪我人か? とりあえず入りなさい。私が診てやろう」
老人は警戒する蓮慕のそばを通り過ぎ、鉄塊につながる階段を登って扉に手をかけた。
耳が引きちぎれるような金属音を立てて重い扉が開く。
老人はその中へ消えてしまった。
呆気に取られた蓮慕は中でガサゴソと生活音を立てる老人に声をかけた。
「これ…あんたの家なのか?」
自慢げに覗く髭。
「そうだ」
蓮慕は乾いた下唇を噛みしめ、この状況でさえ起きないアーラを引きずり、謎の異物に近づいた。
「これは…一体なんだ?」
階段の下で、蓮慕は異物の前方に反り出した部屋を見た。中には椅子が置かれているようだったが、窓ガラスが汚れていて、よく見えなかった。
「私もよくわからない。いつの時代からかここにあったのさ。
家にするにはちょうどいいだろう?」
鉄の扉を潜ると、外からは考えられないほど普通の暮らしがあった。
たくさん並ぶ小窓のそばには鉢が並べられ、植物や花がみずみずしく伸びる。
台所には食べかけのパンやチーズが保管され、トイレには花柄のスリッパが備えられ、風呂場には水垢がついたボトルが並ぶ。
狭い空間ではあったが、老人の暮らしが垣間見えるような暖かさを感じた。
「そこへ寝かせなさい」
空間は簡易的に仕切られており、一番奥のカーテンを開けると、清潔なシーツに包まれたベッドが置かれていた。
蓮慕はアーラの装備を外し、広げたタオルの上に慎重に寝かせた。微かな息が繰り返される。アーラも蓮慕も磯臭く、アーラの顔にはまだ砂がついていた。
アーラの荷物を隅にまとめ、部屋を見渡した。
壁には無数の薬草が干され、棚にはラベルで分けられた瓶や書物。
カーテンが開いていると、部屋と部屋がつながっているようだった。海の香りが漂うベッドの隣で、老人が台所の蛇口をひねり、洗い物を始めた。
「医者なのか?」
「そうだ」
蓮慕がダイニングテーブルの椅子を引いて座ると、老人は冷たい水が入ったコップを差し出した。
ごくごくと飲み干してしまう間、老人は手を拭きながら、アーラに近づいてじっとその姿を見つめた。
「あっ、それは……」
蓮慕は慌てて立ち上がった。
アーラはローブに包まれているのだ。
気絶ゆえに閉じた瞳が現れないのが不幸中の幸いか、その姿を晒してしまえば王国軍に突き出されるかもしれない。
老人は躊躇いながらも、そのベールを剥がした。
銅のように艶やかな褐色の肌。
太陽の光を閉じ込めたような輝く金髪。
老人が蓮慕を見る。
「そこの聴診器を取ってくれ」
「え……?あ、ああ」
心臓が縮まる。指先が震える。
アーラが起きた時にはギロチン台の前かもしれない。
いつ通報されるかわからない。
この場所がユスティシアからどれくらい離れているのか、見当もつかなかった。
乱雑に積まれた箱の上の聴診器を手に取ると、つまれた資料の上から一枚の紙が床に落ちた。
汚い走り書き。紙の色がひどく変色している。
古い手紙のようだ。
「早くしなさい」
蓮慕は手紙を元に戻し、慌てて老人に聴診器を渡した。
老人はその後も様々な器具を使って黙々と診察を続ける。
アーラの瞼を持ち上げた時、蓮慕は思わず立ち上がったが、老人は何食わぬ顔で診察を続けた。
手の中のコップがすっかりぬるくなると、老人は全ての器具を片付けた。
「よし、問題はなさそうだ。そのうち目を覚ますだろうから、このまま寝かせているといい」
老人は椅子を引いて蓮慕の隣に座った。
窓から差し込む陽の光。磯の香りが割れた窓から出ていく。
ベッドの上、濡れていた金髪は少し乾き、穏やかに寝息を立てている。
蓮慕は水滴のついたコップを置くと、静かに口を開いた。
「なんで何も聞かないんだ?」
老人はアーラに目をやった。
「…面倒なものを持ち込みやがって。聞けるかってんだ」
唾を飲んで俯いた。
老人はきっと、わかっている。
「もうすぐ陽が沈む。今日のところは風呂に入って寝なさい」
「え、あ…」
「あとそいつの体も吹いてくれ。磯臭くて敵わん」
老人はカーテンで閉めると、奥の部屋へ行ってしまった。
ぶっきらぼうに置かれたタオルを手に取り、蓮慕は起きないアーラを睨みつけた。




