酔っ払いと殺し屋と、元リアルバウターの職人と
全国展開チェーン店である、居酒屋のカウンターで、一人の男が酔い潰れている。
見るからに一言で、デブだ。
お世辞にもイケメンではない。
鼻が潰れた団子鼻、耳もまるで餃子のように潰れていた。
むさ苦しい、という表現がこれほど似合う男もいないのではないか。
深沢賢治だった。
勇吾にスパーでボコボコにされてから、はや一月が経っていた。
勤務先の警備会社「ASKLOK」に辞表を出したのは五日前、それ以後は出勤していない。
たまっていた有休を消化させてもらってから、退職するつもりになっていた。
会社を辞めようとおもったのは、あのスパーから一週間ほどしてからである。
理由は、先ず、陽香と顔を合わせづらい。
これは、同僚に振られた経験のある人間ならば、分かると思う。
次いで、社内では散々大きな顔をしていたにも関わらず、勇吾にボコられたというウワサがあっという間に広がり、立場を失くしたことだ。
何となくだが、接する同僚らの態度がどことなく、自分を蔑んでいるように感じるのである。
本当にそうだという人間ばかりではないはずなのだが、何しろがそれまでの深沢の勤務態度を含めた素行が、悪すぎた。
自分でもその自覚があるだけに、それだけに余計、肩身が狭くなった。
しかし、これらの理由は後付にすぎない。
何と言っても最大の理由は、勇吾の姿を見ると無意識に、コソコソしてしまうようになったことだ。
一言ではっきり言えば、怖くなったのである。
勇吾のことが、純粋に怖い。
顔を見るのも姿を見るのも、声を聞くのですら、とにかく恐ろしくてたまらなかった。
あの夜、ボコボコにされて半ば身体を引きづるように帰る羽目になってから、どうしても、勇吾の影を感知すると体が強張るのである。
完全に、トラウマになっていた。
勇吾から姿を隠すように立ち回ることが、社内で多くなった。
こんな状態で、惨めに思わない男はいまい。
さすがに深沢もそうだったと云える。
辞表の翌日は、ぼうっとしたまま一日を過ごした。
翌日からは、二日続けてパチンコ屋にいた。
そこで久々に大勝ちした金で、昨日は仙台の繁華街、国分町の性風俗店に出かけて、溜まっていた欲求を晴らしたところだ。
そして今日は日中、風俗疲れで眠りこけ、夕方になってから呑みに出たのである。
この店で、三軒目だった、
馴染みのキャバクラでは、贔屓の女の子が休みだとかで不在だったこともあり、長居しなかった。
もっともこれは、深沢にやたらとボディタッチを狙われるのが嫌で、女が店長と示し合わせて居留守を使ったせいもある。
何しろが酒の勢いを借りて、客の立場を良いことに胸やら尻やらにやたらと手を伸ばされたら、誰でも嫌気は差すというものだ。
二軒目のバーでは、入口を潜ろうとした時点で黒服に、露骨に顔を顰められた。
基本的にどこの店でも態度と素行が悪いことで、深沢は嫌われていたのである。
そのような感じで、三軒目のこの店に入った時は、すでにへべれけだった。
足はもちろん、千鳥になっている。
呂律が回っているのが不思議だった。
全ては、勇吾への恐怖を紛らわすため、そのためだった。
思い出すと、恐ろしくなる。
忘れようと酒と女に狂い、逃げようとすればするほど、結果として思い出す。
ゆえに、逃れられない悪循環に陥っていく。
「ちくしょう・・・・」
呟きにもならない嘆きを洩らし、深沢はカウンターに突っ伏した。
彼の右手が卓上で伸びたせいで、巻き込まれた猪口と徳利が床に落ちて跳ねる。
けたたましい、とまでは行かずとも、騒がしい音が店内に響いた。
店の入口の引き戸が開き、男が一人入って来たのはその時だった。
迷彩柄の上下に編上靴、アーミールックと一目で分かる格好だ。
背は、高くはない。
夜だと言うのに、サングラスをかけている。
「いらっしゃいませ」
気づいたバイトの女子店員が、すぐに声をかけながら近づいた。
何名か、と問われる前に、人差し指を一本立てる。
一人、ということらしい。
「カウンターでよろしいでしょうか?」
女子店員の問いかけに答える代わりに、無言でカウンターの席に座った。
深沢が座っている席の列、一番端の、最も入口に近い席だ。
深沢が座っていたのは、反対に入口から一番奥になる。
「生ビール、中一つだ」
低い声で注文し、他につまみを三品ほど頼んだ男は、ちらりと深沢を見たが、すぐに目を逸した。
基本的に他人に興味はないらしく、後は見向きもしない。
ポケットから紐のようなものを取り出し、肩まで垂らした長髪を束ねた。
食事の邪魔、だからだろう。
目の前に置かれたおしぼりで、手を拭き、腕時計を外してバンドの汗まで拭いている。
いまや軍用腕時計の代名詞になっていると、そう言える某メーカー製だった。
腕時計をつけ直した時、良いタイミングで中ジョッキが運ばれて来た。
取っ手をつかみ、一気に飲み干す。
カウンターの中で、それを見ていた店員、恐らく店長らしい男が僅かに、声もなく感嘆した。そのくらい、いい飲みっぷりだった。
アーミールックの男が無言で、空になったジョッキを示し、おかわりを注文した時である。端でカウンターに伏せて寝ていたはずの深沢の寝言が重なった。
「ちくしょう、上村ぁ・・・」
聞き留めたらしく、アーミールックが僅かにサングラスの視線を向ける。表情に変化があったかは、むろんサングラスの奥で隠れていた。
だが、何やらの興味は引かれたらしい。
一言も発しないまま、席を移動した。
深沢の、隣の席へ。
新たなジョッキと一緒に運ばれてきたつまみを、ここへ、と女子店員に目で合図する。
品々が目の前に置かれたところで、アーミールックは初めて質問を口にした。
深沢に、だ。
「上村というのは、上村勇吾のことか?」
ジョッキを手に、前を向いたまま尋ねる。
対する深沢はと言えば、己が左腕でつくった枕に顔を伏せたまま、顔を上げない。
何やら唸っただけである。
完全に、飲んだくれていた。
「おいっ!?」
アーミールックが、深沢の腕を軽く叩きながら、再び尋ねた。
「あんた、上村勇吾を知ってるのか?」
ここでようやく、深沢はビクリと肩を震わせるなり、ゆっくりと顔を上げた。
もっとも、酩酊状態のため、目が濁っている。
まるで、死んだ魚と同じだった。
焦点が、合っていない。
アーミールックが、さらに質問を重ねた。
ずいぶんと、辛抱強い男だ。
声に抑揚がない。
「上村勇吾だ、知ってるんだろ?教え・、」
教えてくれ、と言おうとして、言葉を飲み込まざるを得なかった。
質問の途中で深沢が男の迷彩柄の襟首をつかみ、引き寄せたからである。
「うるせえっ、オレの前でその名を出すんじゃねえっ・・・・っ」
おそらく、呂律が回らない口調なので分かりづらいが、こう言ったものだったのだろう。
キス出来そうなほどに、顔を接近させるなり、そう喚いていた。
酒臭い息を吐きながら、だ。
さすがに生理的な拒否反応で、アーミールックが思わず、眉を顰めたようだった。
だったが、同時にこれ以上ない肯定の返事も聞いた。
その名を、と言ったのがそれだ。
知っている。間違いない。
「聞かせてもらおうか」
抑揚はそのままだったが、アーミールックの声が据わり、ドスの利いたものに変わった。
同時に己が襟首を掴んでいた深沢の右手首を、掴むでもなく左手を添えている。
途端に、だった。
「ぐあぁっ・・・・」
特に力を入れたようには見えないにも関わらず、深沢が苦悶の呻きを上げていた。
掴んでいた襟首から手を離し、まるで激痛から逃れようとするかのようにしゃがみ込む。
むろん、アーミールックの男は、深沢の右手首に軽く手を添えたままだ。
例によって、掴んでいるようには見えない。
「テっ、テメェっ・・・・」
深沢が、怒気の孕んだ叫び声を上げたところで、カウンターの中にいた店長が声をかけて割って入った。
「ちょっと、お客さん、揉めるんなら外でやって下さいよ。ほかのお客様に迷惑なんで」
怒鳴るでもなく、落ち着いた正論で諭すように言った。
カウンターの近く、二つ三つのテーブル席で飲んでいた若者グループや、会社帰りらしいサラリーマン風の男たちが、何事だろうと不安そうに見ている。
ゆっくりと周囲を見回したアーミールックは、すぐにそのことに気づいたらしい。
「それもそうだな」
外で話そう。
言うなり、深沢の手首を掴んだまま、会計に向かった。
深沢はというと、苦痛に呻きながらついていく。
アーミールックがいったい、どのような仕掛けでそうしているのかは分からないが、どうやら深沢は、激痛から逃れるためにはそうするしかなくなっているようだった。
会計で女子店員に、ポケットから出した一万円札を渡す。
「釣りは要らん、騒がせた迷惑料だ」
言いながら、外に出て行った。深沢を引きづるように、である。
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入口の扉から外に出たと同時に、深沢が左手を振った。
拳、である。アーミールックの顔面めがけてだった。
とりあえず、振り払う目的もある。
当然、迷いも遠慮もない。
「っらあっ!?」
酔気か分かる、そういう怒号だった。
咄嗟に躱したアーミールックが、掴んでいた手首を、結果として離していた。
あるいはわざと離したものか。
どちらにせよ、深沢の意図した狙いは、外れなかったことになる。
アーミールックはとりあえず、という感じで一旦、間合いを切った。
もっとも、その必要はなかったが。
なぜか?
深沢がその場で、右手首を擦っていたからである。
「おいっ、痛えじゃねえかよっ、テメェっ」
かなり酔いが回ったと分かる、呂律は回らない口調で怒鳴った。
「どこの何モンだ、名乗れよ、この野郎っ・・」
どうにか、ニュアンスで意味だけは聞き取れたらしい。ここでようやく、アーミールックが名乗った。
「狩野、洋明」
なんと、あの狩野洋明だった。
上村勇吾の生命を狙っていると覚しき、元傭兵の殺し屋。
阿部真二の道場「錬義館」を訪問し、阿部とかなり手荒い「手合わせ」になったのが、つい二週間ほど前のことである。
最後はつい、その気にさせられたせいで、愛用の拳銃まで抜かされる羽目になった。
それだけ、阿部の空手技が心技体すべてにおいて冴えわたっていたからだ。
この時は結局、阿部の門人の小学生が数人、稽古にやって来たことで強制的に勝負打ち切りになっていた。
「近いうちに、いずれまた来る」
ベレッタを懐に素早くしまいながら、そう言ったきり道場を出たのである。
タイミング良くそれと同時に、道場に入って来た子どもたちには目もくれずに、だった。
その後で子どもたちが、阿部に狩野のことを色々尋ねていたのを、むろん狩野は知らない。
さて、その狩野である。
夜の街で、何か勇吾のウワサを拾おうとでもしていたものか、それともただ、呑みに入っただけだったものか。
あるいは両方か。
この、今夜の場合は多分、両方だったのだろう。
「狩野?カノウってのか、アンタ?今どき何だよ、迷彩服なんか着てよっ、仕事は何だよ、自衛隊かぁっ?!」
「いや・・・」
狩野はサングラスをしたまま、表情を変えずに答えた。
「傭兵だ、元はな」
「元、傭兵・・・?おいおい、冗談にしても笑えねえぞ・・・・」
へっ、まるで鼻を鳴らすように、 深沢が吐き捨てる。
「元、ってことは、今はどういう仕事してんだ?コラっ!」
「そうだな・・・・」
狩野はまた、抑揚のない声で、まるで呟くように言った。
「・・・殺し屋、とでも言っておこうか」
「・・・・あぁぁんっ?な、ん、だ、とおっ・・?」
深沢が足を千鳥足に踏み変えた。回らぬ呂律で喚き散らし、騒ぐ。
「言うに、事欠いて、コロシ、やぁ?冗談、も寝言、も、大概にしろ、よ、このヤ、ロウ・・・」
深沢が、怒りなのか酔いによるものか、分からない朱い顔を向けた。
見たが早いか、唸る。これも酔っていたからか、それとも怒りからか、
唸るなり、深沢が右ストレートをら突っかけた。狩野に、さらに唸りながら。
だが、いかんせん、酔いすぎていた。
足が、上体について行っていない。
ほとんど踏み込みのないまま、右拳を振り回す格好になった。
当然、狩野が難なく躱す。右に身体一つ分、体を開いただけである。
標的を失って空を切った深沢の右拳が、体を泳がせた持ち主の上体ともども前方に流れた。
そのまま、派手につんのめるように倒れる。
まるで見えない何かに、足を取られたようだった。
「やめておけ」
自らの腹を路上に打ちつけ、苦痛を洩らした深沢に、冷静に告げた。
「そんな状態じゃ、子どもとケンカしても勝てんぞ・・・」
「う、う、うっ、る、せぇっ!?」
ヨタヨタと立ち上がった深沢が、今度は吠えるように気合いを発すなり、両手で狩野に掴みかかった。
掴んだ。
右手は狩野の胸ぐらを、左手が同じく狩野の右袖口を。
完全に、投げに行く態勢になっていた。
(これなら、絶対に負けねえ、逃さねえぞ)
深沢は間違いなく、そう思ったはずだった。
こと、一対一の実戦となった場合、柔道家に掴まれたらほぼ、逃げようはない。
投げられるか、絞められるか、それとも関節を極められるか、いずれにしても捕まえられたら、即、終わりを意味する。
それが本物の柔道であり、ある程度以上のレベルに達した柔道家は、例外なくそれが出来る。
ゆえに、深沢が勝ちを確信したのも無理はなかっただろう。
だが、それはあくまで、普通ならの話しだ。
そして深沢にとって不運なことに、今晩のケンカの相手は、普通ではなかった。
最初、視界がぐるりとした時、自分の投げがかかっているからだと思った。
次の瞬間、なぜか月が見えていた。
なぜ、投げているはずのオレの目に、月が見えてるんだ?
そう思った時、背中から後頭部にかけて、いつ以来かの衝撃が来ていた。
遅れて、全身に激痛が広がっていく。
受け身をとることさえ許されないまま、派手に見事に投げられたのも久し振りだった。
それで悟った。いや、悟らされた。
投げられたのは、オレか。
それと同時に、意識が黒くなっていく。
失神したのであった。
「・・・ヌルいな・・」
深沢から手を離しつつ、狩野の口から呟きが洩れた。
「その程度の投げじゃ、戦場の白兵戦では通用せんよ」
言いつつ、仰向けで伸びている深沢の顔面に、容赦なく編上靴の足裏を踏み下ろす。
血しぶきとともに、前歯が何本か折れて消し飛んだ。
戦場では言うまでもなく、即座に止めを刺すのが鉄則であり、作法というものだ。
そう言いたげに、狩野が深沢を見下ろした時だった。
「おいおい、容赦ないねぇ・・・」
いつの間にか、遠巻きに見ていた数人の通行人の中から、一人の男が進み出て来た。
どうやら板前らしく、白衣の上に革ジャンを引っかけている。足元は、サンダルだ。
年の頃は四十になるかならないか、というところか。
度の強そうな眼鏡を、右手の中指で持ち上げた。視線は狩野をまっすぐ見据え、外さぬままである。
狩野がわずかに、戸惑いともたじろぎともつかない反応を見せた。
サングラスに隠されているので、こちらの目からは感情は読み取れない。
だが、目の前に歩み出た板前風の男の、何かに気づいたのは確かなようだった。
白衣を着ているのでそうと分かるが、そうでなければ一見、サラリーマンにしか見えない。しかも、うだつの上がらなそうなタイプに見える。
しかしながら、パッと見た限りでは分からない、ある種の異様な空気というか、雰囲気のようなものを、この板前は纏っていた。
狩野はそれを、敏感に察知したのである。
戦場で否応なしに磨かれた、危機回避能力。
もっと言えば、生存本能に近いだろう。
その勘が、自分の足元で伸びている図体の大きな男よりも、遥かに危険だと告げたものか。
「アンタ、名は?」
考えるより先に、問うていた。
そうせずに、いられなかった。
「少なくとも、二、三人はヤッてるようだな、アンタも」
つけ加えて言う狩野に、板前が眼鏡の視線はそのまま、ぶっきらぼうに答えた。
己が名を、である。
「早川、新甲。元、リアルバウターだ。」




