女の困惑、嫉妬かジェラシーか、この苛立ちは何なのさ
仲村有美里は、黄昏時の道場の中央で正座していた。
清風館の道場内だ。
壁の天井と床の際にそれぞれ設けられた、明かり取りの通気窓から夕日の残照が差し込んでいた。
白の稽古着を着ている。だが、剣道の道着ではない。生地が剣道のそれに比べて、薄い。
これは、居合道着。そう、居合用の道着であった。
薄い生地とは言っても、十分な厚さはきちんと確保されている。一昔前の白のブラウスのように、例えばブラジャーのラインが透けてしまうようなことはない。
もっとも、現実には剣道の稽古着ですら、その豊かな胸の自己主張を抑えられていないのが、有美里の実際のところである。
それがより薄い生地の居合道着では、より際立つ話しだった。
その豊かな胸の盛り上がりが、上下している。脈打ち、呼吸が荒いと分かる。
明らかに、息が上がっていた。
よく見ると、すでに美しい顔が汗にまみれている。
額に、頬に、髪の毛がほつれてまとわりつき整った相貌に、若さに似合わない妙な色香のエッセンスを加えていた。
それもそのはずで、もう二時間ほども、居合の稽古をしている。
抜いた業の本数は優に五十本は下るまい。
居合道とは、動きが緩やかで脱力しているように見える分、一見すると楽で簡単そうに見える。
空手の形をやったことのある方ならば、なおさらそう思うことだろう。
しかし、その業や動きの緩急強弱をほぼ自在につけ、無駄なく力まずやってのけるには、並大抵ではない稽古量が必要となる。
簡単にやっているように見えるのは、それ相応の修業を経ているからこそなのである。
しかも、抜き付けにしろ切り下ろしにしろ、いざ相手━━居合で言うところの仮想敵━━を斬るその瞬間には、全身全霊で、というのが大前提である。
ゆえに、居合の稽古は見た目では分からないほど、かつ信じられないほどのキツさがあるものなのだ。
有美里の息が上がっているのは、そういうことだった。
部活が終わったその足で、道場にやって来た。
勇吾は、いない。
仕事なのか、キックの練習の日だったのか、師の今日の予定が思い出せなかった。
いや、思いだしたくなかったというのが、本音である。
その理由というのが、今日の学校にあったからだった。
それは、沢田香菜から聞かれた、たった一つの質問が始まりであった。
「何かさ、上村先生、彼女できたらしいよね?」
香菜が半分泣きそうになりながら、信じられないという顔で聞いてきたものである。
「彼女?何ですか、それ?」
アタシも聞いてませんけど、と言おうとしたのだが、出来なかった。
香菜が有美里の両肩を、痛くなるほどに掴んで来たからである。
(どこに、こんな力が・・・・?)
ひとこと、凄い形相である。
目には涙が溜まっているのに、有美里の肩には香菜の指先が容赦なく喰い込んでいるのである。
「か、香菜センパイ、い、痛いですよ・・・」
やっと、それだけ言った。
香菜が秘かに勇吾に恋い焦がれていたことは、有美里も知っていたことだ。香菜の想いがひしひしと、肩に刺さるほどの指先から伝わってきた。
あえて、そのままにさせていた。
さすがに、香菜もここで、そこのところに気づいたらしい。
「・・・あっ、ご、ごめんなさいっ・・・」
慌てて、有美里の肩から手を離した。
「センパイ、どういうことですか?」
己が両肩を交互に撫でながら、有美里は改めて問い返した。
それに対しての香菜の話しは、概ね次のようなものだった。
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一昨日のことだった。
大学進学に備え日々の鍛錬を兼ねて、まだ引退していなかった剣道部の部活を終えた香菜は、帰宅途中で市内のショッピングモールに立ち寄った。
愛用の文房具を新調するため、文房具店に入りたかったのである。
そこで、勇吾を見かけた。
その時の勇吾は、まだ、一人だった。
香菜から見て、十メートルほどの道向かいのファーストフード・ショップの前で、誰かを待っているようだった。
一方的ながら勇吾に憧れている香菜が、いつの間にか、その動きを目で追うことになるのは当然だっただろう。
声をかけようか、迷い、思い切ってかけようとした。
むろん、香菜にとってはかなり勇気を振り絞って、のことである。
だが、上村先生、と声を発しかけて、咄嗟に口を閉じていた。
勇吾の前に、誰が見ても一目で美人と分かる、若い女が現れたからである。
セミロングの栗色の髪が、清楚な色気を放っていた。
サラリと風に流れる様が、この距離でもなおシャンプーの香りを運んて来るようだ。
女が笑顔で二言三言、勇吾に何か言っていた。
顔が、かなり近づけられていた。
それだけで、かなり親密な間柄と分かる。
一瞬、香菜の思考が停止した、その瞬間だった。
女は人目も気にせず、軽く一瞬ではあったが、背伸びするなり勇吾の口唇に、己が口唇を重ねたのである。
香菜は視界が色を失くし、セピア色になった気がしていた。
勇吾も特に拒否せず、苦笑いしていた。
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(ありえない・・・)
香菜の話しを聞き終えてからもまだ、未だ有美里には、信じられない思いだった。
(あの、武術オタクの先生に、彼女だなんて・・・)
学校ではその後、香菜をなだめるのが大変だった。
まるっきり、推しの俳優かミュージシャンに結婚でもされたような、そういう落ち込みようだったからである。
しかし、不思議だったのは香菜を慰めながらも、有美里自身もいつの間にか、胸がチクリと痛みだしたことだった。
最初は、自分なりの香菜への同情かとも思ったが、どうもおかしい。
香菜を落ち着かせようと何か言うたびに、ズキりと胸の奥、水月の上が痛み出すのだ。
なぜに自分まで胸が痛むのか?
有美里にも、分からなかった。
分からないゆえに、募ってきたのは苛つきでる。
考えれば考えるほどに、苛つきが募る。
痛みが、消えなかった。
完全に悪循環であり、その苛つきが今、有美里の居合に出ていた。
踏み込む足音が、高い。
居合道では通常、剣道のように踏み込みで音は立てないすり足を遣う。
古流では流派にもよってそうする場合もあるが、全剣連居合ではそうだ。
刃筋も通っているようでいて、刃音が鳴るポイントがズレている。
しかも、女子の居合らしからぬことに、刃音が高い。
完全に力まかせの、粗い居合だった。
誰が見ても、荒れていると分かる。
「感情を出して抜くもんじゃないよ」
勇吾が見たら、実際に言っただろうセリフで声をかけられ、思わず有美里は振り返った。
そのセリフが突然、開け放していた道場の入口から聞こえたからである。
しかし、声の主は師匠ではなかった。
「ずいぶんと、荒れてるな」
苦笑いに近い笑みを浮かべて立っていたのは、長沢邦章だった。
有美里の師、上村勇吾の師匠である。
「長沢先生・・・」
息を乱しながら、有美里はやや慌てた。
この大先生には、いまだにあまり声をかけられ慣れていなかった。
むろん、長沢が基本的に勇吾の指導力を信頼していたからこそだったのだが、結果としてそれが、有美里が長沢に直に教わる機会が失くなる原因になっていたからと云える。
「仲村さん、あのね・・・」
その長沢が、何かを察したように言った。
語りかけるように、だった。
「何でもそうだが、特に剣というのはね、心が出るんだよ」
「こころ、ですか?」
「そうだよ、今の心理状態や思ってることとか、もっと言うと機嫌が良いか悪いか、それすらもが全部出るんだ。現に、きみは今・・・」
長沢は一拍置き、ズバリと指摘する。
「きみは、今、機嫌悪いだろ?」
何でだ、と畳みかけるように尋ねようとする長沢を、皆まで言わせぬように有美里が口を挟んだ。
「べ、別にアタシは、勇吾先生のせいで機嫌が悪いわけじゃ・・・・」
慌てて言ってしまってから、ハッとした顔になっている。
図星、か。
長沢がニタリとした顔になっていた。
「勇吾が、なんて一言も言ってないぞ」
有美里は、嫌でも体が火照るのを自覚せざるを得なかった。
恐らく、赤面しているだろう。
「でも、勇吾の何に腹立ててるんだ?まさか・・・・」
首を傾げながら、
「まさかアイツ、女でも出来たか?!」
何気なく、冗談のつもりではあっただろう。
しかし、有美里が思わず表情を険しくしたことで、長沢は察したようだ。
(あたり、かよ)
口に出す代わりに、黙って有美里を見る。
「不満か?勇吾に女が出来たのが」
質問に、有美里は答えない。
赤い顔のまま、刀に両手をかけた。
鯉口が静かに切られ、鞘がわずかに引かれる。
(!?、おっ!!)
長沢が思わず目を奪われるほどの、見事な抜きつけの一刀が、鯉口から放たれていた。
(見事だ、勇吾譲りだな。豆が弾けるような鞘離れじゃないか)
とても、二段や三段の女子の居合ではない。
その思いが長沢に、次の質問を飲み込ませていた。
「オマエ、まさか、勇吾に・・・」
その先、それ以上が、訊けなくなっている。
(今まで独占出来ていた師匠を取られたようで、何となく面白くない、というところか)
今はそういうことにしておこう。
その方が、どうやら今は良いだろう。
長沢は、ひとり、納得していた。
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有美里の機嫌は、直らない。
居合を抜けば抜くほど、なぜ、何に腹を立てているのか、苛立っているのか、分からなくなっていた。
ああ、もう、面倒だわ。
考えない。
答えは多分、今いくら考えても出ない。
そのうち、出るはずよね。
今はただ、居合を抜き続けるだけ。
何も考えられなくなるまで、ね。
ぼんやり、そう、考えていた。




