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誰が為の神楽  作者: 空蝉
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9/28

9 神楽

 朝の空気の中、私は一人、神楽殿の舞台に立っていた。

  

(……何も、考えたくない)

 

 白衣に緋袴を身にまとい、手にした舞扇をきらめかせながら、流れるように身体を動かす。

 

 幼い頃、今は亡き祖母から教わった神楽。

 

 ざわつく心を無理やり押さえつけるように、ただ無心で型を重ねていく。

 神楽殿の吹き抜けから滑り込んできた風が、白衣の袖をふわりと揺らし、背に垂らした長い髪をさらった。

 私の足さばきに合わせて、鮮やかな緋袴の裾が美しい円を描いて翻る。

 

 ――舞う。ただ、それだけに没頭したかった。

 

 けれど、頭の奥にある霧は、晴れるどころかますます濃くなっていく。

 

 昨日の宗一さんとのお出かけ。

 あの別れの間際に、自分の身体が本能的に示した強烈な拒絶反応。

 

 そして……自分がどうしても思い出せない、失くしてしまった大切な『何か』。

 

 最初は、胸にぽっかりと穴が空いたような、ただの頼りない喪失感だった。

 けれど今は違う。

 私は確かに『何か』を失っている。そのままにしておいてはいけない。

 そんな焦りが、私の心を静かに乱し続けていた。

 

 パタパタと足音が、不意に止まる。

 通りかかった有明さんが、懐かしそうに目を細めて、私の舞をじっと見つめていた。

 ひとつの演目が終わり、私が扇を収めて「おはようございます」と一礼すると、有明さんは小さく拍手をしながら歩み寄ってきた。

 

「ふふふ……本当に懐かしい神楽」

「結さんは、昔からその舞が一番お好きでしたね」

 

 穏やかな笑顔に、私の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。

 

「はい。神事で舞う事はないけれど、一番初めに、おばあさまから教わった神楽ですから」

「そうでしたね」

 

 有明さんは愛おしむように目を細めた。

 小さい頃の温かい記憶に、自然と笑みがこぼれる。

 

「ねぇ、有明さん」

「これって、本当は何の神楽なんでしょうね?」

「基本の動きがすべて詰まっているから、ただの基礎練習用の舞なのかしら」

 

 ふと思い浮かんだ疑問が、そのまま口をついて出た。

 すると、有明さんは一瞬だけ、遠い記憶を愛おしむような、切ない目をした。

 

「先代の巫女様は、よくおっしゃっていました。『すべての神楽に、意味がある』と」

「……きっと、その舞にも、私たちの知らない大切な意味が込められているのでしょうね」

 

 有明さんはそれ以上は何も語らず、いつもの優しい笑みを浮かべたまま、「それでは」と仕事に戻っていった。

 

「神楽の意味……」

 

 考えたこともなかった。

 今度、神社の蔵を調べてみようかな。

 確か、古い文献が眠る古文書の箱があったはずだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、私は神楽殿を後にした。

 

 すっかり遅くなってしまった朝食代わりに、冷たいフルーツジュースを少しだけ口にして自室に戻る。

 

 ここ最近の疲れが残っているのか、こめかみのあたりがズキズキと痛んだ。

 私室に入ると、身体を引きずるように窓辺に座った。

 

 窓の外、どこまでも眩しい庭を見下ろす。

 そして、きらきらと輝く芝生の先へ視線を向けると、そこには、ぽっかりと口を開けたような「境界の森」が広がっていた。

 

 この前、確かにあそこに『誰か』がいた。

 あの暗闇の向こうには、一体何があるのだろう。

 

 気づけば、私は無意識に立ち上がっていた。

 吸い寄せられるように部屋を出て、境界の森へと続く玉砂利の道を一歩、一歩と踏みしめていく。

 

『影に入ってはならない』

 

 この世界で、誰もが狂信的に守っている絶対のルール。

 

 けれど、今の私を止めるものは何もなかった。

 導かれるようにして森の境界線をまたいだ瞬間――世界の色が、一変した。

 

「……あ」

 

 肌を刺すような夏の陽射しが消え、ひんやりとした清涼な空気が身体を包み込む。

 まるで森そのものが、静かに息を吐き出しているかのようだ。

 張り詰めていた肺の奥に、その冷たい空気を深く吸い込む。

 

 見上げれば、幾重にも重なる木々の葉の裏で、わずかな光が透けていた。

 その深い緑は、まるでカットされた宝石のように神秘的な輝きを放っている。

 視線を前に戻すと、見たこともないような、青みがかった深い『影』が森の奥へと滑るように続いていた。

 吸い込まれるように奥へ、奥へと進んでいく。

 

 しばらく歩いたところで、ここ最近の緊張と疲労が一気に噴き出したかのように、急に身体が重くなった。

 私は大きな巨木の根元にもたれかかるようにして、そのまま地面にへたり込んでしまった。

 

 恐怖はまったくなかった。

 むしろ『影』に心も身体も委ねていた。

 外にいるよりも、ずっと、ずっと息がしやすい。

 

 そっと目を閉じ、深い静寂に身を浸していると――不意に、頭の上に柔らかな温もりが触れた。

 

 子供をあやすように、優しく、愛おしそうに、私の頭を撫でる手。

 

 ぼんやりと顔を上げる。

 木漏れ日の影の中に、その青年は立っていた。

 

 世界から排除されたはずの、――夜を閉じ込めたような黒髪と吸い込まれそうな黒い瞳を持った青年が、私を見下ろして静かに微笑んでいた。

 

 

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