10 相逢
彼がそっと手を伸ばし、私の頭を撫でる。
その手つきがあまりに優しく、慈しむようだったから、私は思わずうっとりと目を閉じてしまった。
彼の手が私の額のあたりで止まる。
すると、さっきまでこめかみの奥でズキズキと激しく主張していたあの頭痛が、嘘のようにスーッと軽くなっていくのが分かった。
青年はそのまま、私をふわっと抱きしめた。
あまりに突然のことだったけれど、拒絶反応はいっさい湧かなかった。
身体が楽になる……
胸の奥を覆っていた不安が、ゆっくりとほどけていく。
――このままずっと、こうして彼に抱きしめられていたい。
心からそう願っている自分がいた。
しばらくして、青年は名残惜しそうに私から身体を離すと、囁くような低い声で問いかけてきた。
「大丈夫?」
私は小さく、一度だけ首を縦に振った。
言葉を出すのすら忘れて、彼の顔を見つめてしまう。
「あの……」
ようやくそれだけを絞り出し、一番聞きたかった言葉を口にした。
「あなたは、誰……?」
問いかけた瞬間、青年の端正な顔が、なぜだかほんの少しだけ悲しそうにかげった。
私の胸の奥が、その表情につられるようにキュッと切なく痛む。
けれど彼はすぐに穏やかな表情に戻ると、すっと立ち上がり、私に向かって優しく右手を差し出した。
見知らぬ誰かに手を引かれて森の奥へ行くなんて、本来なら躊躇すべきことのはずだった。
けれど今の私は、なんの迷いもなくその手を取り、彼の力に引かれるまま立ち上がった。
それを見た青年は、嬉しそうに笑った。
「私は……『月影』だよ」
少しだけいたずらっぽく微笑んで、彼は続ける。
「愛称だけどね」
「月影……」
それが本名ではないことはすぐに分かった。
けれど、なぜだろう、彼の本名をこれ以上深く聞いてはいけないような、不可侵の神聖さを感じてそれ以上は言葉を飲み込んだ。
「私は……結です」
「うん。知っているよ」
彼はすべてを見通しているかのような優しい眼差しで、にっこりと笑った。
(え……? 知っている?)
私は記憶の糸を手繰ろうとした。
これまでに、こんな人と会ったことがあっただろうか。
一度見たら絶対に忘れないはずの、圧倒的な存在感。
改めて彼の姿をじっくりと観察する。
青年が身に纏っているのは、仕立ての良い和装だった。
清潔な白い白衣に、漆黒の袴。そして、その上に重ねられた深い黒の羽織。
その姿は、私の知らない装いだった。
それなのに、どこか懐かしかった。
「あなたは……『夜の神様』なの?」
思わず口から洩れたその疑問に、彼はふふっと微笑み、美しい人差し指を立てて自らの唇に当てた。
「し―――」
悪戯っぽく秘密の合図を交わすと、彼は私の手をしっかりと握り直し、さらに深い森の奥へと導いてくれた。
彼の後を静かについていく。
ざわざわと、木々の葉が擦れ合う音がやけに大きく耳に届いた。
聴覚が驚くほど研ぎ澄まされていくのが肌で分かる。
少し歩くと、草むらの向こうからちょろちょろと、かすかな水の流れる音が聞こえてきた。
一歩進むごとに、その水音はさらさらと、心地よい音量へと大きくなっていく。
(もうすぐ、小川に出るのかな……?)
そう思った瞬間、月影の足がぴたりと止まった。
「彼らの声は小さいからね。静かに」
月影が振り返って優しく囁き、目の前を遮っていた青々とした枝をそっと手で分ける。
そこには小さな小川が流れており――そのせせらぎの上を、無数の小さな光の粒が優しく飛び交っていた。
「ほたる……?」
「ふふふ、そう。蛍だよ」
淡い金色の光の粒が、冷涼な夜気に触れて震えながら、ゆっくりと空中を漂っていく。
夜の風がそっと私たちの頬を撫でるたび、蛍たちはその風の軌跡をなぞるように、美しい光の線を宙に描いた。
―――そのあまりに美しい光景に、私は思わず息を呑む。
月影は、そんな私の様子を見つめていた。
けれど、私が視線に気づくよりも早く、彼はふいと蛍たちの方へ目を戻してしまう。
その横顔の長いまつげの奥で、何かが淡くきらめいたような気がした。
けれど、それが何だったのか確かめる間もなく、私は再び蛍へと心を奪われてしまう。
すると、繋がれていた私の手を、月影がキュッと少しだけ強く握りしめた。
彼を見上げると、月影はどこか切なさをにじませた笑みを浮かべていた。
彼は何も言わず、ただ私の視線を促すように、スッと白い指先で川の水面を指さした。
見下ろせば、穏やかな川面にも夜空を映すように無数の光がゆらゆらと揺れている。
「きれい――……」
ふと視線を感じて隣を見ると、月影が蛍の光に照らされながら、穏やかな眼差しで私の顔を見つめていた。
その慈愛に満ちた笑顔を見るのは初めてのはずなのに、私の魂は、どうしようもないほど懐かしい温もりを感じていた。
私たちは小さな小川を渡り、さらに森の奥へと進んでいく。
着物の裾や袴の足元が水に濡れて冷たかったけれど、そんなことは全く気にならなかった。
最初はただ、彼に導かれるがままだった。
月影という名の、不思議な青年に手を引かれ、行ってはならないと言われている禁忌の場所を歩いている。
それなのに、私は小さな期待に心が弾んでいた。
恐怖なんて、これっぽっちもない。
この暗闇の先で、次は何が私を待っているのだろう。
彼となら、どこまでだって行けるような気がしていた。




