6 惹かれる
「……宗一さん?」
自分の手首を掴んだ相手の顔を見上げ、私はぼんやりとした頭でその名を呟いた。
「うん、久しぶり。結ちゃん」
彼は穏やかな笑顔を浮かべると、私を鬱蒼とした森から引き離すように、そっと肩を抱き寄せた。
宗一さんはそのまま、私を促すように離れに向かって歩き出した。
「結! 宗一!」
境内の奥から、兄の雅臣が血相を変えて駆け寄ってきた。
その後ろからは、父も小走りでこちらに向かってくるのが見える。
「葉室君、結を見つけてくれてありがとう」
父の声は、いつも以上に切迫して震えているように聞こえた。
「え? みんなどうしたの? お兄ちゃん、仕事は……?」
私は困惑して目を瞬かせた。
学校からいつも通りに帰ってきただけなのに、まるで重大な行方不明事件でも起きたかのような騒ぎだ。
「あ、いや……学校から連絡をもらったんだよ」
兄は肩を上下させ、息を切らしながら慌てて言葉を紡いだ。
「体調が悪くて早退したって聞いたから……連絡してくれたら、すぐに迎えに行ったのに。心配したんだぞ」
「僕も、雅臣が血相を変えて職場を飛び出していくから、何事かと思ってついてきちゃったんだ」
宗一さんが目を細めて、困ったように笑う。
「お久しぶりです」
私は彼に抱えられていた肩をそっと外し、一歩身を引いて、丁寧に頭を下げた。
兄の同僚であり、同級生でもある葉室宗一さんは、幼い頃からの顔馴染みだ。
「あはは、そんなに離れちゃうんだ。寂しいな。昔はもっと僕に懐いてくれていたのに」
宗一さんは大裟裟に肩をすくめて、残念そうな笑顔を見せた。
非の打ち所がないほど整ったその笑顔に、私はただ曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
宗一さんは昔から優しい人だ。
私が一人でいても、必ず声を掛けてくれた。
母は以前から「宗一君なら安心なのにね」なんて言っていた。
家同士の付き合いも深く、親同士で婚約話まで持ち上がっていた。
けれど、「結の気持ちが固まるまで、いつまでも待つよ」という彼の言葉に甘えさせてもらう形で、今はその話を保留にしている。
離れへと続く玉砂利の道を、後ろ髪をひかれる思いで歩いていく。
境界の森から涼しい風が、まるで引き留めるように吹いて、スカートを揺らした。
◇
その日の夜は、宗一さんも交えて家族全員での賑やかな夕食となった。
けれど、どうしても体調が優れず、私は早々に切り上げて二階の自室へと戻らせてもらった。
階下からは、楽しげに笑い合う家族と宗一さんの賑やかな声が、かすかに響いてくる。
私はいつものように、明るい庭が見下ろせる窓際に腰掛けた。
視線の先にあるのは、敷地の境界線に広がる暗い森だ。
『影に入れば、心も身体も囚われて二度と出られなくなる』
そう言われていて、誰もが本能的に影を避けて生きている。
それなのに、私の心は、どうしようもなくあの深い森の影に惹かれていた。
私が探している「何か」が、あの暗闇の中にあるような気がする。
トントン、と静かに襖が叩かれた。
「結ちゃん、起きてる?」
「はい」
私が答えると、襖が静かに開き、宗一さんが顔を覗かせた。
「体調は、どう?」
「……少し、良くなりました」
「そっか、良かった」
一拍置いて、宗一さんはいつもの元気なトーンで言った。
「ねぇ。明日、もし良かったら一緒に出掛けない?」
「お出かけですか?」
「そう! 休日だしドライブして、美味しいものでも食べに行こうよ」
「でも…」
「大丈夫。帰りたくなったらすぐ帰るから」
明るい笑顔を向けられると、申し訳なくて断る言葉が見つからなくなる。
「……はい」
宗一さんは、少しだけ困ったように眉を下げ聞いた。
「……無理してない?」
「大丈夫です」
私がそう答えると、宗一さんは少しだけ私を見つめた。
「……そっか」
それからいつもの笑顔に戻って
「じゃぁ、とりあえず明日の午前中に迎えに来るね。無理だったら、そのとき言って」
宗一さんは満足そうに微笑むと、じゃあね、と手を振って部屋を後にした。
宗一さんのことは、嫌いじゃない。
けれど、この先ずっと一緒にいたいと思える相手なのかと言われると、どうしても心が曇ってしまう。
(お出かけか……。少し、憂鬱だな……)
私は小さくため息をつき、再び窓の外の、あの暗い森へと視線を戻した。
――確かに、あそこに誰かがいたような気がする。
(あと少しで…あの場所に行けたのに……)
あと少しで。
あと、ほんの少しで、君に近づけたのに……。
君に触れることも。
君と話すことも。
何もできない。
―――当然のように、君の肩を抱くあの男が羨ましい……




