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誰が為の神楽  作者: 空蝉
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24 夜の訪れ

 

「……私と一緒に、来るかい?」

 

 そう言って、優しく手を差し伸べる月影様。

 

 私は溢れる思いのまま駆け寄り、まっすぐその胸へと飛び込んだ。

 強く温かく抱き止めてくれる腕の中で、短く答える。

 

「はい」

 

 腕の中から顔を見上げると、そこには嬉しそうに微笑む月影様の姿があった。

 つられるようにして、胸の奥から沸き上がる愛しさに涙がこぼれ落ちる。

 視界を滲ませるその涙が、月光を反射してきらきらと輝き、まるで自分の中に小さな夜空が生まれたようだった。

 

「結っ―――っ!!!」

  

 遠くで、誰かが悲痛に叫ぶ声が聞こえた気がした。

 けれど、私たちはもう振り返らない。

 光の世界の境界を越え、誰にも邪魔されることのない、ふたりだけの神域へと足を踏み入れていく。

 

◇

 

 結を守るように「夜の神」が肩を抱いた二人の姿は、境界の向こうへ歩みを進めるたび、月光へと溶けるように淡く揺らいだ。

 やがて、星屑のような光を残して静かに消えた。

 

 

 人々は、夜が来れば世界は暗闇に支配され、絶望に包まれると思っていた。

 ――だが、周囲を見渡せば、そんなことは決してなかった。

 

 夜空に浮かぶ月は、誰もが恐れていたような恐ろしいものではなかった。

 驚くほど優しく、穏やかに世界を照らしていた。

 

 銀砂を撒いたように白く輝く石畳。

 静寂の中でひんやりと冷たく光る拝殿の屋根。

 風がそっと枝を揺らすたび、地表に小さな光の模様を散らす御神木。

 

 目に映るものすべてが幻想的で、現世と常世の境界を曖昧にしていく。

 

「結……」

 

 確かに、彼女には『気持ちには応えられない』と断られていた。

 けれど……まさか目の前で、光となって消えてしまうなんて思ってもいなかった。

 

 ただ、最後に見た結の顔は、今まで一度も見せたことがないほど幸せそうに「夜の神」を見つめ、微笑んでいた。

 自分では……決してあんな顔をさせてあげられなかった。

 

 宗一はゆっくりと月を仰ぎ見ると、そっと目を閉じ、澄んだ夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 胸の奥を刺すこの切なさと後悔を整理するには、もう少し時間がかかりそうだった。

 

 神護庁長官は、巫女が神楽殿に残していった一冊の古書へと、静かに手を伸ばした。

 幾重にも重なる歴史の厚みを感じながら、ゆっくりとページを繰る。

 そして手を止め、呟くように言った。

 

「……今日はもう夜だ。退勤としよう」

 

 静かだが重みのある声が、張り詰めていた空気を解きほぐす。

 

「明日……日が昇ったら、官庁でいつもの時間に出勤するように」

 

 そう職員たちに言い残すと、長官はゆっくりと立ち上がりその場を去っていった。

 

◇

 

 街の人々は、ゆっくりと、けれど確実に深い藍色へと染まっていく空をじっと見つめていた。

 

 普段より少しだけ涼しい風があたりを包むように吹く。

 誘われるように虫の音がどこからともなく響き始めた。

 

 柔らかな月光の下、人々は安堵の混じった笑みを零した。

 穏やかな夜が、疲れ切った人々の心を満たしていく。

 

 明日、また温かい太陽が昇るのを心待ちにしながら、人々は静かな眠りについた。

 

◇

 

 やさしい月光のおかげで、境内がパニックに陥ることもなく、神事の片付けは滞りなく進み、職員たちも静かに帰路についていった。

 

 あとに残されたのは斎木家の面々と有明さんだけだった。

 

 張り詰めていた静寂のなか、境内の石畳に力なく座り込んだまま動けない夫と息子を見下ろし、母が「パンッ!」と小さく手を叩いた。

 

「さあ! 雅臣、あなたも!」

「いつまでもそんなところでへばっていないで、早く着替えていらっしゃいな」

 

 呆然と天を仰いでいた父は、信じられないものを見るような目で母を振り返った。

 

「お前は……平気なのか……?」

 

 絞り出すような父の問いに、母は困ったように眉を下げると、隣に立つ有明さんと静かに視線を交わし、ふっと小さく微笑んだ。

 

「平気なわけないでしょう。ねぇ?」

「ええ……。そりゃあ、すこし寂しいですよ」

 

 どこか穏やかですらある二人のやり取りに、雅臣が弾かれたように顔を上げた。

 

「寂しい!? 寂しいで済む話じゃないだろ! だって……あいつはっ……!」

 

「――ほんとうに、あなたたち二人は結のことを何も見ていなかったのね」

 

 感情を爆発させようとする雅臣を、母の静かな声が遮った。

 小さく吐き出されたため息には、深い呆れと諦念が滲んでいる。

 

「全く、あなたたちは……立場だの、常識だの、そんなことばかりに気を取られて」  

 

 有明さんも少しだけ困ったような笑顔を浮かべ、母の言葉に優しくうなずいた。

 

「ほんとに……お困りものですね」


「……あの子の、あの幸せそうな顔。あなたたちには見えていなかったんですか?」

 

 母のまっすぐな問いかけに、父と雅臣は言葉を失った。

 胸を突かれたように肩を落とし、二人はぐうの音も出ないまま静まり返る。

 やがて、重い腰を上げるようにゆっくりと立ち上がると、力ない足取りで離れの方へと歩き出していった。

 

 うなだれる背中を見送りながら、母はくすりと小さく苦笑した。

 

 

 ――そして、ゆっくりと身体を返し、しんと静まり返る境界の森を潤んだ目で見つめる。

 

(結……)

 

(もう一度だけでいいから、会いたい――)

 

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