23 儀式
ついに、儀式が始まった。
本殿の奥から、父の奏上する祝詞の低く重い声が響き渡り、それに合わせて兄が静かに追唱する。
参列した神護庁の職員たちも、重苦しい沈黙の中で固唾をのんで見守っていた。
やがて祝詞が上がり、私の出番が訪れる。
けれど、定位置につく前に――私はおばあ様から譲り受けたあの古書を胸に抱き、静かに神護庁長官の前へと進み出た。
長官の前に正座し、一切の迷いを捨てた手つきで、古書を床板の上にそっと滑らせて差し出す。
「これを……お納めください」
「……これは何だ?」
「この世界の、真実が書かれております」
長官の眉がピクリと動いて、震える声で問い返す。
「……『真実』、だと?」
長官のその不審そうな問いに答えることなく、私はそのままゆっくりと立ち上がり、神楽殿の定位置へとついた。
奉奏する楽人たちへ目配せで合図を送ると、張り詰めた空気の中、雅楽の演奏が鳴り響く。
――ドォン、と重い太鼓の音。
――シャン、と澄んだ神楽鈴の音。
私は静かに檜扇を開いた。
今、舞い始めるのは――
『始まりの神楽』
もう誰も、その意味も名前も知らない神楽。
(これが私の選んだ答え……)
今、この舞を知る者はもう誰もいない。
ただひとり、息を呑んで私を見つめている有明さんを除いては。
やがて、楽人たちが私の舞いと旋律が合わないことに気付き、次第に演奏は途切れ、完全に止まった。
無音となった境内の中、私の全身からじわりと柔らかで優しい光が溢れ出した。
永遠と思われた白昼の世界に、静かな「終わりの気配」がふっと芽吹き始める。
まるで、世界そのものが呼吸をひそめたかのように。
舞を重ねるごとに、頭の奥で固く閉ざされていた扉が開き、月影様との記憶が一気になだれ込んできた。
忘れていた記憶が、次々と胸へ戻ってくる。
幼い頃、境界の森で交わした約束。
神楽を舞うたび密かに会いに行った日々――。
ふと見上げれば、あれほど高く誇らしげに輝いていた太陽が傾き始めていた。
白金のように刺々しかった光は、とろりとした琥珀色へと表情を変えていく。
地面の上を、長らく忘れ去られていた「影」が、ゆっくりとどこまでも伸びていく。
「結―――っ!!!」
異変を察知した父が、本殿から草履すら履かずに飛び出してきた。
数名の職員たちも立ち上がり、私の元へと駆け寄ろうとする。
けれど、私のまわりに満ちた光の透明な壁が、彼らの立ち入りを拒むように優しく弾き返した。
風が吹き抜け、羽織った被衣と、檜扇を結ぶ長い飾り紐がしなやかに揺れる。
見上げた空では、湧き立つ雲が内側から照らし出された。
沈みゆく茜色の光が山の裾野を撫で、境内全体を暖かなオレンジ色に包み込んでいく。
胸の奥から込み上げるものに、私の目元が自然と緩んだ。
息苦しかった胸がすーっと軽くなり、自然と笑みがこぼれた。
太陽が地平線に触れ、ゆっくりと沈み切った――その時。
反対側に位置する「境界の森」の空が、ほんのりと淡く白く滲み始めた。
森の上から静かに姿を現したのは、太陽の熱とは全く違う、冷たく、優しく、どこか懐かしい光。
真円を描く、綺麗な満月が上ってきたのだ。
社殿の屋根は銀色の輪郭を纏い、石畳はひんやりとした青い月光を受けて、昼の世界では決して見せなかった凛とした表情を浮かべ出す。
――そして、ゆっくりと神楽が終わった。
境内には誰一人として声を発する者はいなかった。
夜風だけが静かに木々を揺らし、
鈴の余韻だけが境内を漂っている。
その静寂の向こうから、一人の男がゆっくりと姿を現した。
東の空に浮かぶ満月とともに、夜の澄んだ空気を身に纏った月影様が、静かに歩み寄ってくる。
「……結」
神楽殿の前まで辿り着いた彼のもとへ、私は一歩一歩近づいた。
「月影様……」
「……今まで、長い間この世界に縛りつけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「……ありがとう。夜を、解放してくれて」
あぁ……これで、本当に最後なのだ。
この神楽を舞い終えてしまえば、月影様は神の世界へと還ってしまう。
もう二度と、会うことはできない。
分かっていたはずなのに、胸が引き裂かれそうに痛む。
(泣いちゃダメだ……泣かない。最後は笑って、さよならを言うんだから……!)
そう心に強く誓ったのに、喉の奥がキュッと絞めつけられ、声が出ない。
「私は、もう行くよ……」
「……はい……」
溢れ出しそうな涙を見られないよう、ぐっと奥歯を噛みしめて俯く。
「――君はどうする?」
「……え?」
弾かれたように顔を上げると、月影様は優しく微笑みながら、私に向かってまっすぐに手を差し出していた。
「……私と一緒に、来るかい?」




