21 残影
「そこで私……」
「人間離れした、息を呑むほど美しい男性にお会いしたのです」
有明さんはそう言って、遠い目をして境界の森を見つめていた。
まるで、その深く暗い奥底に広がる『夜の世界』を探すかのように。
「不安で泣いていたはずなのに、びっくりして涙も忘れて固まってしまって……」
「涙と鼻水を垂らしたまま、ぼけーっと見上げていたの」
「そしたら彼、私の顔を見て、すごく困ったような顔をなさってね」
思い出を慈しむように、有明さんはクスクスと可愛らしく笑った 。
私も思わずつられて微笑む 。
(ふふっ……月影様も、きっと驚いちゃったんだろうな)
(泣いている有明さんを、なんとかして慰めようとしてくれたのかな……)
どこまでも心優しい月影様の姿が目に浮かび、私の胸の奥に温かな愛おしさが広がっていく。
「それから、私の不安を感じ取ってくださったのかしら」
「満開の真っ白な花が一面に咲き誇る、月の草原へ連れて行ってくださったの」
夢中でその花を摘んでいるうちに、気づけば神楽殿の前に戻っていたのだという。
「その花を巫女様に差し上げようとしたら、手のひらの中で、すうっと枯れてしまっていて……」
有明さんはまるで、今もそこに花があるかのように、自分の手の中を覗き込んだ。
「その話を巫女様にしたら『夜の神様に会ったのね』と、とても羨ましがられたわ」
「……それからかしら。私が巫女様のお手伝いを本格的にするようになったのは」
そう言って、手に持っていた神楽の道具を大事そうに持ち上げ眺めた。
「結さん……結さんも『夜の神様』にお会いしたのですね?」
「……うん」
私は月影様の姿を思い浮かべながら、儀式で身につける緋袴の生地にそっと手を置いた。
さらりとしたしなやかな肌触りが、かつて私を包み込んでくれた月影様の衣装の感触に似ていて、切なくも、どこか誇らしい気持ちになる。
「私にとっては雲の上の『神様』でしたけれど、結さんにとっては……少し違うのですね」
「え……?」
「そんなにも優しく、愛おしそうな顔をなさるなんて……」
ハッとして顔を上げると、有明さんが温かな眼差しで私を見つめていた。
「そんな顔……してた?」
「ええ、とても綺麗なお顔でしたよ」
胸の奥にある一番大切な気持ちを見透かされたようで、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
私は言葉に詰まり、思わず視線を泳がせて俯いた。
二人はしばらく黙った。
ふと耳を澄ますと、本殿の方から聞こえていた太鼓や道具を片付ける慌ただしい音が、いつの間にか静まり返っていることに気づいた。
どこからか吹き抜けた風に乗って、離れの自宅から晩ご飯のおいしそうな匂いが漂ってくる。
「準備もだいぶ進みましたね。残りはまた明日にしましょう」
有明さんが柔らかい声で微笑み、静かに立ち上がった。
◇
「お願い。少しだけ……学校に行かせてほしいの」
翌朝、制服に袖を通した私は、兄に向かって頭を下げた。
「……少しだけだぞ。準備もあるし、今は街も混乱しているから……」
兄は苦い表情を浮かべ、言葉を濁して黙り込んだ。
分かっている。
街では「夜」と「眠り」を求める人々の声が日増しに大きくなり、各地で混乱が起きているという。
学校が今どんな状況になっているのかは、行ってみなければ分からない。
だからこそ、自分の目で確かめておきたかった。
兄と「二時間後に正門で」と約束を交わし、私は校舎の重い扉を押した。
登校する道のりもそうだったが、校舎の中は気味が悪くなるほど静まり返っていた。
教室には、まばらに五人ほどの生徒が、座っているだけだった。
いつも真っ先に笑顔で駆け寄ってくれていた友人たちの姿は、どこにもない。
先生も何人か休んでいるらしく、授業は行われず自習だった。
教室には、異様なまでの「光」だけが満ちていた。
吹き抜ける風さえも熱を帯び、重苦しい光が皮膚を刺すようだった。
耐えきれず教室を出て、当てもなく静かな廊下を歩く。
図書室も保健室も閉鎖されていた。
まるで、世界そのものの時が止まってしまったかのようだ。
今まで胸を押しつぶすように感じていた息苦しさは、自分だけのものだと思っていた。
けれど今、ずっと続くと思っていた当たり前の世界は、壊れてしまっていた。
誰もがその耐えがたい「光」の苦痛に苛まれているのだ。
(――もう、逃げない)
儀式で、自分が『何を舞うべきか』
迷いは完全に消え去り、胸の奥で静かな決心が固まっていた。
儀式が行われるのは、明日の午後だ。
月影様―――どうか、見守ってて。




