2 退院
……トントン。
少し遠慮がちなノックの音が静かな病室に響き、私はビクッと我に返った。
理由のわからない涙を人に見られたくなくて、慌てて手の甲で目元を拭う。
「結、入っていい?」
扉の向こうから、聞き馴染んだ母の声がした。
「うん、大丈夫だよ」
そっと扉が開き、心配そうに眉を下げた母が顔を覗かせる。
私の姿を認めると、その表情はパッと華やかなものに変わった。
「よかったー!! 急に倒れたから、本当に心配したのよ!」
いつものように弾む、元気で高い母の声。その声でさっきまで胸を支配していた冷たい喪失感が、じわじわと隅に追いやられていく。
「心配かけてごめんね」
「本当にそうよ!」
母はからりとした笑顔のまま、着替えの入った紙袋を私に手渡した。
「お母さん、一人で来たの?」
「みんな家で待ってるわよ。本当はみんな来たいって大騒ぎだったんだけど、こんなところに大人数で押しかけたら大迷惑でしょう?」
確かに、この病院は郊外にあるせいか、耳が痛くなるほど静まり返っている。
「さあ、着替えて早く帰りましょ!」
促されるまま、手渡された白いワンピースに着替えた。
着替えている間も、母は父や兄がどれだけ心配していたかを、身振り手振りで話し続けた。
「ほら、荷物は私が持つからね」
弾丸のようにお喋りを続ける母の後ろについて、私は病室を後にし、一階の出口へと向かった。
エントランスに着いた瞬間、私は思わず足を止めた。
ガラス扉の向こう、ロータリーへ続く通路の両脇に、十名ほどの白衣を着た職員たちがずらりと全員無表情で整列していたのだ。
目を合わせることなく、私たちが近づくと、彼らは一斉に、まるで機械のように揃った深いお辞儀をした。
誰一人として笑っていない。
(……なんだか、大げさだな…)
呆気に取られていると、奥から担当医がにこやかに進み出てきて、「お大事に」と穏やかに頭を下げた。
母が快活に挨拶を交わすのを見ながら、私も「ありがとうございました」と小さく頭を下げ、逃げるようにタクシーへと乗り込んだ。
発車した車内から振り返ると、職員たちがまだずっとこちらを見つめていた。
そして背後に遠ざかっていくその建物は、病院というより、誰かに見張られている場所のように感じられた。
「結、大丈夫? 気分は悪くない?」
覗き込んでくる母の、一点の曇りもない笑顔。
私は「うん、大丈夫」と微笑み返し、視線を正面へ戻した。
タクシーはスピードを上げ、静寂な郊外から徐々に活気あふれる街へと近づいていく。
私たちの家は、その街を一望できる開けた丘の上にあった。
由緒ある神社、その離れにある日本家屋が、私の生まれ育った実家だ。
大きな鳥居の前で車を降りて、鳥居を見上げた。
鳥居の向こうから吹き抜けてきた風が、木々の葉を揺らしさわさわと音を立てていた。
社務所から、いつもの装束に身を包んだ父が、破顔して駆け寄ってきた。
「お帰り、結!」
「ただいま、お父さん」
父の屈託のない笑顔に引っ張られるように、私の口元からも自然と笑みがこぼれる。
「あらあら、神主様。お仕事はよろしいんですか?」
母がわざとらしく肩をすくめてからかうと、父は豪快に笑った。
「心配で仕事なんて手につくわけないだろう! 結、本当にどこも痛まないかい?」
「うん。大丈夫」
「……ちょっと、部屋で休むね」
母や父と話をして、「帰ってきたんだ」という安心感が胸に広がった。
けれど、二階の自室に向かいながら、どこかチクチクと刺すような胸の痛みを感じた。




