19 前へ
ドンッ!!
重厚なオーク材のデスクに叩きつけられた拳の音が、部屋中に響き渡る。
神護庁長官室には、冷たく張り詰めた空気が漂っていた。
「どうなってる……」
「記憶操作の処置はまだ完了していないのか!」
机に肘をつき頭を抱えている長官の前に、複数名の職員たちが顔面蒼白で立ちつくしている。
その列の端に、葉室宗一もまた固い表情で並んでいた。
「は、はい……発症者が急増しており、隔離施設もすでに満室です」
「記憶操作を施しても、数日で『夜』への渇望が再発する例が相次いでおり……」
報告する上司の横で、宗一は唇をかみ締め、ただ押し黙っていた。
何日も休めていない疲労が、職員たちの顔や皺だらけのスーツに滲んでいた。
「なぜ抑えきれないんだ…」
「このままではっ…!国が沈む…」
長官は苛立ちと焦燥を抑えきれずに呻くように言った。
「原因は不明です……ただ、今までと異なり、発症した全員が過剰な光を怖がり、闇を……『夜』を狂おしいほどに求めています」
すでに神護庁内部の職員からも欠勤が相次いでいた。
『日光を浴びると目が眩み、脳を刺すような頭痛がする』――それが初期症状だった。
どうやらこの異常事態は、単なる脳の記憶を消去して解決できるような生易しい問題ではなくなりつつある。
「巫女はどうなっているんだ、葉室」
とつぜん指名され、宗一は言葉に詰まった。
ぐっと拳を握りしめ、うつむくことしかできない。
「『月の神楽』さえ奉納されればっ……!」
長官は顔を苦痛に歪め、縋るように呟いた。
――本当に、そうだろうか?
宗一の胸の奥で、冷たい疑念が鎌首をもたげる。
『月の神楽』の奉納だけで、本当にこの狂った世界の崩壊が止まるのだろうか。
『昼が苦しい。暗闇が……夜が恋しい』
巫女である結が示していた拒絶は、この世界そのものが発していた悲鳴だったのではないだろうか。
ふと窓の外に目をやると、世界は吐き気がするほど過剰な光に満ちていた。
高層ビルが跳ね返す陽光は目を焼き、空さえ白く霞んで見える。
この光を美しいと思える人間が、どれほど残っているのだろう。
「葉室。斎封神社へ行くぞ。お前も来い」
長官は立ち上がり、大股で部屋を出た。
宗一はその背中を、重い足取りで追いかけた。
◇
境界の森の境目を跨ぎ、結は現実の世界へと足を踏み入れた。
森から出た瞬間、突き刺さるような陽射しが容赦なく肌と瞳を焼く。
いつも以上に世界が眩しく、そして白々しく感じられた。
結は白く眩む空を見上げ、痛みに耐えるように細く息を吐いた。
その時――社務所の奥から響いた凄惨な怒鳴り声に、胸をぎゅっと掴まれたような衝動を覚える。
引き寄せられるように社務所へ近づくと、障子越しに荒々しい会話が漏れ聞こえてきた。
「巫女はどこだ!? 成人の儀式は一体いつ執り行うつもりだ!!」
庭から座敷を覗き込むと、見覚えのある和装の男性が、父に凄まじい剣幕で詰め寄っていた。
テレビや報道陣の向こう側で何度か目にした顔――神護庁の長官だ。
「近いうちに……必ずします」
宮司である父は、絞り出すような声で苦しそうに答えている。
「近いうち!? 事態は一刻を争うのだぞ……」
呻くように話す長官のすぐ後ろで、宗一が悲痛な面持ちで座敷に正座していた。
巫女装束のまま、結は静かに社務所の玄関を開けた。
磨き上げられた廊下を、足音を立てずに座敷へと向かう。
座敷の入り口には、兄の雅臣も詰めていた。
(そうか……みんな、こうやって私を守ろうとしてくれていたんだ)
父も、兄も、そして宗一さんも。
この理不尽な威圧に耐え続けてくれていたのだ。
気配に気づいた母と有明さんが、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「結、ダメよ。離れに行ってなさい」
「結さん、今は入ってはいけません……!」
案じる二人を制するように、結は静かに首を横に振った。
座敷の入口に正座して詰めていた兄が、弾かれたように顔を上げ、立ち上がる。
「結……!?」
兄の動揺を払うように視線を交わし、「大丈夫」と短く呟いた。
結は座敷の入り口に正座し、すうっと深く息を吸い込んだ。
胸の中の迷いが、綺麗に消えていくのを感じる。
「……失礼いたします」
澄んだ声で告げると、規律正しく襖を開け、深く頭を下げてから室内へと足を踏み入れた。
長官の正面へと進み出ると、畳に両手をつき、美しい所作で再びお辞儀をする。
「はじめまして。現在の『巫女』を務めております、斎木結と申します」
長官は今にも怒号を飛ばしそうな表情だったが、巫女の静謐な佇まいに気圧されたのか、苦々しく口を閉ざした。
「儀式の執り行いが遅れましたこと、深くお詫び申し上げます」
結はもう一度頭を下げると、まっすぐに長官の目を見据えて告げた。
「二日後――『成人の儀式』を執り行います」
(二日後には……必ず答えを出す!)
「結! 何を言っているんだ!」
父が慌てて割って入ろうとする。
「……そうか。できれば今すぐにでも舞ってもらいたいところだが」
長官の言葉に、結は静かに首を振った。
「神聖な儀式です。相応の準備がございますので」
長官は重々しいため息をひとつ吐いた。
「相分かった。時間が決まったら、すぐに連絡するように。当日は私も立ち会う」
「これ以上延期は許さん」
「二日後、必ずだ」
そう言って長官は立ち上がり、去り際に「……頼むぞ」と呟き、社務所を後にした。
耳が痛くなるほどの沈黙が座敷に残される。
結は膝をついたまま、父と兄、そして母たちに向かって穏やかに微笑んだ。
「みんな……今まで守ってくれて、本当にありがとうございました」
「もう、大丈夫です。私の中で、覚悟は決まりましたから」
それだけを言い残すと、結は静かに立ち上がり、座敷を後にした。
引き止める言葉も出ない家族を残し、社務所の外へ出たとき――
「……結ちゃん」
背後から低く、かすれた声で名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには痛々しいほど憔悴した表情の宗一が立ち尽くしていた。




