18 真実
「月影、様……」
私の掠れた声に応えるように、月影様は静かに歩み寄り、冷たくて心地よい手のひらを私の頬に添えた。
いつの間にか溢れて、頬を伝い落ちていた涙を、彼は綺麗な親指の腹でそっと、慈しむように拭ってくれる。
「会いたかった……っ」
堪えきれずに吐き出した私の言葉に、凍った心を溶かすような優しい声が返ってきた。
「あぁ……私もだよ……」
そのまま、吸い寄せられるように彼の胸に抱き寄せられる。
彼の腕に包まれているだけで、限界まで張り詰めていた頭の痛みも、鉛のように重かった体も、 じんわりと癒されて解けていく。
きっと、あの白い施設で目覚めるより前の、月影様と過ごした確かな記憶は消されてしまっているのだろう。
けれど私の心が、魂が、彼の温もりを鮮明に覚えている。
ずっと前から、私は月影様だけを求めていた気がした。
ずっと……このまま、こうしていたい。
だけど、私は斎木家の『巫女』だ。
ただ甘えているわけにはいかない。
この世界に今まで何があったのか、どうしてこんな歪な姿になってしまったのか、きちんと確かめなければならない。
「月影様……」
私は名残惜しさを堪えて月影様の腕から身を引き、まっすぐその深い瞳を見つめて言った。
「貴方に、聞きたいことがあって来ました」
「何だい?」
彼はすべてを見通しているかのような、穏やかな眼差しで私を見つめ返した。
私は意を決して、喉の奥に引っかかっていた問いを口にする。
「あなたは……私たち人間のために、巫女に呼ばれてこの地にやってきたのですか?」
私のその問いに、月影様は少しも揺らぐことのない声音で答えた。
「そうだよ」
そう言って月影様は満天の星空を見上げ、目を細めて続きを話した。
「私は、太陽の光しか存在しない世界で、眠ることも許されず疲れ切っていた人々を救いたい――そう願った巫女の『始まりの神楽』に応えて、ここへ降り立ったんだ」
「なのに……その次の代の巫女が、『夜の神』であるあなたを『月の神楽』で封印した……」
月影様は静かに目を閉じ、深いため息をひとつついた。
「そうだね。そして私は、本来還るべき神の世界へ帰れなくなってしまった」
「そんな……っ!」
胸が突かれたように痛む。
絵本に描かれていた『世界を襲う邪悪な夜』なんて、まっ赤な嘘だったのだ。
月影様は、どこか遠くを見るような切ない目で微笑んだ。
「今は、昼だけの世界に疲れ果ててしまった人の心に、ほんの少しだけ『夜』の眠りを与えていたのだけれど……」
「どうやら今の人間たちは、私がもたらす夜の眠りさえも、記憶から消し去っていたみたいだね」
身体の震えが止まらなかった。
信じてきた歴史が、音を立てて崩れていく。
『夜の神』は、帰れなくなってしまったのに、それでもなお苦しむ人間を救おうとしてくれている。
どこまでも優しい神様だ。
「……ごめんなさい……ごめん、 なさい……っ」
止めどなく涙が溢れ出し、視界がぐしゃぐしゃに歪む。
謝って済むようなことではないのに。
「結」
月影様が、ひどく優しい声で私の名前を呼ぶ。
その優しさが、今の私には痛くてたまらなかった。
「どうして誰も真実を知ろうとしなかったのっ……!」
胸が張り裂けそうだった。
人間を恨んでも、文句は言えないほどの仕打ちをされているのに。
「君のせいじゃないよ、結」
そう言って、月影様は私の頭にそっと手を置き、壊れ物を扱うような手つきで、いたわるように撫でてくれた。
「くやしいっ!…みんな!……何も知らないのにっ…!」
彼は拒むことなくその大きな腕の中に、ふたたび優しく包み込んでくれた。
◇
どれほどそうしていただろう。
たくさん泣いてようやく心が落ち着いてくると、彼の胸に顔を埋めたまま泣きじゃくっていた自分が、急に恥ずかしくなってきた。
気まずくなって胸元でモゾモゾと身をよじると、頭上からクスクスと小さく鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。
「落ち着いたかな?」
「……はい」
どうしても恥ずかしくて顔を上げることができず、私は彼の胸元に視線を落としたまま、少し誤魔化すように尋ねた。
「月影様は……どうしてそんなに、私に優しくしてくれるんですか?」
「んー……どうしてだろうね……」
月影様は少し困ったように声を洩らした。
気になってそっと顔を上げると、彼はいつもの完璧な神様としての微笑を崩した。
そして、どこか気まずそうに、ほんの少しだけ私から目を逸らした。
「言葉を交わすことができた巫女は、長い歴史の中でも……君が初めてだったから、かな」
そして、月影様は照れ隠しをするように自分の髪に触れる。
「私は『神』だ。一応ね」
「だから、すべての人間を平等に愛するはずだったんだ」
「……『だった』、ですか?」
私がその言葉を繰り返すと、月影様は再び私へと視線を戻した。
その瞳には、すべての人間へ向ける平等な慈愛ではなかった。
――明らかに私一人のためだけの、困ったような、だけど愛おしそうでたまらない、どこか人間じみた微かな微笑みが浮かんでいた。
◇
結が「境界の森」へと姿を消し、真実の扉を叩いていたその頃――。
終わらない昼に疲弊した人々が神護庁を取り囲むニュース映像がテレビから流れる。
「夜はっ…どこだ!」
「眠れない!闇をくれ!」
今まで消されてきた夜を求める声が、ついに人々の口から溢れ始めていた。
神護庁の内部だけではない。
いまや国全体が、パニックに陥っていたのだ。
世界の均衡は、静かに崩れ去ろうとしていた。




