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誰が為の神楽  作者: 空蝉
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17/28

17 恋心

 

 古書は思った以上に難しくて、数日たっても読み終えることができていなかった。

 息が詰まりそうになるたびに、学校へ足を運んだ。

 そうやって、この世界をしっかりと見ておきたかった。

 

 教室を見渡せば、相変わらず登校している生徒は全体の半分程度しかいない。

 

 大人の社会がどうなっているのかは分からなかったけれど、ニュースでは在宅勤務が増えていると報じられていた。

 

(みんな、本当にただ家で仕事をしているだけなのだろうか……)

 

 そう思うと、毎日欠かさず仕事へと向かう父や兄の姿は、この世界において奇妙なほど「元気」に見えた。

 彼らのように四六時中動き回っている存在の方が、今

の社会では珍しいのだと、私は最近になって初めて知った。

  

◇

  

 ある日の下校時。

 校門の前で兄の迎えを待っていると、見慣れた車から降りてきたのは、兄ではなく宗一さんだった。

 彼はどこか気まずそうな、それでいて神妙な面持ちで私に近づき、ぽつりと言った。

 

「結ちゃん。……少し、話したくて」

 

 私の視線に戸惑うように、宗一さんは視線を泳がせる。

 

「雅臣にお願いして、今日の迎えを変わってもらったんだ」

「ごめん……もし嫌なら、今からでも雅臣を呼ぶけれど……」

 「……大丈夫です」

 

 私が静かに答えると、彼は驚いたように私の顔を覗き込んできた。

 

「ほんとに? 無理してない?」

 

 もの凄く不安そうに訊ねてくるその様子は、立派な大人であるはずなのに、まるで大きな失敗をして叱られた子供のようだった。

 

 張り詰めていた心の糸がふっと緩み、私は思わず小さく吹き出してしまう。

 

「ふふふっ……本当に、大丈夫ですから」

 

 すると、宗一さんは少しだけ拗ねたように眉を寄せた。

 

「何で笑うのかな」

「だって、なんだか叱られた子供みたいに見えたので」

「……実際、叱られたんだよ。雅臣に、思いっきりね」

 

 宗一さんは苦笑しながら、自嘲気味に肩をすくめた。

 そうして、いつも通りに優しく、助手席のドアを開けて私を促してくれた。

 

 神社へと帰るまでの、短い車内の時間。

 彼はこの前、私の許可なく勝手に記憶を消去しようとしたことを、飾らない言葉で心から謝罪してくれた。

 その様子に、本当に悔いているのが伝わってきた。

 

 やがて車は神社の鳥居の前に滑り込み、静かに停車した。

 私が車を降り、お礼を言ってドアを閉めようとした、その時だった。

 

「結ちゃん」

 

 呼び止められて振り返ると、宗一さんは慌てて車から降りてきた。

 そして私の前に立ち、まっすぐな目で私を見つめた。

 

「君が好きだ」

 

 低く、けれど確かな声だった。

 

「返事は急がない。けれど……これからのこと、考えてみてほしいんだ」

 

 胸が、きゅっと締め付けられる。

 私は小さく頷くことしかできなかった。

 

 宗一さんは、いつも優しくて頼りになる。

 世界を守るために動いていて、いつも正しい選択をしてきた。

 

 そして何より、私のことを本当に大切に想ってくれている。

 

 もし、私が宗一さんの手を取れば、きっと家族は心から安心するだろう。

 私だって、不自由のない平穏で幸せな未来を歩めるはずだ。

 

 ……たぶん。

 

 だけど――宗一さんはいつも「正しい」のだ。

 あまりにも正しすぎて、あまりにも光に満ちあふれていて……

 私は彼の隣に、自分の居場所をどうしても見つけられなかった。

 

 私の歪みも、私の孤独も、彼の正しさの前では綺麗に掻き消されてしまう。

 今までも、そしてきっと、これからも。

 

◇

 

 さらに数日後。

 私はついに、蔵から持ち出した古書をすべて読み終えた。

 

 ―――ここに書かれている内容が、世界の真実なのかどうかを、この目で確かめたい。

 

 読み終えた本を閉じ、胸の鼓動を感じながら、私は強くそう思った。

 確かめる方法は、たった一つしか残されていない。

 

 ―――月影様に会う。

 

 父も兄も神護庁へ。

 母と有明さんは買い物に出かけた。

 そんな時間を見計らい、私は自室で静かに衣装を纏った。

 身につけたのは、あの白衣と緋袴。

 穢れのない巫女の姿で、私は境界の森へと向かった。

 

 一歩、森の影へと足を踏み入れた瞬間、肌を焼くような夏の熱気が消え去る。

 まるで私を歓迎するように、ひんやりとした清涼な空気が優しく身体を包み込んだ。

 木漏れ日の届かない暗闇を進み、私はかつて月影様と出会った、少しひらけた場所へと辿り着く。

 

 すう、と深く息を吸い込み、胸に溜まった迷いを吐き出した。

 

 私は静かに舞扇を開く。

 舞うのは、あの古書に『始まりの神楽』と記されていた神楽。

 おばあ様から一番初めに教わった、私がこの世で最も愛する神楽だった。

 

(まさか、この舞に『始まりの神楽』なんて名前がつけられていたなんて……)

 

 胸の内でそっと呟きながら、私は最初の一歩を踏み出した。

 静かに、どこまでも厳かに、祈りを込めて舞う。

 私の動きに呼応するように、木々の葉が優しい風に揺れてサワサワと鳴り響いた。

 白衣の袖がひるがえり、背に流した黒髪と鮮やかな緋袴が、暗闇の中で美しく躍動する。

 

 一連の所作を終え、最後の型を決めて、神楽が静かに幕を閉じた。

 ふう、と小さく息を漏らした。

 その瞬間――背後から、あまりにも穏やかな、切なさを含んだ声が響いた。

 

「結」

 

 その声を耳にしただけで、視界が一気に涙で滲んだ。

 

「月影、様……」

 

 愛おしさに突き動かされるようにして振り返ると、そこには、記憶のままに嬉しそうに微笑む、夜の神様が佇んでいた。

 

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