17 恋心
古書は思った以上に難しくて、数日たっても読み終えることができていなかった。
息が詰まりそうになるたびに、学校へ足を運んだ。
そうやって、この世界をしっかりと見ておきたかった。
教室を見渡せば、相変わらず登校している生徒は全体の半分程度しかいない。
大人の社会がどうなっているのかは分からなかったけれど、ニュースでは在宅勤務が増えていると報じられていた。
(みんな、本当にただ家で仕事をしているだけなのだろうか……)
そう思うと、毎日欠かさず仕事へと向かう父や兄の姿は、この世界において奇妙なほど「元気」に見えた。
彼らのように四六時中動き回っている存在の方が、今
の社会では珍しいのだと、私は最近になって初めて知った。
◇
ある日の下校時。
校門の前で兄の迎えを待っていると、見慣れた車から降りてきたのは、兄ではなく宗一さんだった。
彼はどこか気まずそうな、それでいて神妙な面持ちで私に近づき、ぽつりと言った。
「結ちゃん。……少し、話したくて」
私の視線に戸惑うように、宗一さんは視線を泳がせる。
「雅臣にお願いして、今日の迎えを変わってもらったんだ」
「ごめん……もし嫌なら、今からでも雅臣を呼ぶけれど……」
「……大丈夫です」
私が静かに答えると、彼は驚いたように私の顔を覗き込んできた。
「ほんとに? 無理してない?」
もの凄く不安そうに訊ねてくるその様子は、立派な大人であるはずなのに、まるで大きな失敗をして叱られた子供のようだった。
張り詰めていた心の糸がふっと緩み、私は思わず小さく吹き出してしまう。
「ふふふっ……本当に、大丈夫ですから」
すると、宗一さんは少しだけ拗ねたように眉を寄せた。
「何で笑うのかな」
「だって、なんだか叱られた子供みたいに見えたので」
「……実際、叱られたんだよ。雅臣に、思いっきりね」
宗一さんは苦笑しながら、自嘲気味に肩をすくめた。
そうして、いつも通りに優しく、助手席のドアを開けて私を促してくれた。
神社へと帰るまでの、短い車内の時間。
彼はこの前、私の許可なく勝手に記憶を消去しようとしたことを、飾らない言葉で心から謝罪してくれた。
その様子に、本当に悔いているのが伝わってきた。
やがて車は神社の鳥居の前に滑り込み、静かに停車した。
私が車を降り、お礼を言ってドアを閉めようとした、その時だった。
「結ちゃん」
呼び止められて振り返ると、宗一さんは慌てて車から降りてきた。
そして私の前に立ち、まっすぐな目で私を見つめた。
「君が好きだ」
低く、けれど確かな声だった。
「返事は急がない。けれど……これからのこと、考えてみてほしいんだ」
胸が、きゅっと締め付けられる。
私は小さく頷くことしかできなかった。
宗一さんは、いつも優しくて頼りになる。
世界を守るために動いていて、いつも正しい選択をしてきた。
そして何より、私のことを本当に大切に想ってくれている。
もし、私が宗一さんの手を取れば、きっと家族は心から安心するだろう。
私だって、不自由のない平穏で幸せな未来を歩めるはずだ。
……たぶん。
だけど――宗一さんはいつも「正しい」のだ。
あまりにも正しすぎて、あまりにも光に満ちあふれていて……
私は彼の隣に、自分の居場所をどうしても見つけられなかった。
私の歪みも、私の孤独も、彼の正しさの前では綺麗に掻き消されてしまう。
今までも、そしてきっと、これからも。
◇
さらに数日後。
私はついに、蔵から持ち出した古書をすべて読み終えた。
―――ここに書かれている内容が、世界の真実なのかどうかを、この目で確かめたい。
読み終えた本を閉じ、胸の鼓動を感じながら、私は強くそう思った。
確かめる方法は、たった一つしか残されていない。
―――月影様に会う。
父も兄も神護庁へ。
母と有明さんは買い物に出かけた。
そんな時間を見計らい、私は自室で静かに衣装を纏った。
身につけたのは、あの白衣と緋袴。
穢れのない巫女の姿で、私は境界の森へと向かった。
一歩、森の影へと足を踏み入れた瞬間、肌を焼くような夏の熱気が消え去る。
まるで私を歓迎するように、ひんやりとした清涼な空気が優しく身体を包み込んだ。
木漏れ日の届かない暗闇を進み、私はかつて月影様と出会った、少しひらけた場所へと辿り着く。
すう、と深く息を吸い込み、胸に溜まった迷いを吐き出した。
私は静かに舞扇を開く。
舞うのは、あの古書に『始まりの神楽』と記されていた神楽。
おばあ様から一番初めに教わった、私がこの世で最も愛する神楽だった。
(まさか、この舞に『始まりの神楽』なんて名前がつけられていたなんて……)
胸の内でそっと呟きながら、私は最初の一歩を踏み出した。
静かに、どこまでも厳かに、祈りを込めて舞う。
私の動きに呼応するように、木々の葉が優しい風に揺れてサワサワと鳴り響いた。
白衣の袖がひるがえり、背に流した黒髪と鮮やかな緋袴が、暗闇の中で美しく躍動する。
一連の所作を終え、最後の型を決めて、神楽が静かに幕を閉じた。
ふう、と小さく息を漏らした。
その瞬間――背後から、あまりにも穏やかな、切なさを含んだ声が響いた。
「結」
その声を耳にしただけで、視界が一気に涙で滲んだ。
「月影、様……」
愛おしさに突き動かされるようにして振り返ると、そこには、記憶のままに嬉しそうに微笑む、夜の神様が佇んでいた。




