16 託されたもの
昨夜は断片的な記憶が何度も頭をよぎり、激しい頭痛の余韻もあってなかなか寝付けなかった。
朝食には遅い時間。
リビングへと向かうと、父と兄はすでに仕事へ出掛けた後だった。
静かになった部屋では、母と有明さんが並んで朝食の用意をしてくれていた。
「あら、結。今日は家にいるの?」
母が振り返り、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
私は小さく頷き、昨日の図書室で思い至った目的を口にする。
「うん……あのね、お母さん」
「昨日、図書館で気になったことがあって……それで、蔵にある古書が見たいの、鍵ってある?」
「蔵の古書……?」
母は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに「ちょっと待ってね」と奥の部屋から古びた真鍮の鍵を探して持ってきてくれた。
手のひらに鍵を載せながら、母が少し申し訳なさそうな顔をする。
「私はこれからどうしても外せない用事があって出かけちゃうんだけど……一人で大丈夫?」
「うん……たぶん、大丈夫」
口ではそう答えたものの、考えてみれば蔵の中に入るのはかなり久しぶりだ。
急に心細さが込み上げてきて、私の視線が泳ぐ。
その様子を察したように、傍らにいた有明さんがふんわりと微笑みながら声をかけてくれた。
「それなら、私がご一緒しましょうか?」
「あら。有明さん、いいの?」
母が顔を輝かせると、有明さんは上品に頷いた。
「ええ。大奥様が生きていらした頃、何度かお供で入ったことがありますから」
「案内くらいはできますよ」
「よかったわね、結。じゃあ有明さん、お願いするわ」
母は心底安心したように、いつもの太陽みたいな笑顔を咲かせた。
その屈託のない笑顔につられるようにして、私は何気ない世間話を装い、胸に引っかかっていた疑問を口にしてみた。
「ねぇ、お母さん」
「なあに?」
「あと…もう一つ気になったことがあって」
「うちって『昼の女神様』の絵本とか、そういう本が一冊も置いてないよね?」
私の言葉を聞いた瞬間、母の笑顔がぴたりと止まった。
母と有明さんが、一瞬だけ視線を交わす。
その沈黙に、心臓がトントンと嫌な鼓動を刻む。
「……何で?」
私は逃げないように二人を見つめ、言葉を絞り出した。
「あれって……私のこと、なんだよね?」
有明さんは何も言わず、悲しげにまつ毛を伏せてうつむいてしまった。
母は息をそっと吐き出し、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「……あー、うん。そうね。気づかれちゃったか」
「そのことでね、お父さんも私も、本当にたくさん悩んだのよ」
母の手が、そっと私の頬に触れる。
その手はいつも通り温かかったけれど、母の瞳には今にも零れ落ちそうなほどの切なさが滲んでいた。
「小さいうちから、そんな大きな重荷を背負わせたくなかったの」
「あなたは『巫女』である前に、私たちの最愛の娘だから。ただの女の子として、何にも縛られずに笑っていてほしくて……だから、わざとそういうお話から遠ざけていたのよ」
「大奥様も、『あの子の心が決まるまでは、それがいい』とおっしゃってくださって……」
有明さんも母の言葉を引き継ぐように、静かに語りかけてくれた。
そっか――。
私だけが、何も知らなかったことが寂しかった。
でも違った。
絵本が一冊もないのは、私を守るためだった。
目の奥が熱くなった。
「…ありがとう」
それだけを小さい声で言った。
◇
母を見送ったあと、私と有明さんは敷地の奥にある重厚な白壁の蔵へと向かった。
大きな鉄扉を開け、まずは中に空気を通すために明り取りの小さな窓を開ける。
それから天井の電灯の紐を引いた。
橙色の光が照らし出したのは、長い年月をかけて積み上げられた、ありとあらゆる調度品や古い道具の山だった。
想像以上の雑然とした光景に、私は思わず呆然と立ち尽くす。
「……これ……私が探したいもの、見つかるかな……」
途方に暮れて、ぽつりと心の声が漏れてしまった。
すると、私の後ろで有明さんがふふっと楽しそうに声を立てて笑った。
あまりに迷いのない笑みに、胸がざわついた。
しかし、私の動揺には気づかない様子で、有明さんは慣れた足取りで蔵の奥へと進んでいった。
そして、棚の隅に置かれていた、埃を被った小ぶりな箱を丁寧に抱え上げて戻ってきた。
それは、美しい黒漆塗りの文庫箱だった。
「おばあ様が……大奥様がね」
「『あの子が自分の意志で真実を求めた時にだけ渡してください。誰かに言われて読む本ではありませんから』」
「そう言って、私に預けてくださったのです」
「歴代の巫女様だけに代々伝わる、特別なものだそうですよ」
有明さんから手渡された箱を受け取る。
ずっしりとした木と漆の重み、そしてひんやりと肌に吸い付くような感触が、手のひらを通じて伝わってきた。
「おばあ様が……私に?」
「ええ。……今の結さんの助けになるのではないかと思います」
有明さんは、長年の重大な任務をようやく果たしたかのように、肩の荷を下ろした安心した笑顔を浮かべた。
その優しい眼差しに見守られながら、私は箱をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、有明さん……」
箱を大切に抱えたまま自室に戻り机に置いた。
はやる鼓動を抑えながらそっと蓋を開けると、中には麻紐で綴じられた、古びた和綴じの書物が一冊収められていた。
古びた和紙の独特な匂いが鼻腔をくすぐる。
そっとページをめくってみたけれど、墨で書かれた文字は現代のものとは異なっていた。
変体仮名や崩し字が多く混じっていて、一目見ただけではすぐに解読できるようなものではなかった。
「少し……時間がかかりそう」
ぽつりと呟きながらも、私の胸には確かな灯火が宿っていた。
読みにくくても、難しくてもかまわない。
―――真実を知りたい。
この書物を読み終えた時、何かが変わる気がした。
窓の外の眩しい光を見つめながら、私は静かに本を開き直した。




