13 朧
「結、待て! 結――っ!」
私を追いかけようとする宗一さんの行く手を、兄が身体を張って遮る。
私はその光景を横目に、ただひたすらに、逃げるように離れへと向かって駆け出した。
「結! どうしたんだ!」
向こうから駆け寄ってきた父が、驚いたように目を見張る。
けれど、私はその声を無視して、父の脇をすり抜けた。
――誰も、見たくない。誰も、信じられない。
私の頭から『月影様』を消し去ろうとした宗一さんも。
それを当たり前のように受け入れている兄も。
笑顔の裏で私を欺き続けていた家族も。
今は、誰の顔も視界に入れたくなかった。
「結!?」
離れの玄関から母が慌てた様子で飛び出してくるのが見えた。
私は足をもつらせながら、急激に方向転換した。
離れとは反対方向――玉砂利を踏み荒らしながら、神社の境内、そして神楽殿へと走る。
息を切らし、滑り込むようにして神楽殿の裏手の隅へと逃げ込んだ。
土と埃の匂いが鼻を突く中、私は冷たい床に膝を抱えてうずくまり、ただ激しく脈打つ心臓の音を聞いていた。
◇
「お前……! 結に何てことをしようとしたんだ!」
雅臣は猛り狂った獣のような形相で、宗一の胸倉を掴み、怒号を浴びせた。
「……っ」
宗一は反論もせず、ただ悲痛に歪んだ顔で、雅臣の激しい視線から逃れるように目を伏せる。
「いったい、何が…」
そこへ、すれ違った結のただならぬ様子を察した父が、息を切らせて駆け寄ってきた。
雅臣の手元、そして、かすかに焦げたような跡の残る宗一の震える指先。
それを見た父は、すべてを察したように深く、重いため息をついた。
父は宗一の指先から視線を外し、苦しげに目を閉じた。
「……もう隠してはおけない」
「結には、きちんと自分が何者なのか、知ってもらわなければならない」
痛みを押し殺すように静かに言った。
父の言葉に、雅臣が息を呑む。
「もう一度、すべてをきちんと話そう」
「前回の話は、記憶消去のせいですっかり忘れてしまっているようだからね」
「あなた……」
背後から追いついた母が、不安げに眉をひそめて夫の袖を引いた。
「別に、そこまでして話さなくてもいいんじゃないですか?」
「今話したって、あの子はまた拒絶するだけですよ」
しかし、父は振り返らなかった。
その表情は、一人の父親としての苦渋を滲ませつつ、昼の世界を護る『斎封神社』の宮司として覚悟を決めた顔だった。
「それでは駄目なんだ。世界を保てなくなる」
そう苦し気に眉を寄せた。
「結自身が自らの役目を理解したうえで、『月の神楽』を成人の儀式で奉納しなければ、封印の効果が著しく薄れてしまう」
「でも……っ」
母はそれ以上言葉を紡げず、ただ、娘が逃げていった神楽殿の方を、やりきれない表情で見つめることしかできなかった。
父は、胸倉を掴まれたまま硬直している宗一に向き直り、静かに頭を下げた。
「葉室くん。今日はすまなかったね……」
「いや……僕は、結を、これ以上苦しませたくなくて……っ」
宗一が焦燥を滲ませて言葉を返そうとするが、父は右の手のひらをすっと向け、静かにそれを遮った。
「しかし、娘は君を望んではいない。それだけは事実だ。悪いが今は、結から手を引いてくれないか」
その明確な『拒絶』の言葉に、宗一は言い返す言葉を失い、力なく押し黙った。
雅臣は、掴んでいた宗一の胸倉を乱暴に放すと、天を仰いで大きく息を吐き出した。
◇
薄暗い神楽殿の裏の片隅で、自分の膝に顔をうずめて震えていると、静かに砂利を踏む足音が近づいてきた。
「結さん」
聞き慣れた、穏やかな声。
顔を少しだけ上げると、そこには有明さんが立っていた。
彼女はいつものように優しい表情で、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「……どうしました? 結さんは、昔から泣くときは必ずここですね」
その笑顔を見て、喉の奥からかすれた声が出た。
「有明、さん……」
私はすがるような思いで、彼女の目を見つめる。
「有明さんは……知っていたの?」
「私の記憶が、消されていたことを……」
私の問いかけに、有明さんは悲しげに目を細めた。
そして、私の傍らにそっとしゃがみ込むと、幼い頃のように、私の頭を優しく撫でてくれた。
「……憶い出されたのですか?」
「少し、だけ……」
「そうですか……」
有明さんはぽつりと呟き、遠い目をした。
「先代様――おばあ様がおっしゃっていました…」
「結さんはいつか、苦しい選択をすることになるかもしれないと…」
「え……」
おばあ様の、優しくどこか寂しげな笑顔がおぼろげに浮かび上がる。
「結さんなら、大丈夫です」
有明さんは優しい顔でそう言った。
「それって、どういう……」
詳しく聞こうと、有明さんに身を乗り出した、その時だった。
「結」
神楽殿の入り口から、冷たい光とともに、聞き覚えのある低い声が響いた。
振り返ると、逆光の中に、父と兄が並んで立っていた。
「結」
「お前に話さなければならないことがある」




