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#001

※本作『10年目のログ』は、現在【外部の原作賞(小説コンテスト)】へ突撃中のため、なろう版の更新は3話で一時停止しております。15万文字の一挙全解禁(本陣)および、高読破率を計測中の詳細なデータログ(出城)を確認したい方は、外部検索や各SNSで「亜沙 10年目のログ」または「公式Linktree」を探して本陣へ突撃してください。時効の切れた現実が、そこにあります。

第一章 結び目


二〇一五年ーーーー


二十四歳、昼の私は吉祥寺の洗練されたタパスバー・Nudo(ヌード)にいた。

大きな窓から差し込む白い太陽の光を浴びながら、お洒落な皿に盛り付けられた食事を客席へと運び、磨き上げたグラスへワインを注ぎ、スマートに微笑んで接客をこなす。それが「表の顔」だった。


厨房を守るオーナーシェフの夫と、ホールの全責任を負う店長の私。建前は理想の夫婦経営だが、店の経営を動かすための実務のすべてが私の両肩にのしかかっていた。


仕入れ業者とのシビアな交渉、広報活動、他店の試飲会への出席。数字の計算に追われ、頭が破裂しそうな私を余所に、夫は私が甘やかしたせいで、経営者としても男としてもどんどん腑抜けになりつつあった。


売り上げと支出のバランスの悪さは、決して客席にはわからないが確実に私たちの関係と店を歪な形に蝕んでいく。


「私がやらなきゃ、明日にはこの店が潰れる」という恐怖だけが、泥のように重い身体を突き動かしていた。


実母や義理の兄にまで頭を下げてかき集めた金の重みを背負い、夕方、本業の激務を終えると私は一人静かに夜の顔に向けて身仕度をする。

残りの体力をすり減らしながら、高円寺へ向けて自転車のペダルを必死に漕ぐか、あるいは時間に追われた日は疲れ果てた身体をタクシーのシートに沈める。


夜の二十二時には、あのエンジのソファが待つスナック・ラティスのカウンターに立たなければならない。

夫との暮らしと店を支えるために、一年ほど前から始めた過酷な「二足のわらじ生活」が今の私の日常だった。


高円寺駅から少し離れた一角に、鰻の寝床のように細長いスナックが連なる雑多なエリアがある。その重いドアを開けた先が、夜の戦場だった。


店内は、少し暗めの書斎のような灯りが満ちている。入り口から奥へと細長く伸びる茶色い木目のカウンターには、回転式の丸椅子が七席ほど。奥のボックス席との間は太い柱で絶妙に仕切られており、客同士の視線を完全に遮ることができた。


気性の荒い客同士を鉢合わせるリスクを未然に防ぎ、空間を完全にコントロールできる――。


十五歳からノークレームで接客業に向き合ってきた私にとって、この小さなスナックの箱を完璧に回すことなど容易かった。


過酷な生活の中で心身ともに限界まで擦り切れていた今の私には、この怪しげなラティスの暗がりだけが、唯一、現実の借金から目を背けられる場所でもあった。


そのエンジ色のベルベットのソファに深く腰掛け、鋭い目を光らせているのが十二社に拠点を置く広島・呉から一旗上げにやって来た男たちだ。


大柄で短気、絵に描いたような元ヤクザの荒木が、太い声で笑いながらハイボールのグラスを傾けている。

その横で静かにスコッチを飲むインテリ風の男が、社長の右腕である源。一見優しそうだが、酒が回ってシャツの襟を緩めた拍子に、鎖骨の下からのぞく隙間のない和彫りの刺青を、私は知っている。


「亜沙ちゃん、次、芋の水割りなぁ」

不器用な笑顔を向けてくれるのは、源の弟のレンだ。軍団の中で唯一カタギを通している元配管工。私が結婚していることも、心の奥底に暗い渇きを携えていることも、何も知らず、純粋な好意を抱いて店に足繁く通ってきていた。


呉の狂犬たち。元ヤクザと堅気。

今では全員一般市民に紛れて仲間内で会社を起こしていると聞いているが、どこまで綺麗な稼ぎかわかったものではないし、確かめる気にもならない。

カウンターの裏で、あるいはボックスの真横で、笑顔を貼り付け、彼らの欲しい言葉を先回りして差し出しながら、脳内では常に最悪の刃が剥かれる瞬間を想定して立ち回っていた。



その年の冬。

街が浮足立つ十二月の冷気とは無縁の、あの店で。

その夜も、いつもと同じようにエンジのソファで呉軍団が騒いでいた。


店の重いドアが開き、冷たい夜風と共に、源が一人の男を連れて入ってきた。


「おう、みんな。地元の幼馴染の旦那、連れてきたぞ。レンも知っとる顔じゃ。広島アイアンズの元四番バッター。今日たまたま、仕事で東京来とるけぇ連れてきたんじゃ」


レンが弾んだ声を上げ、私はボックス席の丸椅子から視線を向けた。


そこに立っていたのは、スーツ姿でもなければ、アスリート特有のスマートさなど微塵もない、規格外に巨大な男だった。

そして――着ている私服が、驚くほど、不恰好だった。

体に合っていない派手な色のスウェットに、安物のゴールドチェーン。その巨躯に似合わない歪なちぐはぐさに、私の視線は一瞬で興味を失った。



その大男――アイアンズの元四番バッターの記憶は、年が明ける頃には、私の頭から完全に消え去っていた。

彼のことを思い出す心の余白なんて、当時の私には針の穴程も残されていなかったからだ。


年が明け、凍えるような冬の寒さが、いつの間にかじっとりとした梅雨の気配に変わるまでの五ヶ月間。私の日常は、彼と一度も会うことなく、連絡を取り合うこともなく、交わることなどあり得ない、ただ吉祥寺の客席と高円寺のカウンターを往復するだけの地獄のような日々だった。


私は東京にいて、彼は広島にいる。

それぞれの場所で、ただ自分の生活を淡々と送っているはずだった。


私の心身がいよいよ限界を迎え、カラカラに乾ききっていた、あの六月十五日のことだ。


初夏の生温かい夜風が吹く、高円寺の街角。

ラティスでの仕事を終え、なんとなく、いつもと違う暗い路地を選んだ。雑多な人混みの奥へ、私のハイヒールの乾いた音が不穏に響いていた。

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