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#002

※本作『10年目のログ』は、現在【外部の原作賞(小説コンテスト)】へ突撃中のため、なろう版の更新は3話で一時停止しております。15万文字の一挙全解禁(本陣)および、高読破率を計測中の詳細なデータログ(出城)を確認したい方は、外部検索や各SNSで「亜沙 10年目のログ」または「公式Linktree」を探して本陣へ突撃してください。時効の切れた現実が、そこにあります。


下記URLからワンステップでも飛べます↓

https://estar.jp/novels/26575073

二〇一六年ーーーーー

六月の夜風は、生温かい湿気を孕んで高円寺の路地に滞留している。

気付けば私は二十五歳になっていた。


スナック・ラティスでの仕事を終え、いつもと違うルートで夫と暮らす阿佐ヶ谷の自宅へ歩いていたとき、不意に目の前に空間を丸ごと削り取るような巨大な影が飛び出して来た。


「お姉さん、ちょっと一緒に飲んで行かへん?」

低く、少し掠れた関西風のイントネーション。見上げると、そこそこ良い仕立てだろう、おそらくオーダーメイドのスーツがはち切れんばかりの肩幅で歪んでいる。見覚えのある目頭の開いた幅が広い二重。


ハッとした。

半年前に一度だけ源に連れられて店に来た、あの元プロ野球選手――樫谷かしたに 岳臣たけおみだった。


向こうも一瞬目を丸くするも、すぐに気がついたようだった。

そういえば、さっき珍しく一人で飲みに来たレンが、あいつが単身赴任で東京に出てきたと溢していた。脳内にある記憶の引き出しが、音を立てずにカチリと噛み合う。


訊けば、源や荒木たちと飲んでいるのだという。店に女っ気がないからと、「俺がちょっと調達してきます!」と威勢よく飛び出してきたのが、この一九〇センチ近い分厚い肉の塊だった。


「いつも荒木さんや源さんにはお世話になってるから。少しだけね」

表の顔で店長として培った、十年物の営業スマイルを完璧に張り付かせて頷いた。夜の世界の駆け引きではない。これは、太客との信頼関係を守るための「大人の付き合い」だ。


合流した居酒屋の席で、岳臣はまさに水を得た魚だった。


現役時代、数々の修羅場や飲み会の場を回してきたのだろう。大柄な身体を器用にすぼめ、関西弁の軽妙なテンポで、荒木たちのグラスを絶妙なタイミングで満たしていく。

時に自虐を交え、時に大きな身振りを交えて笑いを取るその姿には、現役時代の四番バッターとしてのプライドを完璧に隠し切る、ある種のプロフェッショナルな愛嬌があった。


呉軍団の荒くれ者たちが、彼の言葉一つで子供のように破顔する。

グラスの結露を指先でなぞりながら、その光景をぼうっと眺めていた。


(この男、信じられないくらい対人スキルが高いな)

ヘラヘラと笑う深い窪みから覗く二重の奥で、周囲の空気の温度を、誰がどこで不機嫌になるかの地雷原を、驚くほど冷静に先読みして立ち回っている。

私と同じ、周囲をコントロールするために思考を回し続ける側の人間だ。

体育会系のノリに擬態した、冷徹な知性。


その歪なギャップを悟らせない男の笑顔に、胸の奥で、見たことのない小さな警告灯がチカチカと明滅を始めていた。


「みんなの広島弁とは、すこし話し方が違うんですね。オミさんの出身地って、広島じゃないんですか?」


賑やかな宴の隙間を縫うように、カウンターに立つ時の癖で、ふと気になった違和感を口にしてみた。


岳臣はメビウスの煙草を指に挟んだまま、ぱっちりとした獰猛な二重まぶたをさらに丸くして破顔した。


「俺、出身は和歌山なんよ!……それより、オミさんてなんなん? みんなと同じようにオミか、そのまんま呼び捨てでええさかいな!」


「いや、流石にお客さんのことを呼び捨ては……


じゃあ、オミ君で」


悪戯っぽく笑う彼の和歌山弁の響きは、どこまでも軽かった。けれど、呉軍団の荒くれ者たちの誰もが「オミ」か「岳臣」と呼ぶこの巨大な怪物を、私だけが「オミ君」と呼ぶ。その瞬間に、張り詰めた空気の境界線が、ほんの数ミリだけ内側へ融け出したような錯覚を覚えた。


ふいに岳臣が脱ぎ捨てたジャケットの下から、スリーピースのベストがはち切れそうな胸板が露わになる。

第二ボタンまで開けたシャツの隙間から覗く首元と、五分丈まで捲り上げたシャツから飛び出す前腕筋の圧倒的な雄としての輪郭に、つい視線が吸い寄せられた。


(前回、変なスウェットだったから気が付かなかったけど、引退後も体型キープしてるんだ)

お調子者を演じていても、かつて球界のスターだった男としての、底知れないプライドが垣間見えた気がした。




――そして、朝の五時。

泥酔して足元の覚つかない源さんを、岳臣がその芸術的な筋肉を纏った腕で軽々と抱え込み、タクシーのシートに押し込んだ。

排気ガスと朝焼けの匂いが混ざり合う高円寺の駅前で、岳臣は私の目をまっすぐに見つめ、手のひらに体温で温まった固まりを握らせた。


「家に着いたら連絡して。送ってあげられなくてごめんやで、これ、タクシー代」


それが、初めて連絡先を交換した瞬間だった。

走り去るタクシーのテールランプを見送りながら、手のひらを開く。握らされていたクシャクシャの二千円を、感情を交えずに財布の奥へしまい込み、結局、タクシーが見えなくなってから阿佐ヶ谷の家まで歩いて帰った。

夜の海のピンチを何度も切り抜けてきた私にとって、男から渡された端た金に一喜一憂するフェーズは、とうに過ぎている。


午前五時四十五分。

シャワーを浴び終え、一応の礼儀として「無事に着きました。ごちそうさまでした」とLINEを入れた。

液晶画面が震えたのは、それから一分も経たないうちだった。


『これから、二人で飲み直さん?』

東の空が白み始め、あと数時間後には吉祥寺のタパスバーで仕込みを始めなければならない私に対して、そのメッセージはあまりにも不躾で、文字通り容赦がなかった。


「さすがにこれから昼の仕事だから」と丁重に、けれど強固な壁を作るように断りの文字を打ち込んだ。

画面を閉じ、小さく息を吐く。


(元気だなぁ。さすが、あの世界を生き抜いた男は体力の桁が違う……)


それが、私の乾いた理性の隙間に、彼の足音が土足で入り込んできた最初の瞬間だった。


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