プロローグ
※本作『10年目のログ』は、現在【外部の原作賞(小説コンテスト)】へ突撃中のため、なろう版の更新は3話で一時停止しております。15万文字の一挙全解禁(本陣)および、高読破率を計測中の詳細なデータログ(出城)を確認したい方は、外部検索や各SNSで「亜沙 10年目のログ」または「公式Linktree」を探して本陣へ突撃してください。時効の切れた現実が、そこにあります。
「今からおんどれん家行って家宅捜索しちゃるけぇ!!!!」
受話器の向こうから地を這うような広島弁が漏れたとき、私の頭の芯は、ひどく冷え切っていた。
二十六歳の誕生日を目前にした、桜の舞う春の夜。
私が必死に守ってきた東高円寺のワンルームの静寂が、呉軍団・荒木の、電話越しでも頭蓋骨が小刻みに揺れるような怒号によって無惨に引き裂かれていた。
相手の欲しい言葉をコントロールし、最悪のシナリオを先回りして回避する――。
それが私の生きる術であり、仕事や私生活で長年かけて培ってきたプライドだった。
なぜ、そんな私が、ヤクザ相手に命がけのチェスを打つような泥沼の真ん中に立っているのか。
受話器を耳に当てたまま、私の目は、ほんの二十四時間前のあの激しい雨の夜を追っていた。
*
始まりは昨日、月曜の夜だった。
呉軍団の源と大喧嘩をして会社の金を掠め取ったあの男が、四谷三丁目の無機質なオフィスビル群から送ってきたのは、通知を見た瞬間に首筋がぞわりとするようなLINEだった。
私は高円寺の店を早退し、タクシーを拾った。
深夜の街灯の下、激しい雨に打たれながら、酒に呑まれてフラフラと歩く大男を見つける。
かつてはスタジアムで何万人もの歓声を背負っていたはずの威風は微塵もない。
東京の闇に無理やり着せられたような窮屈なスーツの肩を濡らして、男はヘラヘラとした笑顔を浮かべながらこちらに近づいてきた。
かと思いきや、今度は突然、手元の携帯電話を街路樹の植え込みに投げ捨てる。
「何やってんの!?」
驚きながらも、私は綺麗に整備された泥だらけのツツジの壁に迷わず手を突っ込んだ。
「亜沙ちゃん以外の連絡先、もういらんやんなぁ。俺、もうあの会社辞めるさかい」
ゾッとするほど甘ったれた、和歌山弁の太いしゃがれ声。私はその規格外の巨躯をタクシーの座席に押し込み、東高円寺の自宅へと向かった。
狭い車内に、安っぽい芳香剤と、男の濡れた衣服から放たれる饐えたアルコールの匂いが充満する。
自由を愛するこの男にとって、社長からの昼夜を問わない拘束や、社長の寵愛を受けたことによる周囲からの妬み嫉みから生まれるストレスはとっくに限界だったのだろう。
走るタクシーの中で、男の本能は突如として野生の牙を剥いた。
私の手から、先ほど回収したばかりの携帯電話を力任せに奪い取ったのだ。
彼の大きな手のひらが私の指をかすめた瞬間、窓が乱暴に開け放たれる。
「やっぱり、いらんやろ」
暗闇の夜風の中へ、黒い塊が消えていく。
時速数十キロで加速するタクシーの背後で、ガシャリと何かが砕ける音がした。流石の私でも、もうそれを拾いに行くことはできなかった。
遠ざかる携帯電話だったそれを視界の端で眺めながら、男が以前こぼしていた言葉が脳裏に浮かぶ。
二月、広島に置いてきた幼い我が子と別れるとき、『これ、パパの番号やから。寂しくなったら電話してな』と、不器用に書かれた数字が並んだメモを渡してきたと言っていた。
もし、明日にでもあの小さな手が公衆電話の受話器を握り、震える指で覚えたての数字を一生懸命になぞったら。繋がらない発信音を一人で聞くあの子は、どんな顔をするのだろう。
想像しただけで、胃の底にどろりとした嫌な汗が滲む。かつて私を置いて消えた、実父の背中が重なった。
最愛の我が子と繋がれる唯一の命綱を、この男は自分の感情ひとつで、こうも簡単にどぶに捨ててしまうのか。
男の情けなさ、浅はかさに父親の姿を重ね、奥歯がギリ、と嫌な音を立てた。
誰にも見られないようマンションのエントランスに滑り込み、朝五時まで私の部屋でひたすら、静かに話をして過ごした。
男はスーツの胸元を濡らして、子供のように小刻みに肩を振るわせながら泣いた。
本当は三十五歳までバッターボックスに立ちたかったこと。自殺したいと思うほど追い込まれていたこと。
胸の内に支えていた小さな、それでいてとても重たい鉛のようなことばをぽつりぽつりと吐き出していった。
「これから大阪か、高知か……とにかく遠くへ逃げるわ」
空が白み始めた頃、男は言った。
「亜沙ちゃんの番号は記憶しとるから大丈夫や。必ず電話する。公衆電話からの着信、受けられるようにしておいてな」
一九〇センチ近い大きな身体を信じられないくらい小さく縮めて、私の部屋にあった少量の着替えをのそのそとカバンに詰める。
空は白くなり始め、大雨が和らぎ小雨に変わった明け方の裏通り、男は一人静かにタクシーに乗って去っていった。
遠ざかるテールの赤を見送りながら、喉の奥まで出かかった「行かないで」の五文字を、私は得意のポーカーフェイスで飲み込んだ。
このまま一生、会えなくなるかもしれない。
私を損切りして、別の新しい女のところへ逃げるのかもしれない。
それでも――どうか死ぬことだけはしないで。生きてさえいれば、なんとでもなるから。
男が私の部屋から消えた、その日の夜。
事態に気づいた呉軍団から、私の携帯に最初の着信が入った。
静まり返った阿佐ヶ谷のワンルームで、ピンと張り詰めるような緊張感の中、私は通話ボタンを冷徹にスライドさせる。
「――荒木さん。家宅捜索でも何でも、どうぞ来てください。ただし、ねえ」
ここから、私と呉軍団、そしてあの男との本当の戦いが始まる。
*
全てが動き出したのは、二〇一六年六月十五日。
高円寺の濁った夜の裏路地、彼と再会してしまった、あの日からだ。




