(2)
別の日。午後の陽光が聖域の石畳を優しく照らしていた。
私はいつものように石段の上に立ち、長棒を軽く肩に担いで周囲を見回していた。
すると、一人の男がゆっくりと石段を上がってきた。
(……っ)
一瞬、私の胸がドクンと鳴った。
精悍な顔立ちに、柔らかな愛嬌を湛えた瞳。鍛えられた体躯を包む旅装は清潔で、野蛮さを感じさせない。冒険者にしては、珍しいタイプだった。
私はすぐに表情を引き締め、長棒を地面に突き立てて立ち塞がった。
「聖域に用はないはずだ。すぐに立ち去れ。ここは男が入る場所ではない」
いつもの冷たい声で告げる。男は足を止め、私の姿をまじまじと見つめた。
「……!」
男の頰が、わずかに赤く染まった。彼は慌てたように視線を逸らそうとするが、すぐに私の胸元、くびれた腰、露わな太ももへと視線が戻ってしまう。喉を小さく鳴らし、苦しげに息を吐いた。
「あ、いや……話には聞いてたけど……」
頬が少し赤い。
その視線が全身を眺め、そして慌てて逸れていく。
私は内心、小さくため息をつく。
結局この男も同じか。
少しだけ――本当に少しだけ、残念だった。
さっきの胸のざわつきが、馬鹿みたいに思える。
「何?」
わざとぶっきらぼうに言う。
「帰らないなら追い出す」
男は慌てたように手を振った。
「ち、違う! そうじゃなくて!」
ごそ、と肩へ手を回す。
私は反射的に棒を構えた。
来るか。そう思った瞬間――
男はふっとマントを外した。そして、そのまま私へ差し出す。
「えっと、その」
目を逸らしながら言う。
「これ、着てくれないか」
私は眉をひそめた。
「……は?」
男はますます顔を赤くする。困り切った顔で視線をさまよわせながら、小声で続ける。
「目のやり場に困るというか……」
沈黙。
風が吹いた。
私はぽかんと男を見る。
それから自分を見る。
そしてまた男を見る。
……何だこいつ。
初めてだった。
露出の多い格好を見て、軽口を叩くでもなく、下卑た笑いを浮かべるでもなく。
慌てて上着を差し出してくる男なんて。
私はなぜか言葉に詰まり、妙に落ち着かない気分で棒を握り直した。
心臓が、再びドクンと大きく跳ねた。
(……何だ、この感覚は)
男の視線は確かに私の身体を捉えていた。でも、そこにはただの欲望だけではない何かがあった。戸惑いと、敬意と、そして抑えきれない男としての反応。
私はマントを受け取るべきか迷った。受け取れば負けのような気がした。でも、なぜか足が動かない。
「……ふん。珍しい男だな」
私は小さく鼻を鳴らし、紫の瞳で彼をじっと見つめ返した。胸の谷間が息をするたびに揺れるのを、男は必死に視線を逸らそうとしている。
男が何か言いかけた、その時だった。
ぱたぱた、と小さな羽音。
「む?」
私は反射的に棒へ手をかける。
森の光がふわりと集まり、男の肩口のあたりに小さな影が現れた。
……小さい。
羽。
女の子、の姿。
掌に乗るほどの身体で、薄く透き通る羽を忙しなく動かしながら宙に浮いている。
金色にも見える髪が陽光を受けてきらりと揺れ、小さな腕を組んで、こちらをじろりと睨んだ。
「おいおい、そんな物騒な顔をするな」
高飛車な声音。
「侵入者ではない。少なくとも今日のところはな」
私は目を見開いた。
「……妖精?」
思わず声が漏れる。
伝承では知っている。聖域の古い文献にも記されていた。
だが実物なんて初めて見た。
私は思わず一歩近づく。
妖精はふん、と鼻を鳴らしながら胸を張った。
「いかにも。私は妖精族の導師、リゼット様だ」
小さな身体なのに妙に偉そうだ。
いや、様?
私はちらりと男を見る。
すると男は慌てて姿勢を正した。
「リゼット様、急に出てくると驚かせますよ」
……様?
この男、妖精を様づけしてるのか。
しかも敬語。
私は少し目を丸くする。
男より遥かに年上――ということか?
妖精は寿命が長いという話は聞いたことがある。
「それで」
小さな妖精――リゼットが腕を組んだまま顎を上げる。
「こやつは私の護衛兼雑用係、アッシュだ」
「雑用係じゃないですよ!?」
「似たようなものだろう」
男――アッシュが苦笑する。
その気安いやり取りに、私は少しだけ肩の力が抜けた。
……敵意は、薄い。
気づけば私はじっと妖精を見ていた。
私は無意識に手を伸ばす。
指先が届きそうになった瞬間。
ぺしっ。
小さな手で叩かれた。
「気安く触るな」
思わず手を引っ込める。
「何百年生きてると思っている。おぬしなど、ひよっ子だ」
胸を張る妖精。
「……何百年?」
「失礼ですよ、リゼット様かなり偉い方なんです」
横からアッシュが苦笑混じりに補足する。
しかも本当に敬っている顔だった。
私は妖精と男を交互に見る。
なんだ、この組み合わせ。
そして何故だろう。
さっきから、この男が笑うたび、妙に胸の奥がざわつく。
私は咳払いして顔をそむけた。
「で? 侵入者じゃないなら、何しに来た」
アッシュは困ったように頭をかいた。
「怪しいのはわかる。でも、本当に人助けなんだ」
その声音は拍子抜けするほど真っ直ぐだった。
冗談めかした軽さもない。ごまかす気配もない。
隣では妖精――リゼットが腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「事実だ。聖女にも話を通したい事情がある」
「顔見知りなのか?」
私が問うと、リゼットは小さく肩をすくめた。
「昔な。あやつがまだ小娘だった頃から知っておる」
……何百年単位で生きているらしい妖精の言葉だ。本当なのかもしれない。
だが、それだけだ。証拠にはならない。
「悪いけど、それで信用しろって?」
アッシュが少し困った顔で笑う。
「だよな」
そして、不意に腰へ手をやった。
私は即座に棒を握り直す。
だが彼は戦う様子もなく、ゆっくりと二本の刀を外した。
手入れの行き届いた大小二刀。
「これ、ここに置いていく」
私は眉を上げた。
「……武器を?」
「ああ」
アッシュは軽く両手を上げてみせる。
「信用が欲しいなら、まず俺が譲るべきだろ?」
その横でリゼットが呆れ顔になる。
「おぬし、相変わらず極端だな」
「でも、これくらいしないと通れない気がして」
彼は苦笑した。
嘘をついているようには見えなかった。
胸の奥がざわつく。
信じたい?
何を馬鹿な。
ここは聖域。私情を挟む場所じゃない。
「悪いけど」
私は低く言った。
「証拠がない以上、通せない」
アッシュが静かに息を吐く。ただ、少し残念そうに目を細めた。
「……そっか」
私は一歩踏み出し、長棒を構える。
「ここから先へ行きたいなら――」
視線を真っ直ぐ向ける。
「私を越えてみな」
私の紫の瞳が鋭く細まる。
心のどこかで、この男を本気で試してみたいという気持ちが芽生えていた。さっきの胸の鼓動を、戦いで振り払えるかどうか。
リゼットが慌てて羽をバタつかせた。
「待たぬかルシェリア! アッシュは本当に――」
「黙っていろ、妖精。……これは私の役目だ」
私は構えを崩さない。豊満な胸が息をするたびに上下し、服の隙間から白い肌がチラリと覗く。アッシュの視線が一瞬、私の身体に吸い寄せられたのが分かったが、彼はすぐに目を逸らして拳を軽く握った。
私は内心で小さく微笑んだ。
(どれほどのものか、見せてみろ)
私は構えを低く取り、長棒を一閃させた。
「はっ!」
威嚇の一撃。空気を切り裂くほどの高速の突き。普通の男なら後ずさるか、慌てて防御するはずだった。
しかしアッシュは、微動だにしなかった。
棒の先端が彼の鼻先を掠める寸前で止まる。彼の瞳は冷静に、私の動きを捉えていた。
(……この男、できる)
戦士の血が、熱く騒いだ。久しぶりに、胸の奥が戦闘の喜びで震える。さっきまでのざわつきとは、別の高揚感だった。
「ふん……見切ったな」
私は小さく笑い、すぐに連撃に移った。
右から左へ、薙ぎ払い→回転突き→下方から跳ね上げる三連撃。
アッシュは「ちょっと待て!」と慌てた声を上げながらも、必要最低限の動きだけで全てをかわしていた。身体をわずかに傾け、足を一歩ずらすだけ。無駄が一切ない。
私は棒を回転させ、さらに踏み込む。
風圧が頬を打つ。それでも彼は崩れない。
「リゼット様、止め――」
宙で腕を組んでいた妖精が、面白そうに笑った。
「そんな女、やってしまえ!」
「無茶言わないでください!」
アッシュが思わず声を裏返らせる。
「こんなの手加減できる自信ない!」
……は?
私はぴたりと目を細めた。
手加減?
「……へぇ」
自然と笑みが浮かぶ。
自分でもわかる。少し、獰猛な顔をしている。
「なめられたもんだな」
私は棒を握り直した。
足を踏み込む。
今までより深く。
今までより速く。
「なら――少し本気を見せてやる!」
連撃がさらに鋭さを増す。
石畳を蹴り、私は間合いを詰めた。
「ご、ごめんなさい!」
その声と同時だった。
アッシュの動きが、初めて変わる。
抜いたのは短い方の刀。
一閃。
――速い。
今まで避けに徹していた男とは別人のような太刀筋だった。
私は反射的に棒を返しながら後ろへ跳ぶ。
刃先が私をかすめた。
「いい太刀筋だ」
着地しながら私は口角を上げる。
「けど――」
視線を細める。
「間合いが甘――」
その時だった。
ぱさり。
妙な音。
風が妙に肌へ触れた気がした。
アッシュは小刀を構えたまま、固まっていた。顔が真っ赤で、目が私の胸に釘付けになっている。
「……え?」
一瞬遅れて、自分の異変に気づいた。
白いキャミソールが、胸の真ん中から縦に真っ直ぐ切り裂かれていた。金色の装飾ごと、布が左右にぱっくりと分かれる。
両方の豊満な乳房が、露わになっていた。戦いの汗で艶やかに光る、白く大きな胸。桜色の頂が、冷たい風に触れてすぐに硬く尖る。
「きゃぁぁぁぁ!?」
自分がこんな可愛らしい悲鳴を上げるなんて、思ってもみなかった。




