1・「益荒男」たちは「鞘の処女」の知らぬ間に(4)
咲也と九郎が通う県立高校は自宅から歩いて三十分の距離にある。
通学路は途中までは茉莉花と同じルート。
彼女は区役所前で左に曲がり地下鉄の駅に向かうが、彼らは区役所の角を右に曲がりさらに十分歩く。
道なりに進み、左カーブの先にある緩やかに続く長い坂を登り、立ち並ぶ集合住宅の先にあるのが彼らが通う「泉将監高校」だ。
夏場の制服は男子は白シャツに明るい紺色のスラックス、女子は白のブラウスに同じく明るい紺色のボックスプリーツのスカートのシンプルなデザイン。
二限目の授業を終え、九郎は別のクラスにいる友人を尋ねるため席を立ち教室を出る。
九郎のクラスは二年一組。友人は三組。ちなみに咲也は五組である。
開いている前の扉から廊下へ出ると教室に入ろうとしていた隣の二組の女子とぶつかった。
驚いて目を見開いた九郎の鼻を「女子」の匂いが掠める。
体臭と整髪料や制汗剤の香料が混ざった甘い匂い。
良い匂い――そう認識するだけで特別な感情は伴わない。
マリの匂いと違う――思うことはそれだけだ。
「ごめん」
九郎は申し訳なさそうに少し眉を下げ静かな声で彼女に詫びる。
「――あ、うん」
彼女はチラリと九郎を睨むように見上げそう言うと、すぐに目を逸らし教室の中へ入って行った。
夏休み前の九郎ならもっと動揺していた。
年頃の男子がアクシデントとは言え女子の体に触れたらそれなりに色々焦るものだ。
今の九郎は「小柄で弱い者」にぶつかって「ごめん、大丈夫?」と思っただけだった。
茉莉花の「匂い」を間近で感じてから「思春期」特有の異性に対する興味と性欲が消えている――それはもう枯れた、と言っていい。
一年の時に同じクラスにいた可愛いなと思っていた女子を見ても「可愛いな」と思うだけ。
胸が大きい女子を見ても「胸が大きい」と思うだけ。
「りんご」を見て「りんごだな」と思うような、限りなく「無」に近い客観的な脳反応。
茉莉花によって「去勢」された、と言ってもいい。
彼女以外の女子に対し去勢され「無」になった九郎だが、性欲が消えたわけではい。
異性に対する全ての関心、全ての性欲が茉莉花一点に向いている。
グラビアアイドルの際どいビキニ姿より、茉莉花が屈んだ時にくっきりと浮かぶ、細い腰のくびれから豊満な尻にかけて続く艶めかしい曲線の方に身が疼く。
胸派だと思っていたが、今となっては尻派――厳密に言うと「茉莉花の尻派」である。
小ぶりだが桃のように丸い胸もそそる。茉莉花の胸だから可愛いらしくてたまらない。
彼女を中心に精鋭化された煩悩の質は、客観的に見ると「変態」の域に達していた。茉莉花特化型の「変態」である。
九郎は「オオカミ」の半身を持つ。たった一人の女に並々ならぬ執着を持つのは、おそらくこの「オオカミ」の習性に由来する。
「オオカミ」は一頭のメスとしか番わず、その一頭を生涯の伴侶とし添い遂げる、人間よりも一途な生き物だ。
「天津片生」の「オオカミ」系もそうなのかと彼はチャットAIで調べた。
個人差はあるがやはり「オオカミ」の習性があり、若いうちに相手を見つけ、初めて付き合った相手と二十代前半で結婚するパターンが多いらしい。
一途な男と言えば聞こえはいいが、これはもう茉莉花側から見たら自分に一方的に執着するおぞましい「化け物」でしかない。
実際、九郎は茉莉花を死なせてしまう可能性を孕む存在だ。
「鞘の処女」である茉莉花は天津人ではない男と初通をしたら死ぬ。
彼は半人半獣――完全な人間ではないので彼女の処女を奪うと「枯れて」しまう。
九郎にとって生涯一人きりの「運命の女」は一番近くにいて一番長く共に過ごしてきた女にも関わらず、番うことを許されない女だった。
九郎とぶつかった二組の女子は一組の友人と窓際の端で話をしていた。
「……「弟」さぁ、またデカくなってない?」
二組の女子は生徒たちが出入りしている教室のドアに視線を向け小声で友人の一組の女子に話題を振る。
九郎と咲也が血の繋がりがない義理の兄弟だと言うことは、入学時から校内に知れ渡っている。
咲也は高野原「兄」で、九郎は高野原「弟」と同級生たちから雑なあだ名で呼ばれていた。
「なってるなってる」
「もー吹っ飛ばされるかと思ったー」
彼女は不満げにそう言ったが満更でもない表情をしている。
その緩んだ顔を一組の女子は見逃さない。冷やかすようにニヤリと笑い肘で彼女の腕を突く。
「ラッキーじゃん」
揶揄うような物言いに二組の女子は緩んだ頬をこわばらせた。
「はぁ?」
「ふふっ」
「別にー。まぁ、あんただったらラッキーかもしないけど」
「はぁ?全然そんなことないし。何言ってんの」
彼女たちは互いの腹を探っている。
――なんかあいつ、急にかっこよくなってない?
そう言いたくてしょうがないが、先に言ったら「負け」だと思っている。
夏休み明けに登校した九郎は彼女たちから見てだいぶ「大人っぽく」なっていた。
顔の輪郭がスッキリして髪が伸び、身長もさらに伸びたように見えた。
よく見ると高い鼻筋を持つ整った顔立ちをしており、同年代の男子特有の女子に向ける汚い性欲を感じさせない。
ぼんやりした佇まいは昔から全く変わらないが、見た目が「大人」になった効果でそれが異性に対してガツガツしていない「余裕」に見える。
姉が二人いることもあり比較的異性慣れしていて、口数が少なく物静かだが、人見知りでも「コミュ障」でもない。
球技は苦手だがそれ以外のスポーツは得意で、特に走らせたら陸上部の県大会で入賞した三年生を凌駕するほどだ。
美少年の義理の兄・咲也の「引き立て役」だった、地味でさえない「二軍以下」の男子の九郎が夏休み明けに一気に「良い男」になっていた。
だが、同年代の女性が全員納得するタイプのアイドルや俳優のような「イケメン」ではない。
浅黒い肌に筋肉質な体躯――どちらかと言うと男臭くスポーツ選手にいるタイプの「イケメン」で、小綺麗でスマートなタイプが好きな女子が多い中でそんなことを言ったら「過剰評価」だと揶揄われる可能性がある。
しかも元々「二軍以下」の地味男子だ。そんな奴に気があるのかと馬鹿にされるかも知れない。恥をかきたくない。
曖昧な薄笑いを浮かべ黙り込んだ二人だが、二組の女子がまた探るように口を開く。
「それよりさぁ、保護者面談ん時にあいつらのお兄さん見た?」
「見てない。男子と女子、違う日だったし」
「えー!もったいない!去年「兄」と同じクラスだったから見たんだけど、ビジュえっっぐいよ」
「マジで?やっぱ「兄」に似てんの?」
「全然。身長「弟」より高くて海外モデルみたいだった」
「えっ?お兄さんめっちゃ年離れてるって聞いてたけど何歳?」
「わかんない。たぶんアラサー?」
「えー、見たかったー。帰らないで残ってればよかったー」
九郎と咲也が三年前に父親と死別し、年の離れた兄が保護者になっていることも生徒たちはほぼ皆知っている。
彼女たちの話題が文化祭に移った時、予鈴が鳴った。
「じゃ、またねー」
「うん」
一組の女子がすぐ側の窓際の席に座り、二組の女子は自分の教室へ戻って行き、彼女と入れ替わるように九郎が教室に戻って来た。右手に借りた漫画の単行本を持っている。
窓際の席に座った女子は頬杖をついて席に着く九郎の姿を見ている。
――マジで普通にかっこよくなってんな……夏休みに彼女出来たんか?
九郎を見る目が変わったのは彼女たちだけではない。
後ろの席で気怠そうにスマホを見ている娘や廊下側の席で座ったまま友人と雑談をしている娘、九郎のすぐ後ろの席の娘――窓際で腹の探り合いをしていた女子二人の会話に耳をそば立てていた。
あいつらもやっぱそう思ってんのか――と。
大人しい九郎を舐め切って雑に扱っていた校内の女子たちは、他の女子に悟られないように今までのことを棚に上げ、手のひらを返し始めている。
茉莉花が「良い男」だと思うなら、他の女子にとっても当然「良い男」である。
そのことに全く自覚がない九郎は、自分の席に座り何も知らずぼんやりとした顔で、教科担任が来るまで借りてきた漫画のページを捲っていた。




