1 ・「益荒男」たちは「鞘の処女」の知らぬ間に(3)
寝起きの悪い茉莉花は朝のアラームを五分刻みで六回セットしている。
六回目のアラームを止めた茉莉花はあくびをしながらゆっくりと身を起こした。
寝ぼけ眼のまま制服に着替え、薄緑のリボンが付いたテディベアのぬいぐるみとお守りを下げた通学用の黒いリュックを持って部屋を出る。
階段の脇にリュックを置き、玄関横のポストから朝刊を取り、風呂場の洗面台で顔を洗う――長いアイドリングを経てここでようやく目を覚ます。
化粧水で肌を潤わせてから日焼け止めを顔に塗り、アイブローペンシルで眉の形を整える。
ウサギのマスコットが縫い付けられたターバンを外し、ふわふわと落ち着かない前髪をヘアアイロンで伸ばしてから髪用のマスカラを付け形をキープさせる。
鏡に映る茉莉花の身なりは濃紺のジャンパースカートに肘下まで袖を捲った白い長袖のブラウス。
ポケットから取り出した臙脂色のリボンを襟の下に通し、慣れた手つきて蝶結びにした。
ブラシで軽く梳かした髪をシュシュで一つ結びにし、洗濯機に洗剤をセットしスイッチを入れ風呂場を後にする。
台所のドアを開けた茉莉花はダイニングに入り、テーブルの上に手に持っていた朝刊を置き、椅子の背もたれに掛けてあるエプロンを身に付けた。
流し台の出窓にあるポータブルテレビのスイッチを入れ弁当と朝食の支度に取り掛かる――現在午前六時十五分。
夜にタイマーをセットしていたので米は既に炊き上がっている。
しゃもじを手に取り炊飯器の蓋を開けるとほのかに甘い炊き立ての白米の匂いが広がった。
五つある弁当箱に白米をよそっていると、黒のポロシャツにグレーのスラックスの通勤着姿の真斗が台所へ入って来た。
「おはよう」
「ああ」
真斗は冷蔵庫を開け、挽いたコーヒー豆が入ったガラスのキャニスターを取り出した。
「――豆、なくなって来たな」
コーヒー豆は最寄り駅の向かいにある商業施設に入っている輸入食品を取り扱う店で購入している。
茉莉花は弁当に白米をよそいながら彼に返答する。
「帰りに買ってくる。いつものでいい?」
「ああ、頼んだ」
真斗はコーヒーメーカーに豆と水をセットしスイッチを入れると、ダイニングテーブルに置かれた朝刊を手に取る。
立ったまま一面と県内記事を流し読んだ後、顔を洗いに風呂場へ向かった。
茉莉花は白米をよそった弁当箱を出窓の空きスペースに置き、冷蔵庫からレタスを出しざく切りにする。
次いでキュウリを輪切りに、ハムを銀杏切りにしレタスを盛った皿に乗せる。
完成した朝食用のサラダをダイニングテーブルに置き、茉莉花は休む間もなく弁当のおかずの調理に取り掛かった。
メインのポークケチャップは時短のレンジ調理。
下ごしらえをした豚こま肉と冷凍していた玉ねぎとしめじ、ケチャップベースの調味料を耐熱ボウルに入れ、豚こまと混ぜ合わせてから二回に分けて加熱。
卵焼きは味が濃いポークケチャップを引き立てる出汁をベースにし小ネギを入れたもの――これは朝食の分もあるので多めに作る。
顔を洗い髪を整えた真斗が台所に戻り食器棚からマグカップを出していると、彗斗が離れからダイニングに入って来た。
「おはよー」
彗斗は茉莉花と真斗に一声かけ、調理台にある朝食分の卵焼きが乗った皿を手に取る。
「先に食べちゃうからこれ持ってくね」
「うん、ありがとう」
丈の短いTシャツの上にシャツを羽織りデニムのワイドパンツを履いている。
ベースメイクとアイブロー、マスカラで睫毛を上げた薄化粧。アイロンで真っ直ぐに整えた髪を一つ結びにしていた。
彗斗は朝に水で洗顔をしない。トーニングローションをたっぷり含ませたコットンで皮脂を拭き取るようにしている。その方が肌の調子が良いらしい。
「飲むか?」
真斗はコーヒーが入ったガラスポットを軽く掲げ彗斗に尋ねる。
「あー、今日はいいや。ご飯食べたい気分だし。マリ飲む?」
「うん、じゃあ牛乳入れてカフェオレにしてもらえる?」
「オッケー、カフェオレ一丁!」
彗斗は自分の茶碗に炊飯器に残っている白米をよそいながら妹のオーダーを真斗に伝える。
真斗は一瞬呆気に取られたように目を見開いたが、すぐにいつもの仏頂面に戻り食器棚から茉莉花が使っているマグカップを取り出した。
その様子を見た茉莉花はふふっと頬を緩め笑みを浮かべる。
副菜は作り置きの小松菜と人参のナムルとプチトマト。
調理台に弁当箱を並べ、白米の脇にレタスを敷きポークケチャップと卵焼き、副菜を盛り付けていく。
偏食の咲也はプチトマト抜き。真斗と彗斗にはフリーズドライの味噌汁を付ける。
弁当を用意し、包丁とまな板、フライパンと耐熱ボウルを洗い終えてから茉莉花は二人より少し遅れて朝食をとり始めた。
真斗が用意してくれたトーストにマーガリンを塗り、カフェオレを一口飲む。
真斗はいつも通りサラダと卵焼きをトーストに挟んだ即席のホットサンド。彗斗は鮭のふりかけをふった白飯。
台所から移動させ、テーブルに置いたポータブルテレビの画面に表示された時刻は午前七時。
先に食べ終えた真斗は傍に置いていた鞄を肩にかけ食器を流しへ持って行き、茉莉花が用意した弁当とフリーズドライの味噌汁を自分のランチバッグに入れた。
「――行ってくる」
「いってらっしゃーい」
「気をつけてね」
台所から出た真斗は洗面台で歯を磨いてからそのまま玄関に向かう。通勤ルートのバイパスは渋滞が酷いのでいつも早めに家を出ていた。
真斗の後に食事を終えた彗斗も席を立ち、洗濯物を干しに行った。
彼女に洗濯物を任せた茉莉花はサラダと卵焼きを食べ終えた後に食器を下げ、そのまま台所を出た。
ドアを開けると目の前に身支度を済ませた九郎がいた。
茉莉花のジャンパースカートより明るい色味の紺のスラックスと腕まくりをした白い長袖のワイシャツの制服姿。
「おはよう」
「おはよう」
茉莉花は昨日の夜に見た「いつもと違うヘアスタイル」の九郎を思い出し、にんまりと頬を緩め彼の顔を覗き込む。
「――結ばないの?」
「……学校だし」
九郎は口を尖らせそう言うと拗ねた犬のように顔を逸らした。
照れちゃって、可愛い奴め――茉莉花は思わず吹き出しそうになり口元を手で押さえる。
「また結んでみなよ。似合ってるんだから」
茉莉花は背伸びをして九郎に小声で囁くと、くすくすと笑いながら彼の横をすり抜け風呂場に入った。
歯を磨き、シュシュで束ねていた髪を解く。
ヘアオイルを髪に馴染ませてから二つに分けて三つ編みにする。今日は体育の授業がない日。ある日は一つ結びにしている。
一番最後に起床した咲也がほぼ目を閉じた状態で風呂場に入って来た。双子の姉以上に寝起きが悪い。
九郎と同じ制服だが着こなしは緩め、栗色の髪は寝癖で広がっている。
咲也は鏡の前に立つ茉莉花を退けるように割り込み、タオル掛けにぶら下がっているウサギのマスコットが付いた白いターバンを手に取る。
「ちょっと!それ私の!」
半分寝ている状態の咲也は茉莉花が制する声を無視し、ウサギのターバンを付け洗顔フォームを泡立てる。
髪を編んでいる途中なので取り上げる訳にもいかず、茉莉花は忌々しげに柳眉を吊り上げ咲也の背中を睨んだ。
「行ってくるねー」
彗斗が開いた戸から顔を出し二人に呼びかける、
茉莉花はゴムで編んだ髪を束ねながら振り返った。
「いってらっしゃい、気をつけてねー」
彗斗は勤務先の「秋津会仙台病院」まで車で通勤している。
北仙台にあるこの総合病院は茉莉花の「お目付け役」の官僚・蛇台原麗虎との面談場所で、二か月に一度のサイクルで身体検査も受けている。
身支度を終えた茉莉花が再び台所に入ると、ダイニングで九郎がマグカップに牛乳を注いでいた。
九郎と咲也は自宅から徒歩圏内の高校に通っているので最後に家を出る。
「後片付けよろしく」
流し台に置いていた自分のランチパックを持ち、台所から九郎に呼びかけると、彼は牛乳パックをテーブルに置き顔を上げた。
「うん」
「いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけて」
いつもと同じ穏やかな眼差しと静かな声に見送られ、茉莉花は台所のドアを閉めた。
階段の下に置いていたリュックにランチバッグを入れる。
脇にある姿見を覗いて前髪を整えてからリュックを背負い土間に降りローファーを履いた。
引き戸を開け外に出た茉莉花は強い日差しに目を細める。
夏の名残を感じるが、心地良い涼しい風が木々の枝葉を揺らしている。九月に入ってから一気に秋めいて来た。
庭に飛んでいるのは蝶ではなくトンボ――まだ体が赤くなっていないアキアカネ。山から降りて来た秋の使者だ。
茉莉花が玄関先からアプローチへ歩き出すと、飛んでいた四匹のうち一匹が旋回し彼女の元へ飛んで行く。
風に乗ったアキアカネは茉莉花を追い越し、彼女を先導するようにアプローチの先へ向かう。
門柱を抜けアスファルト舗装の道に出た茉莉花を見送るように辺りを旋回した後、アキアカネは木立に囲まれた家の敷地に戻って行った。
木漏れ日がさす坂道を下り茉莉花は住宅地の路地に入る。
角の家にあるヤマボウシの木から落ちた赤い実がアスファルトに転がっていた。ここにもまた一つ秋の気配。
住宅地を抜け朝のラッシュで渋滞している県道とバイパスの交差点を横断し、歩道のない坂を登った先にあるのは旧奥州街道。
バス同士がギリギリの距離ですれ違う片側一車線のこの道は歩道も狭く、歩いているすぐ横を走行する車が掠める。
車と人と自転車がひしめくラッシュ時の旧街道を直進し、コンビニがある角で右に曲がる。
区役所方面にのびる比較的新しい道を直進し、交通量の多い県道の交差点を抜け、左手にある商業施設と病院の向こう側に見えるのが地下鉄泉中央駅。
自宅から駅までのこのルートを茉莉花は毎朝二十分かけて歩いている。
駅ビルの脇にある階段を降りた先にあるのは一階にあるバスプールに面した出入り口。
その横にある郵便ポストの前に、茉莉花と同じ制服を着た少女が立っている。
茉莉花はローファーを履いているが、彼女の足元はスニーカー。
背負っている黒いリュックには耳が青いネコのようなキャラクターのぬいぐるみが付いている。
ショートカットで背が高く、整った中性的な顔立ち――茉莉花の従姉妹で親友の牛越華だ。
「おはよう、おまたせー」
「まだ付けてくれてんだ、これ」
華は茉莉花のリュックにテディベアのぬいぐるみと一緒に下げているお守りに触れる。
水色のグラデーションが入ったレース生地の涼しげなデザイン。銀の糸で「夏守」と刺繍が施されている。
「いい加減付け替え時だよねぇ、来週秋限定の入るから待ってて」
「うん、楽しみ!で、夏の売り上げどうよ?お盆で完売したんでしょ?」
「おかげさまで。去年より多く作って大正解」
「だよねぇ。これ可愛いし、悠おんちゃんSNS使うの上手いもん。インフルエンサー」
「あんま言わないで。すぐ調子に乗るから」
これは華の実家の神社で販売されている「夏季限定」のお守りだ。
牛越家はこの地域の氏神にあたる「七北田神社」の宮司の家系。
華の父・悠真は茉莉花の父・和真の弟――伯父にあたる。
悠真は幼馴染の牛越家の一人娘・梨紗と東京の大学に進学した際に再会し交際を開始。後に結婚し牛越家の「婿養子」になった。
華にも「高野原」の血が流れている。
艶やかな黒髪と三白眼気味の凛々しい目元が真斗と彗斗に似ており、茉莉花と咲也よりも「高野原」の血を感じさせる風貌だ。
華の家は駅から徒歩で十五分の距離にあり、毎朝このポストの前で待ち合わせをして一緒に登校している。
二人は駅舎に入り改札を抜け、地下ホームに降り停車している先発の車両に乗り込んだ。始発駅だが朝のラッシュ時なので席は既に埋まっていた。
乗車すると、すぐに発車のアナウンスが響きドアが閉まった。
ホームから滑り出すように走り出した車両はなだらかな傾斜を登り地下から屋外へ出る。
サッカースタジアムと七北田公園の間を走り七北田川を渡った先にあるのは高架駅の八乙女駅。
ガラス張りのホームから見えるのは近隣に建つマンションと北部に広がるなだらかな丘陵地――あの森の一角に茉莉花が住む高野原の家がある。
八乙女駅を発車すると車窓を流れる景色の緑が色濃くなる。
狭い谷戸にひしめくように建つマンションと住宅を望み、列車は青々とした茂樹に覆われた斜面の間を走る。
背後に薄暗い森を控えた真美沢池の脇を通過した先にあるのは黒松駅だ。
この駅は堀割りの底にある特殊な構造をしていおり、ホームから空が見える。
「半地下」のようなホームの先にトンネルの入り口があり、この先から終点の富沢駅の手前まで地下区間となる。
ラッシュの人混みに揉まれること約十五分、泉中央から九つ目――地下鉄仙台駅の一つ手前にある広瀬通駅に到着。
ホームに降りた二人の元に前隣のドアから下車した同じ制服を着たポニーテールの少女が歩み寄る。
シンプルな黒髪のポニーテールだが、毛先が綺麗にまとまり、襟足の手入れも行き届いているので垢抜けた印象を与える。
茉莉花よりも小柄だが顔が小さく、手足がすらりと長いのでスタイルが良い。
ぱっちりとしたアーモンドアイが印象的で利発な「妖精」を思わせるチャーミングな少女だ。
「おはよう。今日は部活あるね」
ポニーテールの少女はよく通る明瞭な声でそう言い茉莉花に笑みを向けた。
彼女の名前は白萩寧々。茉莉花と華と同じ「宮城女学院」に通う同級生。
寧々は二人のように中学から進級した「内進生」はなく高校から入学した「外進生」だ。




