1・「益荒男」たちは「鞘の処女」の知らぬ間に(2)
東京都港区――再開発地区に建つオフィスタワーの上階にある社員用の休憩室。
一角には給茶機とコーヒーマシンが設置され、社員が自由に利用できるようになっている。
時刻は午後七時半。社員の姿はまばらで、残業中の短い休息、退勤前の閑談――それぞれが思い思いに寛いでいた。
フロアには重厚な革張りのソファとローテーブルが置かれ窓際はカウンター席になっている。
眼下には都心の街並みが広がり、遠方には湾岸の高層ビル群が見え、企業の休憩室でありながらホテルのラウンジを思わせる空間だ。
奥にあるテーブル席に座る三人の女子社員が、窓際のカウンター席を遠巻きに窺いながら声を潜めて囁く。
「――「若様」今日出社だったんだ」
女子社員たちの視線の先にいるのは二人の男性社員。
一人は黒髪、もう一人はブラウンヘア。
「――お前が彼女のお姉さんの「元カレ」だったことに感謝してるよ」
ホットコーヒーが入った紙製のカップをカウンターに置き、ブラウンヘアの男は穏やかな笑みを浮かべた。
黒髪の男はわずかに眉を寄せ頬杖をつき嘆息する。
「ったく、人づかい荒いよなぁ。奇跡的に会ってくれたから良かったけど、最初はめちゃくちゃ警戒されて気まずかったぞ」
「これを機に寄りを戻せるかもな」
「ないない。あっちはもう完全に俺を男として見てないし」
「お前は?」
「あー、まぁ、相変わらず「良い女」だけど――いや、ないわ」
二人の出で立ちはノーネクタイのオフィスカジュアル――何処にでもいる「夏のビジネスマン」と言った風貌だが、その佇まいはフロアにいる他の社員とは違う「隠しきれない育ちの良さ」を醸し出している。
身体に合った仕立ての服と丁寧に磨かれた革靴。ベルトも腕時計も目に見えて高価なものではないが良質なものだと一目でわかる。
寛いでいるが緩んではいない姿勢、整えられた指の先。何気ない仕草も洗練されており隙がない。
彼らの関係は親しい同僚のようにも、付き合いの長い友人同士にも見える。年齢は二十代半ば過ぎくらい。
「白い「伊達の月」?」
ブラウンヘアの男がそう呟くと、黒髪の男が軽く頷いて答える。
「そう、妹ちゃんがテレビでそれ見て「元祖は仙台なのに東京限定とかズルい」ってぼやいてたってお姉ちゃんが言ってた」
黒髪の男は白い歯を見せニヤリと笑った。
アップバングのツーブロック。ハッキリとした目鼻立ちで愛嬌のある笑顔を持っている。
気さくで人当たりの良さそうな青年だが目には常に鋭い光を宿している。何事にも抜け目のない、かなりの「やり手」だとうかがえる。
ブラウンヘアの男はポケットからスマホを取り出し、ブラウザのアイコンをタップする。
「東京駅で売ってるやつ?……あれ、向こうで売ってないんだ?」
「そう。だから次の土産はあれで決定な」
「伊達の月」はカステラ生地で風味豊かなカスタードクリームを包んだ仙台土産定番の銘菓である。
黒髪の男の「元カノ」の妹がテレビで見たのは、その製造元が東京駅限定で販売しているもの。
白いカステラ生地で白いカスタードクリームを包んだ同じ形の別バージョンだ。
ブラウンヘアの男がスマホで検索していたのはこの商品が販売されている店舗のウェブサイト。
「レモンと抹茶のクッキーも売ってるんだ。これも一緒に買いに行くから、次の出張決まったら連絡して」
「わざわざお前が買いに行かなくても、新幹線乗る前に俺が買ってもいいんだぜ?」
「――俺からの彼女とご家族へのプレゼントなんだから、そこは自分で手配しないと」
「毎回毎回律儀でまどろっこしい「足長おじさん」だなぁ……」
黒髪の男にそう言われブラウンヘアの男は口元に淡い笑みを浮かべ肩をすくめる。
黒髪の男は彼を「足長おじさん」と例えたが、その風貌は「王子様」となぞらえた方がいい。
凛々しい眉の下に覗く深みのある瞳。すっと伸びた鼻梁。静かな笑みを湛えた品のある口元。
柔らかな光を含み緩やかに波打つ栗色の髪。きめの細かい白い肌。
人目を惹きつけずにはいられない華やかな風貌だが浮ついたところはない。
その佇まいは周囲の空気まで静謐に変える穏やかな余裕と風格があった。
艶やかで凛とした静かな色気を持つ、深紅の椿を身に宿したような青年だ。
「そう言えば、あいつ仙台に戻るの今日だっけ?」
「ああ、明日から仕事だから昼の新幹線で帰ったよ」
二人の話題は「王子様」の「弟」に関するものに移った。
「一応あの「お兄さん」に付くために向こうに行ったのに「同族の方の弟」と仲良くなってるみたいだな」
「別に構わないよ。俺たちに気を遣って大学に行かないで仙台の採用試験受けたんだ。正直、申し訳ないと思っているよ」
「そうかぁ?多分あいつそこまで考えてないって。新境地でエンジョイしてるって感じだぞ」
「その弟くんが通う高校の学祭に「偵察」に行くって言ってた」
「あいつが?「偵察」?」
黒髪の男は呆気にとられた様子で目を見開いた後、乾いた笑いを浮かべた。
「そう「双子の方」の弟くんも同じ学校で、もしかしたら「彼女」も来るかも知れないって――」
「会わない方がいいんじゃないの?あいつ「ポンコツ」なとこあるし、ボロ出しそうだ」
「でも運がいいから、案外――」
「こんな回りくどいことしないで、お前が直接動けば早いと思うぜ」
黒髪の男は軽い口調でそう言った後、すっと表情を引き締め小声で「王子様」に囁く。
「――俺らは「五家」の人間じゃないが、お前には「五家」の血が入っているし「高野原家」にも近い」
「そうだね。でも俺は近くて「遠い」人間だから」
黒髪の男にそう言うと「王子様」はコーヒーを口にし、窓の外に広がる無数の灯が連なる街並みを見下ろす。
彼は三年前、都内のホテルで「舞踏会」から抜け出して来た「お姫様」と出会った。
「舞踏会」の招待状は彼にも届いていたが、事情があり出席せずロビーで「別のお姫様」が戻るのを待っていた。
ロビーに現れた水色のドレス姿の「お姫様」は酷く憔悴した様子だった。
彼は彼女に声をかけ、ベンチに座らせ水を手渡し介抱をした。
痛々しく萎れていた可憐な花は、少しずつその瞳に光を取り戻してゆく。
夢見がちな乙女とも、背伸びをしている少女とも違う不思議な女の子だった。
話をしているうちに、彼は彼女が「懇親会」に招待された天津人で「鞘の処女」だろうと察した。
彼女は心配をして探しに来た父親の姿を見つけると、彼にあらためて礼を言い、鮮やかな笑顔だけを残し去って行った。
互いに名前を告げぬまま別れたが、彼の方はすぐに彼女の名前を知った。
高野原茉莉花――「天津五家」のひとつである高野原家の「二の姫」
眩しい光を纏った「お姫様」だった。
眼下に広がる煌々とした都心の街灯り。その眩しい光の海の中、何処にいてもすぐに探し出せる特別な輝きを持つ「お姫様」――だが、彼女は東京にはいない。
眩い「処女」が暮らしているのは東京から約三五〇キロ離れた「住所に字がつく」森の中。
眠るにはまだ早い時間、彼女は閑静な森の中にある家で今何をしているのだろう――「王子様」は物憂げに睫毛を伏せ「お姫様」に思いを馳せる。
◆
帰宅後、Tシャツとスウェットに着替えた真斗は、居間でひとり遅い夕食をとりながらニュース番組を見ている。
画面の左上に表示されている時刻は午後八時五十分。
今日の献立は回鍋肉と根菜の煮物。箸休めにキュウリの浅漬け。汁物はワカメの味噌汁。
居間にいるのは彼だけではない。
座敷の端で妹の茉莉花が歌膝で座り雑誌を開いている。
彼女が読んでいるのは学校の帰りに書店で購入した歌劇団が発行している月刊誌。
紺色に白のドット柄が施された半袖のパジャマを着て、ドライヤーで乾かした長い髪をシュシュで緩くサイドにまとめていた。
真斗は箸を止め茉莉花に呼びかける。
「俺が食い終わるの待ってないで、部屋に戻っていいんだぞ」
茉莉花は不服そうに琥珀色の目を尖らせる。
「別に待ってるわけじゃないし、私もニュース聞いてるし――何?居て悪いの?」
「――いや、別に悪くはない」
真斗が目を逸らすと、茉莉花はふんと小さく鼻を鳴らし開いていた雑誌に視線を落とした。
「居間でひとりでご飯食べる絵面って、なんか寂しいじゃん」
以前、茉莉花はそう言っていた。
彼女は「ひとりで寂しくないように」と真斗だけでなく他のきょうだいが一人で夕飯を食べいてる時も、こうして本を読んだりテレビを見たりしながら同じ空間にいるようにしていた。
真斗は正直、一人になりたかった――茉莉花と二人きりになりたくなかった。
黙々と回鍋肉を頬張り白飯をかき込む真斗の傍らで、茉莉花はにやけ顔をして身を揺らしたり、興奮した様子で脚をばたつかせたりしている。
「――かーッ!同期の絆は尊いッ……!!」
茉莉花は突然のけ反って叫び、そのまま畳の上に倒れ込んだ。
「オタク女子」特有の供給過多による挙動不審なリアクション――そんな妹の姿を横目で見ながら、真斗は味噌汁をすする。
――こんな奴でも可愛いもんなのか……。
彼は自身に潜んでいる「血」に問う。
「血」は満足しているのか何も答えないが、反応がないに越したことはない。
茉莉花は昔、芸能事務所が自宅に直接スカウトに来たほどの美少女だが、真斗は彼女に対し「妹」以上の感情は持っていない。
だがこの「妹」は彼にとって厄介な存在だ。
茉莉花は「剣の益荒男」と番い「剣」を産み与え、彼を「剣比古神」にする「鞘の処女」である。
高野原家は天津人の中でも特に強い能力を持つ血族――「天津五家」であるにも関わらず「剣比古神」になった者がいない。
一千年以上にわたり「鞘の処女」から拒絶されて来たこの家に、奇しき巡り合わせで「娘」として生を受けた「鞘の処女」――それが真斗の腹違いの妹の茉莉花だ。
父の和真も、自分に流れる「血」も「娘」として手に入れた「鞘の処女」を他の家の男に渡すつもりはなかった。
現行の法律では戸籍上異母兄妹の「結婚」は出来ないが、双方が成人で同意があれば性行為をしても罰せられることはない。
和真は「女性の意思と尊厳を守る」体をとって時間を稼ぎ、茉莉花が十八歳になったら他の「候補者」たちを出し抜いて「高野原家の子息」――息子の真斗と母親が違う娘の茉莉花を番わせようとしていた。
だが真斗はそれを望んではいない。
腹違いとは言え茉莉花は血の繋がった「妹」だ。十歳も年が離れている。
まだ子供にしか見えない「妹」と番い、彼女を孕ませることに対し彼は激しい抵抗感と嫌悪感を抱いていた。
それに加え現在は結婚を前提に交際している最愛の恋人――瞳子もいる。
和真は三年前に急逝した。そこで彼の「陰謀」は絶たれたと真斗は思っていたが、彼に流れる「高野原の血」は「処女」をものにすることを諦めてはいない。
真斗が茉莉花と番うことを拒絶しても、彼の「血」は激しく「処女」を求めている。
妹を犯しものにしようとする「血」を真斗は抑え続けて来た。
このまま茉莉花を無事に他の家の「剣の益荒男」の元へ送り出せば自分も楽になれる――そう思っていたが、事態はより悪い方へ傾いて行った。
茉莉花と咲也――この双子の姉弟は真斗にとって、彼の父親・高野原和真と不倫相手の藤倉茉莉也の間に生まれた「腹違い」の妹と弟だ。
真斗は幼い頃に当時高校生だった茉莉也と会っていた――茉莉也は彼の「初恋の相手」と言ってもいい。
「血」が「鞘の処女」に焦がれ続けて来たように、真斗も「茉莉也にもう一度会いたい」と言う想いを胸に秘めていた。
だが茉莉也は既に他界しているので、彼はもう二度と彼女に会うことは出来ない。
現在高校二年生の茉莉花は、真斗の記憶の中にある茉莉也の姿と瓜二つになっている。
茉莉也と茉莉花は姿形は似ているが、性格も佇まいも全く違っていた。
茉莉也はどこか儚げで守ってあげたくなる「お姫様」のような少女だったが、茉莉花は――
「やっぱり劇場に近いとこ住んでるお相手じゃないとな……彩鳳さんトップになったらチケット取れるだけ取って通う予定だし……」
畳に寝そべり頬杖を付き、皮算用を巡らせにんまりと人の悪い笑みを浮かべている。
「候補者」の条件に「歌劇団の劇場に近い」ことを加え、務めを終えた後は「推し活」に専念するつもりでいる「図太い」神経を持つ女だ。
茉莉也とは違い儚さの欠片もない茉莉花だが、時折その面影が茉莉也と重なることがある。
その姿が真斗の心を揺さぶり、抑えていた箍が外れ、自我を持った「血」が彼の身体を乗っ取り茉莉花の体に手をかけようとする。
先日、真斗は「血」に呑まれ取り返しのつかない過ちを犯した。
真斗の体を乗っ取った「血」は眠っている茉莉花の髪を撫で、頬に触れ、まだ男を知らない小さな唇に口づけた。
「剣の益荒男」のものになるはずだった「鞘の処女」の唇は、兄の姿をした「血の魔物」に奪われた。
心の襞深くにこの「事実」を隠し、真斗は仏頂面の「兄」の姿を保ちながら「鞘の処女」と一つ屋根の下で暮らしている。
何も知らない彼女は自分を汚した兄の傍らで、パジャマ姿で無防備に寝そべり雑誌のページを捲っていた。
◆
自室の机の前で九郎は細いヘアゴムを口に咥え指先で髪を梳いている。
卓上ある少し大きめの折りたたみ型の鏡と咥えているヘアゴムは、学校帰りに駅前の商業施設にある百円ショップで購入したものだ。
耳の上から後ろ髪を掬い上げ、前髪と襟足は自然に残しひとつにまとめる――ゴムが髪に絡んでなかなか上手い具合に行かない。
不器用な九郎は先程からこの動作を五回繰り返していた。
五セット目でようやくそれらしい形になって来た「ハーフアップ」
盆明けから数日経ったあの日の夜、茉莉花は九郎の髪を梳き、同じようにまとめてから彼にこう言って微笑んだ。
「似合うよ。いい感じ」
九郎は鏡を手に取りまじまじと髪を上げた自分の姿を見る。
「いい感じ」な気もするし、そうでもない気もする。
この鏡では顔だけしか写せないので全体的な印象はわからない。
九郎は軽く息を吐き鏡を伏せた。傍らにあるスマホをタップして時刻を確認する――現在午後九時四十分。
十分ほど前にドア越しに咲也から風呂が空いたと伝えられていた。
最後に入浴する真斗はもう夕飯を食べ終えているはず。
彼を待たせるのは悪いと思い、九郎は椅子から腰を上げ風呂場へ向かうことにした。
クローゼットを開きプラスチック製のキャビネットから着替えを取り出す。
風呂場にある洗面台の大きな鏡で仕上がりを確認したいので、結った髪はそのままにし部屋を出た。
階段と廊下の灯りを消したまま、足早に風呂場まで行けば誰にも気付かれずに済むだろう。
ドアを閉め一歩進むと、前方に「ふんわり」とした気配を感じた。
顔を上げると茉莉花がいた。
長い髪をサイドで結び、紺色のパジャマ姿で雑誌とスマホを手に持っている。
階段のすぐ前にある自室のドアの前に立ち、いつもと少し違う風貌の九郎を見て彼女は目を丸くしていた。
真斗が食事を済ませた後、明日の朝食と弁当の下準備をして丁度今、台所から部屋に戻って来たのだろう。
――マズい……見られた……!
彼女と同じくらい目を見開き、九郎は額に脂汗を滲ませ立ちすくむ。
茉莉花は丸くなった目を瞬かせた後、少し意地悪に口角を吊り上げる。
「ははっ、色気付いちゃって」
狼狽する様を楽しむように喉の奥で笑う茉莉花の視線を受け、九郎の頬が火を吹く勢いで熱くなる。
九郎は眉を顰め毟るようにまとめていた髪を解き、ヘアゴムをジャージのポケットに入れた。
「えー?!何で解いちゃうの?せっかく似合ってんのに」
茉莉花は打って変わって不服そうに頬を膨らませる。
――だったら「似合う」ってだけ言えよ……!
似合うと言われたことよりも揶揄われた恥ずかしさが勝り、九郎は無言のまま茉莉花の横をすり抜け階段を駆け降り風呂場へ向かった。
昔からそうやって揚げ足をとって揶揄うところは嫌だった。
まるで弄ぶように揶揄ってから褒め、褒めてからまた揶揄う――いくら「惚れた女」でもそう言うところは嫌いだ。
風呂場の戸を閉め、洗面台に手をついて九郎は深いため息を吐く。
「せっかく似合ってんのに」
九郎はポケットから取り出したヘアゴムを見つめながら茉莉花の言葉を思い出す。
顔を上げ鏡に映る「さえない顔」をした自分を鼓舞するように睨み、もう一度髪を後ろに撫で付け後頭部でまとめる。
ゴムに髪が絡まず今までで一番上手く結い上げることが出来た、首にかかる襟足を残したハーフアップ。
普段は半分隠れている耳が露わになり、直線的な顔の輪郭が際立つ。全体的にスッキリした印象で、普段より快活に見える。
「――いい感じ、か」
九郎は首を傾げたが、茉莉花がそう言うならそうなんだろう。
茉莉花が良いと言うならそれでいい――九郎は鏡に映る自分に頷き、軽く胸を逸らした。
だが、この髪で堂々と茉莉花の前に立つ自信はまだない。




