11・「王子様」が迎えに来るまで(3)
入浴を済ませて部屋に戻った茉莉花は日記をしたためた後、ずっとベッドに横たわりスマホを見ていた。
画面に映るのは「恋人たちのキスシーン」
王子様とお姫様。御曹司と庶民の娘。ヤンキー男子と真面目女子――身分や国が違えど、恋人たちは皆同じように愛し合い睦み合う。
茉莉花はその甘美な光景と自分の記憶を重ね、消化不良のまま終わった「ロマンス」を振り返る。
今夜、何となく思い立って花火を見に外へ出たら、それが「この夏最大の思い出」になった。
一人で外へ出た自分を追ってきたのは九郎で、思いがけず「二人きり」で花火を見ることになった。
途中で真斗が入って来たが、それまでは高校生カップルの大定番「花火デート」を思わせる状況だった。
年頃の男女が二人きり、誰もいない夜。互いの距離が一気に縮まった――が、それはあくまで「物理的な距離」が縮んだだけ。
「怪我の功名が生んだ偶然……」
茉莉花は再び熱を帯び痒くなった首の虫刺されを指の腹で擦った。
キスをする流れではと思うくらい九郎の顔が自分に近付き茉莉花の鼓動が高鳴ったが、それは彼女の「首に出来た虫刺されの確認」と言う色気の欠片もないものだった。
暗くてよく見えないので「真面目」な九郎は「馬鹿正直」に彼女の首に顔を寄せただけ。
茉莉花にとっては「思いがけないロマンス」だったが、九郎にとっては「確認作業」でしかない。
そもそも九郎は茉莉花を「血の繋がりのない同じ年の姉」だとしか思っていない。
一方的に「血の繋がりのない同じ年の弟」を「男」として見ていることを悟られないように、茉莉花は額に脂汗が滲むほど必死に平静を装っていた。
側から見たら「熱愛真っ只中のカップル」かも知れないが、その実情は「ロマンス」もクソもない。
女の方が一人で盛り上がって興奮している、惨めで滑稽な有様。
その場で顔を伏せたいほどの醜態だったが、茉莉花は間近で見た九郎の顔や、肌から立ち上る淡い体温を忘れられずにいた。
昨日の朝、台所でぶつかりそうになった時よりも近い距離。しかも顔を突き合わせた姿勢。
彼は「成犬」になっていた。噛みつかれたらひとたまりもないくらいの「男」になっていた。
しっかりとした顎。高い鼻筋。真っ直ぐな眉。棘のような短い睫毛。大き過ぎない二重の目。真一文字に結ばれた口元。
ノミで削ったような険しい輪郭に直線的なパーツ。
中学生の頃まで身長が同じくらいで子犬のように優しい顔立ちだったのに、こんなにも変わってしまうものなのか。
それでも自分を見つめる黒い瞳は、ずっと優しいままだった。
盆明けの面談で麗虎から「好みのタイプ」を聞かれた時に、誰も、どんな顔も浮かばなかったが今ならハッキリと言える。
――九郎がいい。
ヤバい、本格的に全部好きになってしまう――茉莉花は昔から九郎が持つ「優しい闇」のような佇まいも好きだった。
九郎は穏やかで澄んだ夜が似合う――似合うと言うよりも「穏やかな夜」そのもの。
忙しく落ち着きがない自分とは対照的。それなのに――いや、それだから彼の隣は居心地が良かった。
夏の夜は吐息のような熱を帯び、艶かしく更けていく。眼下に広がる街明かりは小さな炎のように揺らめいて見えた。
そんな「夏の夜」と同じように、今夜の九郎は妙に「色っぽく」見えた。
普段と同じ「ぼんやり」とした物腰は、何処か意味深な余白を感じさせ胸が騒いだ。
茉莉花はぼんやりとした表情で胸の上に伏せていたスマホを掲げ、ロックを解除し再びSNSの画像を眺める。
普段は歌劇団のスターや料理のレシピ動画が流れてくるリールは、海外ドラマやショート動画の「キスシーン」で埋まっていた。
自分の赤裸々な願望で埋め尽くされた画面を見た茉莉花は急に恥ずかしくなりスマホを放り投げ、熱くなった頬を押さえた。
枕元に置いてあったクッションを抱え目を伏せたとき、ふと昔読んだ小説のワンシーンを思い出した。
海外のティーン向けのラブロマンスだったか、ボーイフレンドの狼男がヒロインの首筋を噛んだ。
ラブシーンの流れだったが狼男は首筋に「キス」をする代わりに「噛んだ」――これは狼男の習性だと書かれていた。
西洋の「狼男」と日本の「天津片生のオオカミ」は似ている別物だと思うが、同じ「オオカミ」――九郎もそうなのだろうか。
虫刺されの確認をした時の彼の首の角度は、キスをすると言うよりも「首筋を噛む」角度に近かった。
それに気付いた茉莉花はさらに頭に血が上り、枕に顔を埋めてもんどり打つ。
半人半獣の九郎は女に対しやはり「狼男」寄りの「愛情表現」をするのか。
やっぱり「噛む」のか、姿もあの小説のように「オオカミ」になるのか。そうなったらキスの仕方とか人と勝手が違うのでは――考えているうちに目が回ってきた。
――「オオカミ」と「人間」って……あ……「アレ」の仕方とか、色々差があるよね……?
気になり出したら止まらない。血管がショートして千切れそうなくらい茉莉花の想像は暴走し、脳内に「検索ワード」が打ち出される。
【オオカミ 交尾】
自分の思考の卑猥さに茉莉花は「ひいっ」と小さな悲鳴を上げ、目を剥いた。
「おっ……女がそんなはしたないこと調べようとするなーー!!」
堅物の「昭和の男」が乗り移ったかのように茉莉花は眦を上げ、抱えていたクッションを放り投げた。
クッションは壁の飾り棚に当たり、置いていたフォトスタンドやぬいぐるみが全てベッドの上に雪崩れ落ちる。
その惨状を目にし茉莉花は我に帰った。
慌てて身を起こし、歌劇団の「贔屓のスター」の写真を入れたフォトスタンドを定位置に戻し、散らばったぬいぐるみを拾い集める。
海外アニメのキャラクターとその作中に出て来たテディベア、旅行先で買った「ホヤのゆるキャラ」、好きな絵本に登場する白いウサギと茶色のウサギ――ぬいぐるみを飾り棚に置いていた時、ふと茉莉花の手が止まった。
彼女の視線の先にあるのはベッドの端に転がった水色のリボンの首輪を付けたキャバリアの子犬のぬいぐるみ。
茉莉花が七歳の頃に真斗から貰ったものだ。
「茉莉花にそっくりだ」
まだ「年の離れた優しいお兄ちゃん」だった真斗がそう言って笑ったことを今でも覚えている。
真斗の首筋にキスマークが付いていたあの日、床に投げつけた後に捨ててしまおうと思ったが、出来なかった。
ブラコンを拗らせて真斗に対し「王子様」の幻覚を見ていたのは「黒歴史」だが、それでも「優しかったお兄ちゃん」と過ごしてきた日々は捨てることはできない大切な思い出だった。
そんな「思い出の品」であるキャバリアのぬいぐるみだが、今となっては「のぼせ上がった」自分に対し睨みを効かせる真斗の分身のように見える。
茉莉花はキャバリアのぬいぐるみを拾い上げ、両手で抱え顔の前に翳し、畏まった口調で言い聞かせる。
「ご心配なく。勝手に好きになってるだけですから。どうにかなろうなんて――正直、まぁ、思ってるけど、実行はしませんので」
ぬいぐるみを介して真斗が自分を咎めているような気がした。
『良いわけないだろ。何馬鹿なこと考えてるんだ』
愛らしいキャバリアの顔に彼の険しい顰め面が重なり、言いそうな台詞が脳内で再生される。
まるで「呪いのぬいぐるみ」だな――茉莉花はげんなりと肩を落とし溜め息を吐いた。
「……ちゃんと「お務め」は果たすつもりだし、自分の中で思うだけなんだから、そこは目をつぶってよね」
茉莉花はキャバリアのぬいぐるみを飾り棚に戻すと、くるりと「後ろ向き」にさせ指先で頭を軽くつついた。
「駄目だ、今日はもう寝よう……寝た方がいい……」
茉莉花は髪を掻きながらベッドから降り、ドアの横にある照明のスイッチを切った。
◆
午前零時近く、夜の色濃い庭に男が一人立っていた。
男が母屋から出て来てから虫の声は身を潜めるように小さくなり、木々の枝葉を揺らす風は息が止まったように途絶えた。
大柄な体躯、夜の闇の中で光る艶めかしさすら感じる鋭い目。
その姿はさながら「夜の支配者」
離れとガレージの先にある叢林の奥から、こちらに向かって来る気配を感じ男は振り返る。
木叢の中から庭に一匹のオオカミが飛び込んで来た。
男の前に歩み寄った黒い猛獣は、まるで従者のように前足を揃え腰を落とす。
するとその姿は一瞬で人の形になった。
男は腕を組んだまま、先程までオオカミだった少年を軽く見据える。
「遅いぞ」
「ごめん、やっぱり走りたくて……行って来た」
「ヨモツが気になって、か」
「……うん」
「今日は出なかったか?」
「うん、あえて団地の中を通って来たけど、いなかった」
「アプリで確認したが、今日郊外で19時以降に出没報告があったのは利府と太白区で各一件――」
「八月に入ってから増えてる感じだね」
互いにしか聞こえない静かな声で話をしている最中、母屋の二階から叫び声がし、二人は身構えて顔を上げた。
「女が――――――ないこと―――――するなーー!!」
何を言っているのかわからないが、声の主は茉莉花だ。
たまに耳にする「デカい独り言」である。
「何言ってんだ……」
「また暴れてる……」
二人は呆れた様子でカーテン越しに灯りが見える、二階の左端の茉莉花の部屋の窓を見上げた。
彼は茉莉花の部屋の窓を見上げる《彼》の横顔に目を向ける。
いつもと変わらない表情だが、その瞳は闇の中で優しく輝いて見えた。
《彼》は少し前――三人で花火を見ていた時にその瞳を茉莉花に向けていた。
二人が向き合う姿が、目配せをして微笑む姿が彼の目に眩しく写った。
自分が入る余地がないほど「健全で正しいきょうだい」の姿に見えた。
その「健全で正しいきょうだい」の姿は、茉莉花が《彼》に向けた視線で一変した。
《彼》は茉莉花に対して「きょうだい」以上の感情を抱いてはいないようだが、彼は《彼》を見つめる彼女の瞳に蕩けるような甘い光を見た。
それを目にした彼の心に不穏な闇が漂い、奥底にある黒い「もう一つの意思」が蠢いた。
何故《彼》なのか。事もあろうに自分が信頼を置く《彼》を選ぶのか。
茉莉花の色を含んだ光は一瞬で消えたが、気のせいだとは思えなかった。
嫉妬、憎しみ、悲しみ――そんな感情の範疇ではない「化け物」のような闇が彼を蝕む。
同じ「禁忌の相手」にも関わらず、何故、自分ではなく《彼》なのか。
何故、俺を選ばない――彼は歯軋りをして茉莉花の部屋の窓を睨む。
夢の中でそうしたように、無理矢理にでも彼女の体に自分を覚えさせ、二度と離れないようにしてしまおうか。
ともに茉莉花を守るきょうだいが、彼女にとって「一番危険な存在」であることに《彼》は気付いていない。
「最大の敵」が隣にいるとも知らずに、茉莉花の部屋を見つめていた穏やかな瞳を、彼に向ける。
彼は「正体」を悟られないように少しだけ表情を緩めた。
そうしているうちに茉莉花の部屋の灯りが消えた。
「もうこんな時間か……」
「風呂の保温切ってあるから、入る前に焚き直しとけよ」
「うん」
どんな夢を見るのか、誰の夢を見るのか。
誰の夢の中に忍び込むのか――
彼は茉莉花に気付かれないように静かに引き戸を開け《彼》と母屋の中へ戻った。
◆
部屋の灯りを消して、ベッドに横たわってから数分。
体が火照り、頭の中が騒がしく、眠りに落ちるどころか目が冴えていくばかりだった。
茉莉花はのぼせが引かない体と頭を冷まそうと身を起こし、ベッドの横にある窓を開けた。
虫の声が響く中、庭を囲う木立は息を潜めるように色濃い影を纏い、見上げた空は高く澄み切っていた。
誰もいないはずの庭に九郎の気配を感じた。
窓から身を乗り出し、辺りを見回しても彼の姿は見当たらない。
吐息のような風に頬を撫でられ、その心地よさに茉莉花は目を細める。
――ああ、そうだ。夜の空気はあいつに似ている。
「穏やかな夜」にキスをするように、茉莉花は窓から身を乗り出したまま瞳を閉じた。
右手を伸ばし自分の元へ引き寄せようとしても「穏やかな夜」は指からすり抜けて捕まえることは出来ない。
目を開き何も掴めなかった右手を見つめていると、不思議と懐かしい、切なさが胸にこみ上げた。
幼い頃に知った、幸せな胸の痛み。
滲み出す苦い思い出を打ち消すように首を振り、茉莉花は自分に言い聞かせる。
私はもう夢見がちな「小さな女の子」じゃない。
私が今、好きになっているのは「王子様の幻想」ではなく「生身の男」だ。
私の初恋の相手は「王子様」ではなく「オオカミ」だ。
茉莉花は狼と同じ琥珀色の瞳を輝かせ、遠吠えを真似て体を反らし夜空を仰いだ。
この恋は成就することはない。成就させることは許されない。
それでも「優しい闇」はこうしていつも自分の側にいてくれる。
「――「王子様」の元へ行くまでは、ずっと一緒だからね」
茉莉花は夜空にそう囁いてから窓を閉め、カーテンを引き、再びベッドに横たわった。
正しくない関係の男女から生まれ、結ばれる事が出来ない相手に恋をして、近い将来面倒な務めを果たさなければならない。
それでも茉莉花は自分を「幸せ者」だと思っている。
墓前で今は亡き母の茉莉也にもそう伝えていた。
「色々ままならない事だらけだけど、生まれて来て楽しいよ」
黄泉の国にいるのか、それとも茉莉花と咲也の守り神になっているのか――この世にいない母に向けてそう呟き、茉莉花は微笑みながら目を閉じた。




