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8・「王子様」が迎えに来るまで(15)

 この日の夜の食卓には彗斗と九郎が富谷(とみや)市にある大型ディスカウントストアで購入した食材が並んだ。


 調理済みのトルティーヤとシュリンプカクテル。


 ポテトサラダは彗斗が一から作り、サーモンは半分を刺身、半分をカルパッチョにした。


 一キロの大きなサーモンのサクは「食べ盛りの男子高校生」二人と「大柄な成人男性」一人と「見た目以上に健啖家(けんたんか)の女子」二人にとって、持て余すような量ではない。


 一瞬でそれぞれの胃袋の中に消えた。


 後片付けを済ませた茉莉花が不燃ゴミを持って勝手口から外に出た時、西の空から花火が打ち上がる音が聞こえてきた。


 今日は区民まつりが開催されており、夜空に響く破裂音はその締めくくりの花火のものだ。

 

 会場は自宅から三キロ程離れた場所にある七北田(ななきた)公園。


 ここからは音しか聞こえないが、敷地の外に出てすぐ目の前、ガードレールの外側の傾斜に生い茂る木々の間から花火が見える。


 昨年と一昨年は全国に蔓延していた感染症の対策のため花火大会は中止になっていたが、それ以前は毎年家族と一緒にここから花火を見ていた。


 高野原家の者以外は知らない花火鑑賞の穴場スポットだ。


「花火やってるねー」


 台所から居間に戻ってきた茉莉花がそう言ったが、彼女以外のきょうだいたちの反応は薄い。


 咲也は縁側に寝転んでスマホでゲームをし、真斗と九郎はテレビでBSの野球中継を見ている。彗斗は「食後」のビールを飲んでいた。


 つれないきょうだいたちに見切りをつけた茉莉花は、腰を屈め座卓に置いていた自分のスマホを手に取る。


「――ちょっとだけ見に行こうっと」


 茉莉花が小声で呟くと、テレビを見ていた真斗は眉間に皺を寄せ顔を上げた。


 険のある視線を弾くように茉莉花は鼻を鳴らす。


「今年最後の花火だもん、あと二十分くらいで終わるでしょ?すぐ戻るから」


 そう言うと茉莉花は足早に居間から出て行った。


 すぐ前の道路とは言え夜に茉莉花一人で出歩くのは危ないので、真斗は縁側でビーズクッションに寝そべっている咲也に付いて行くように促す。


 皿洗いを終えてひと息吐いているのに今度は「姉のお()り」かよとでも言いたげに、咲也はだるそうに寝返りをうち真斗に背を向けた。


「えー、蚊に食われっから外出たくねぇんだけど」

 

 ふてぶてしい弟の態度に眉を顰め、真斗は「仕方ないな」と座卓に手を付いて立ち上がる。


 目の前に手が空いているもう一人の「男きょうだい」がいるにも関わらず、自ら茉莉花に付いて行こうとする真斗を見た九郎に焦燥感が走った。

 

 優柔不断で頼りない自分が「戦力外」とされたような気がして、正直面白くなかった。


 昔からそうだった。いざと言うときに茉莉花を守るのは大人の真斗で、子供の自分はそれを見ているだけ。


 今彼の胸にある感情は、あの時の寂しさと似ていたが少し違う。


 また兄さんにマリを取られた――子供じみた「拗ねた」感情とは違う、妙に泥ついた気持ち。これは「嫉妬」だ。


「俺が行く」


 苛立ちを抑え静かにそう言い、九郎は真斗の行手を塞ぐようかのように彼の前に歩み出る。


 予想外の九郎の行動に真斗は少し驚いて目を見開いた。


「これから走りに行くんじゃないのか?」


 真斗は九郎を無視している訳ではなかった。


 九郎はこれから日課である「夜のランニング」に行くのだろうと思っていたので真斗は敢えて彼を除外していたのだ。


「あっ……」


 勘違いをして真斗に対抗心と嫉妬心を抱いてしまった九郎は、気まずそうに下を向く。


「……今日は行かない。今年まだちゃんと花火見てなかったし。せっかくだから俺も見に行く」

「そうか、頼む」


 真斗は特に気に留めていないようだった。むしろ「助かった」と言った様子で眉を開き頷いた。


「私も行こうかー?」


 冷蔵庫からビールを持ってきた彗斗が九郎を呼び止める。


「いや……酒入ってるし……」

「あっはっはー!だよねぇー、酔っ払いの面倒まで見てられないよねぇー」


 三本目の缶ビールのプルタブを上機嫌に開けながら彗斗は玄関に向かう九郎を見送った。


 彗斗には申し訳ないが、九郎は一人で行きたかった。


 自分一人で茉莉花を守りたかった。


 引き戸を開け外に出た九郎は小走りで敷地の外へ向かう。


 打ち上がる花火の遠鳴(とおな)りが響く中、木立の間を貫く長いアプローチを抜けると、アスファルト舗装の道に立つ茉莉花の姿が見えた。


 向かって来る人の気配に茉莉花は身構えて振り返ったが、それが九郎だとわかると緊張を解き再び花火を見上げる。


 茉莉花は隣に歩み寄って来た九郎の顔を覗き込む。


「今夜の「護衛」は九郎か。兄さんに頼まれて来たんでしょ?」

「違う」

「えっ?」

「俺も花火見たかった」

「ふーん」


 周囲に街灯はないが、ロードサイド店の看板や、バイパスをひっきりなしに走行している車のライトでガードレールの向こう側は、夜の底に光を漂わせている。


 眼下に広がる人の営みの光と段丘の向こう側から打ち上がる花火の光を受け、茉莉花の琥珀色の瞳は屋内にいた時よりも輝いて見えた。

 

「アイス!」

「アイス?」

「うん、昔冷蔵庫からアイス持って来て花火見ながら食べてたじゃん?持って来るの忘れてた」


 しくじったなと口を尖らす茉莉花を見て、九郎も「しくじった」と思った。


 彼も昔のことをすっかり忘れていた。


 茉莉花が花火を見に行くと言った時点で思い出していれば、冷蔵庫にあったアイスを持って家を出て彼女に手渡すことが出来た。


 九郎は己れの気の利かなさを悔やみ肩を落とす。


「……持って来る」

「ちょっと!私ひとり置いて行っていいの?!」


 家に戻ろうと(きびす)を返した九郎を茉莉花は引き止める。


「――ちゃんと見張ってなきゃ」


 羽のような長い睫毛を瞬かせ彼女は微笑んだ。

 

 引き寄せられるように茉莉花の隣に戻った九郎は、打ち上がる花火を見上げる彼女の横顔を見ていた。


 昨日の朝、弾けるように恋に堕ちてから、彼女と目が合う度にその思いが膨らんでいく。


 九郎は「(さや)処女(おとめ)」――茉莉花とは結ばれることを許されない存在だ。


 だからせめて茉莉花の「王子様」――「剣の益荒男(ますらお)」が現れるまでは、誰よりも彼女の側にいたい。

 

 その思いを胸の内に隠し九郎は茉莉花の隣に立っている。

 

「――このお洋服」


 茉莉花は下を向き、ワンピースの裾を摘んで呟いた。


「本当はさ、七夕の花火の時に着たかったんだよね。でも夜にこれ着て女同士で出掛けたらまた兄さんと喧嘩になるし。この程度ではしたないとかさ、モノトーンでそんなに派手でもないし、普通に可愛いよね?」


 茉莉花は顔を上げて九郎に同意を求める。


 九郎は二度深く息を吐いてから、真っ直ぐに彼女の目を見て頷いた。


「――可愛い」


 これは「好きだ」と口にするのと同じくらい今の彼にとっては「重い」言葉だった。


 全神経を顔面に集中させ無表情を保っていたが、心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなっていく。


「でしょー?これ着て花火見れて良かった」


 彼の覚悟に気付いていない茉莉花は戯けてターンをし、ワンピースの裾を揺らしてニヤリと笑った。


 昨日の夜に九郎に対し(しか)め面で「むさ苦しい」と言い捨て、母親の墓参りに行く前は目に見えてテンションが低かった茉莉花だが、今はいつも以上に眩しい瞳で微笑んでいる。


 お気に入りの服を着て、昼と夜に美味しいものを食べて、今年最後の花火を見てすっかり満足しているようだった。


 九郎は昔から楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに笑う彼女を見るのが好きだった。


 その笑顔を見ている九郎の胸に暖かい光が(とも)る。


 先程から二人は花火を全く見ていない。


 はじめから花火は二の次で茉莉花ばかり見ていた九郎と、彼に応じるように視線を合わせて微笑む茉莉花。


 その姿は昨晩九郎の夢の中に現れた茉莉花のように見えた。


 琥珀色の瞳に甘い光を帯びた、キラキラとした飴のような自分にとって「都合の良い」茉莉花だ。


 九郎が彼女に抱いている疾しい劣情を見抜き、それごと彼を受け入れ愛してくれているように見えた。


 そんなことはあるはずはないのに。


 茉莉花はおそらく歌劇団の男役のような美しくて「生臭さのない」男が好きなはずだ。


 優柔不断で頼りない自分ではなく、きっと真斗のような「大人」の男の方が良いと思っている。


 ――マリは、やっぱり兄さんの方が……。


 急に引け目を感じ黙り込んでいると、茉莉花が瞳を閃かせ声を上げた。


「ねぇ!下のコンビニまで行ってみない?スマホに少し「お金」入ってるし、私が払うからちょっと良いアイス買って半分こしよう!」


 コンビニは坂の下の住宅地を抜けた先、バイパス沿いにある。十分もかからない距離だが、アイスを買って店を出た頃には花火は終わっている。


 真斗は花火が終わる時間を把握しているはず。


 終わってもすぐに家に戻って来ない二人を彼は不審に思うだろう。


「駄目だ。花火見るだけだって兄さんに言っただろ」

「夜のお散歩してみたい。こんな時じゃないと夜遊び出来ないじゃん」


 夜遊び――茉莉花が発した一言に九郎の胸が騒いだ。


 二人きりで夏の夜道を散策する。一つのアイスを分け合って食べる。


 正直心惹かれるシチュエーションだが、それはあまりにも良過ぎて、良くない。


「――駄目だ」


 誘惑を退けるように九郎は首を横に振った。


 茉莉花は不満そうに口を尖らせ、芝居がかった口調であて(こす)る。


「あら、優秀な「護衛」ですこと。兄さんに褒めてもらえるんじゃない?」


「つまんない奴」とでも言いたげに茉莉花はつんとそっぽを向く。


 九郎は自分に背を向ける茉莉花の真っ白な(うなじ)から目を離せなかった。


 その肌に歯を立てたい――彼の身に走るのは「(オオカミ)」側の本能。


 肌に歯を立てる行為――甘噛みは相手を傷つけるものではなく純度が高い「愛情表現」だ。


 当然性的な衝動も含まれているが、この行為は愛しいと思う感情がそうさせるもの。


 夢の中で彼は茉莉花の肌を甘噛みした。


 夢に見るほど彼女が愛おしかった。夢に見るほど彼女の肌が欲しかった。


 現実で茉莉花の白い首筋を前にした九郎には、耐える以外の選択肢はない。触れることすら許されない。


 優しく噛むように、その目に切なさを滲ませ見つめることしか出来ない。


 九郎の視線を受ける茉莉花は、背を向けたまま右手で左首を覆い身を捩り、悩ましげに息を漏らす。


「――食われた」


 彼女の声を耳にした九郎は一気に血の気が引いた。額と背中から冷たい汗が吹き出す。


 視線で、夢で、肌を噛まれていたことに茉莉花は気付いている。俺の全てを見透かしている――九郎は激しく動揺しその場に卒倒しそうになった。


「蚊!蚊がいたの!」


 茉莉花は顔を歪め首を掻きながら振り向いた。


「蚊……」


 色気のない彼女の顰め面を見た九郎は脱力し、間の抜けた声を漏らした。


「ここ食われた!もー最悪なんだけど!」


 歩み寄って来た茉莉花は九郎に向かって背伸びをし、蚊に刺された箇所を指でさす。


 彼女の無防備で大胆な行動に九郎たじろいだが、吸い寄せられるように身を屈め彼女の首筋に顔を寄せる。


 虫刺されと掻いた跡で少し赤くなった白い肌。

 

 頸から匂い立つ暖かくて甘い体臭が鼻をくすぐり、九郎は堪らず喉を鳴らした。


 匂いに酔わされ、そのまま首筋に顔を埋めそうになった彼を引き止めたのは、射るように体に突き刺さる「強い」気配。


 我に帰った九郎はその気配を辿り、家の敷地側に視線を向ける。


 大柄な男の影が、並んだ門柱の間に立ち九郎と茉莉花を見ている。


 真斗だ。


 九郎は慌てて茉莉花の首から身を引いた。


 彼を見据える真斗は、かつてないほど険しい表情をしている。


 闇を纏い佇立(ちょりつ)する益荒男(ますらお)――それは真斗の姿をしているが、彼とは違う存在。


「脅威」が「人」の姿を借りて現れたもののように見えた。

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