8・「王子様」が迎えに来るまで(14)
その日を最後に、真斗の顔から「王子様」の笑顔が消えた。
真斗の態度は日に日に素っ気なくなり、話しかけても面倒臭そうに眉を顰め、彼女を避けるように自室に篭ることが多くなった。
日曜に姉の彗斗と出かけようとした時「おめかし」をして髪を巻いたことを、かなり厳しい口調で咎められた。
真斗は茉莉花が良くないことをした時はちゃんと注意をし叱っていが、あんな風に萎縮させるような叱り方をするようなことはなかった。
何が良くなかったのか、どうすれば良かったのか、やってしまった事とどう向き合うのか。茉莉花の目を真っ直ぐに見据え真剣に言い聞かせ、それが終わるとすぐにいつもの笑顔に戻っていた。
だがあの時の真斗は叱った後、そのまま目を合わせることもなく彼は茉莉花の前から立ち去った。
獣撃隊の面接試験や卒論があるから色々余裕がないんだよと和真が言っていたが、きっとそれだけではない。
自分が「鞘の処女」になってからだ――自分のせいで真斗は変わってしまったのではないかと茉莉花は気にかけていた。
――でも、どうして……。
数日後、入浴を済ませ部屋に戻ろうと風呂場から出た時、玄関から引き戸が開く音がした。
――お兄ちゃんだ。
最近、帰宅する時間が遅い。茉莉花が寝る時間になっても帰って来ないこともあった。
真斗は仙台駅に隣接するホテルのラウンジで給仕のアルバイトをしていたので、夜遅くに帰宅することは珍しいことではない。
だが就活が始まってからは週一、二回にシフトを減らしていた。それにも関わらず、ここ暫くは毎日のように帰宅するのは九時以降だった。
アルバイトではない日に一体何処で何をしているのか。外泊をしそのまま大学へ行く日もあった。和真と彗斗にそのことを尋ねても二人は何も知らないと言う。
土間に脱いだ靴を揃えた真斗は、そのまま階段を登って行く。
茉莉花は息を潜め彼の後を追った。
階段を登り切ると廊下の奥、自室のドアの前に立つ真斗がいた。
「……おかえり」
茉莉花が恐る恐る声をかけると真斗は振り向きもせず「ああ」と低い声で返す。
訳がわからないまま冷たくされることに対し、もう我慢がならなかった。
茉莉花は顔を上げ真斗の背中を睨む。
「ねぇ!何でずっと機嫌悪いの?嫌なんだけどその態度!」
強い口調で言い立てる茉莉花に対し、真斗は背を向けたまま何も返さない。
「私のせい?私、何か悪いことした?」
「茉莉花は何も悪くない」
真斗は静かな声で答えた。
「じゃあ何で――」
「お前は「鞘の処女」なんだ。もう子供じゃない」
「この前子供って言ったくせに……」
「きょうだい同士でも、あまり男に馴れ馴れしくするな。「鞘の処女」は「剣の益荒男」のものだ」
真斗はドアノブに手を掛け、じりじりと袖を引くような妹の視線を振り払うように言い捨てる。
「――俺だっていつまでも女きょうだいに構っていれない」
一度も茉莉花に顔を向けることなく、真斗は部屋に入りドアを閉めた。
ひとり廊下に取り残された茉莉花は俯いて唇を噛んだ。
自分の部屋には戻らず階段を駆け下り、離れにある書斎の戸を叩く。
中に入ると、机に向かいパソコンで講義の資料を作成していた和真がキーボードを打つ手を止め振り返った。
茉莉花は矢継ぎ早に真斗から受けた冷たい仕打ちを和真に訴えた。余裕がないだけではない。真斗は明らかに自分を拒絶している。
和真は興奮気味の茉莉花を穏やかな口調で宥めた。
「真斗は茉莉花を嫌いになった訳じゃない。素っ気なくなったのは茉莉花が「鞘の処女」になったからそのケジメのためだと思うよ」
真斗も同じようなことを言っていたが茉莉花は納得がいかなかった。
「何でお兄ちゃんが「ケジメ」つけなきゃなんないの?」
「茉莉花は十八になったら他の「王子様」のところに行かなければならないからね」
「……「王子様」じゃなくて「剣の益荒男」でしょ?それに「ケジメ」なら私がちゃんとつけるし……急には無理かも知れないけどさ……」
「心配しなくて良いよ。少し厳しくなっても十八になるまでは真斗は茉莉花の「王子様」でいてくれる」
「……「王子様」って……別に……そんな……」
幼い頃に真斗を「王子様」みたいだと思っていたことがバレて以来、和真はよくそう言って茉莉花を揶揄っていた。
「王子様」とか、もう子供じゃないんだから――茉莉花自身もわかっていた。自分は「剣の益荒男」のもの。「王子様」から離れなければならない。
わかってはいるが、そう簡単には気持ちが追いつかない。
少しずつ諦めるから、せめて「剣の益荒男」のところへ行くまでは、今までと変わらず自分と接して欲しかった――そう思った後、茉莉花はハッとして顔を上げた。
――「諦める」って何を……?
突然、心の中で存在すら知らなかった扉が開いたような感覚に茉莉花は不安げに視線を泳がせる。
「大丈夫だよ。真斗は誰よりも茉莉花を大切にしてくれる」
「――「剣の益荒男」よりも?」
自分の口から溢れたのは、思ってもみない言葉だった。
戸惑いを隠せず瞳を揺らす茉莉花の姿を見て、和真は意味深に微笑んで頷いた。
その笑顔は自分の胸中を見透かしているような気がして、茉莉花は息を飲んで後退る。
「何でもない――大丈夫、私、もっとしっかりしなきゃね!」
首を振って笑みを取り繕い、茉莉花は書斎を後にした。
真斗が自分から離れて行くほど、彼の存在は今まで以上に彼女の中で色濃くなっていった。
思うたびに、悲しみや寂しさとは違う胸の痛みが「毒」のように体を蝕んで行き、まるで「呪い」のように真斗のことばかり考えてしまう。
茉莉花はここ暫く好きな本を読むことや、好きなミュージカルやアニメを見ることを避けていた。
彼女をずっと苦しめている胸の痛み、そして「諦めなければならない」ものが何であるか――きっとこの中に「答え」がある。
それと向き合うことが怖かった。
知ったところで、自分は「剣の益荒男」のものだ。
灯りを消しベッドに身を沈め、眠りの淵を漂う中、茉莉花は和真が言った言葉を思い出した。
「茉莉花が一番と思う「王子様」を選べばいいさ」
そうだ「剣の益荒男」を選ぶのは自分だ。
国が選んだ候補者以外でも「剣の益荒男」に相応しい天津人の男なら――
暗闇の中で閃いた構想――それは禍々しい「毒りんご」のようなもの。
それを手にした茉莉花は「お姫様」ではなく「魔女」だ。
呪いをかけた「果実」で「王子様」を――瞼の裏に映し出される「物語」の歪さに血の気が引き、茉莉花は逃げるようにまどろみから抜け出した。
「何バカなことを……」
差し出された「禁忌の果実」を振り払うように、キャバリアのぬいぐるみを抱きしめ寝返りを打ち、きつく目を閉じた。
「王子様」との別れは突然訪れた。
学校から帰って来た茉莉花がダイニングに入ると外泊から帰って来た真斗がいた。
ダイニングチェアに座りスマホを見ている彼に「おかえり」と言いかけた茉莉花が見たのは、首筋や鎖骨の下に付いた小さな赤い痣――キスマークだ。
近現代の作家の本や一般文芸の恋愛小説を読んでいて「ませて」いた茉莉花はどんな経緯でキスマーク付くのか知っていた。
セックスがどんなものか知っていた。
真斗は大学四年生。背が高く秀麗な風貌なので周りの異性が放っておく訳がないし、彼自身も大人だ。
隠しているだけで既に彼女がいるんだろうなと薄々感じてはいたが、決定的な証拠を目にした途端全身に鳥肌がたった。
突然魔法が解けたかのように「王子様」のようだった兄が一気にただの「生臭い男」に見えた。
初めて目の当たりにした「性」の匂わせに対する嫌悪感。それを見せつけてきたのが大好きだった兄であることに対する絶望感。
胸を締め付けていた切ない思いが粉々に砕け散り、怒りに近い感情が茉莉花の身に走った。
他の女の肌を弄った手で、髪や背中を撫でられ、何も知らずに「自分だけの王子様」だと思っていた。
裏切られた。ずっと騙されていた。
拳を震わせ自分を睨む茉莉花の眼差しに気付いたのか、真斗は視線を上げて彼女を見据える。
勝手に俺を「王子様」にしたのはお前だろ――目の前にいる涼しい目をした「男」はそう言っているように見えた。
茉莉花は奥歯を噛んで真斗の前から立ち去り、地団駄を踏むように階段をのぼり自分の部屋に戻った。
ドアを閉め顔を上げるとベッドに置いていたキャバリアのぬいぐるみが目に留まった。
堰を切ったように溢れ出す優しい「王子様」だった真斗との思い出と、彼に対して勝手に夢を見て「王子様」にしていたと言う事実が混ざり合い、息をするのも苦しくなる。
茉莉花はぬいぐるみを掴んで床に投げつけ、そのままベッドに倒れ込んだ。
五年にわたる「小さなお姫様と王子様の物語」はこうして幕を閉じた。
それからさらに五年が過ぎた今、真斗には「王子様」を感じさせるものは何もない。咲也が言ったようにもう「王子様」と言える年齢でもない。
茉莉花に対しては常に仏頂面で「塩対応」だ。
精悍な体は「暑苦しい筋肉の壁」で、甘い目元を持つ彫りの深い端正な顔立ちは濃すぎて「くどい」と感じている。ハッキリ言ってもう「好みのタイプ」ではない。
それに加えて、澄ました顔をして美人で巨乳の恋人に対してはデレデレのムッツリスケベだ。
酷い言いようだが、茉莉花は決して彼を憎んでいる訳ではない。
十年間きょうだいとして過ごして来たので情はある。
普通に話をするし、いざという時に助けてくれる頼もしい兄であることに変わりはない。
こうして弟の咲也を交え、真斗と外食をすることは友人たちと出掛けるよりは退屈だが、それなりに楽しいものだった。
真斗が注文したのはハーフサイズのビーフシチューとミックスフライのセット。
咲也はチーズがのったトマトソースのイタリア風ハンバーグ。
茉莉花は「ガツンとした肉」を食べたい気分だったのでポークソテーを注文した。
食べ応えのある厚切りの肩ロース。味付けは「ご飯」が進む醤油で香り付けをしたガーリックバターのソース。
パンとライスを選べたが迷わずライスにして正解だった。
食事を終え、空になった食器を下げられた後にウェイトレスが運んできたのは色とりどりのクリームソーダ。
これは真斗からの「ご褒美」だ。
昨日、自宅にヨモツが出た時に駆けつけた獣撃隊の隊員に従い「模範的箱入り娘」を演じ切った茉莉花と、彼女からの連絡を受け外出先から駆けつけた咲也に対する労いだと言う。
七色から選べるソーダの色は茉莉花はブルー、真斗はベーシックなエメラルドグリーン。咲也は「一番エグそう」だとピンクを注文した。
「……九郎の分は?」
キラキラとしたブルーのクリームソーダを前にした茉莉花は、膝に手を置いたまま浮かない顔をして呟いた。
彼女の隣で頬杖をつく咲也も同じ表情をしている。
「九郎もダッシュで家に戻って来たんだけど……うちらだけ「ご褒美」貰うのは……何かちょっと……」
真斗はグラスにストローをさしながら二人に答える。
「俺たちが外で昼飯済ませるから、ケイに九郎と何処かに食べに行くように飯代預けておいた。それに九郎の労い分も入れている」
「へぇー、何頼んだのかな?焼肉のお店ってどんなデザートあったっけ?」
「九郎も姉ちゃんもデザートに執着ないから、その分でちょっと「良い肉」のランチ頼んだんじゃね?」
ピンクのソーダをストローでかき混ぜながら咲也は適当に返した。
「あー、確かに」
「オオカミのご褒美」はやっぱり「お肉」か――茉莉花は顔をほころばせ、スプーンを手に取った。
もし九郎がここに居たら何色のクリームソーダを頼むだろう?
優柔不断なところがあるからギリギリまで悩むか、甘いものに執着がないから案外すぐに決めるか。
――どちらにしろ、きっと無難な緑を選ぶんだろうな。
茉莉花は真斗が注文したエメラルドグリーンのクリームソーダを見つめ、目を細めた。
茉莉花は九郎を「王子様」だとは思っていない。
「良い男」だと思っている。
完璧な「スパダリ」ではない。どちらかというと頼りないところがあるが、強い生命力と鋭さを感じさせる。
どうしようもなく惹かれ「本能」が「良い」と脈打ち、身も心も欲する「良い男」だ。
茉莉花にとって現在の「王子様」は真斗でも九郎でもない。今は誰ともわからない「剣の益荒男」だ。
彼女にとって「王子様」はもう胸をときめかせる存在ではなく「番う男」を表す記号のようなものでしかない。




