8・「王子様」が迎えに来るまで(1)
着替えを済ませ居間に入って来た彼が目にしたのは、縁側で眠っている茉莉花の姿だった。
今日はきょうだい全員それぞれ用事があり外出するので、同じ時間に家を出る事にしていた。
現在、居間にいるのは彼と茉莉花だけ。他のきょうだいたちはまだ部屋にいるのだろう。
早々に身支度を済ませた彼女は「よそゆき」の服を着たまま横になって、待ちくたびれてそのまま眠ってしまったようだ。
ガラス戸側に寝返りを打ち寝息を立てている茉莉花は、肩が露出したデザインの黒いチェックのワンピースを着ていた。
以前、この服を着ている姿を目にした事がある。
可愛らしくて彼女によく似合っているが、通りすがりの見知らぬ男も自分と同じ感情を持つと思うと歯痒さで胸がざわつく。正直面白くないし、他の男に見せたくない。
気持ちよさそうに眠っているが、もうすぐ出掛ける時間なので起こした方が良い。
剥き出しの肩に直接触れるのは良くないと思い、ひらひらとした袖に覆われた二の腕を数回揺すった。
茉莉花は目を閉じたまま不機嫌そうに小さく呻いて更に身を屈め枕にしているクッションに顔を埋める。
咲也も寝起きが悪いが、双子の姉の彼女もそこそこ悪い。
もう一度揺すった時、彼女は唸りながら大きく寝返りを打ち、翻った右腕が彼の横っ面を掠めた。
さほど痛くはなかったが、親切心で起こしてやっているのにこの仕打ちはないだろう。
彼は打たれた頬を摩りながら恨めしそうに小さく舌打ちをする。
茉莉花は仰向けの姿勢で微睡みながら目を擦り、息もれ声で囁くように彼に言った。
「――起こすなら「キス」で起こしてよ。「王子様」みたいにさ」
冗談でも身内の人間に言うような台詞ではない。
下らない事を言うなと突っぱねるのが正しい反応だが、彼は息が止まって動けなくなった。
「キス」をしたいどころか、もっと「酷いこと」をしたいと思っている。
そんな彼にとって、口づけをねだる言葉はたとえ冗談であっても劇薬だった。
「いつまで善良な「きょうだい面」保てるんだか……」
茉莉花はそう言いながらゆっくりと身を起こした。
頬に垂れた髪を耳に掛けながら上目遣いで彼を見据える。
「私を抱いて孕ませてものにしたいと思ってるくせに。全部知ってるんだから」
躊躇いなく腹を裂いて腸を引き摺り出すように、彼が「一番知られたくない」秘密を彼女は容赦なく暴く。
彼は脂汗を滲ませ歯を食いしばって表情を殺していたが、瞼が、唇が小刻みに震え出す。
もうこれ以上取り繕うことは出来ないと押し黙ったまま腰を上げ立ち去ろうとしたが、茉莉花は逃すまいと彼の脚に縋り付く。
狼狽えて足元を見下ろすと、脚に腕を絡ませ体を擦り寄せる茉莉花と目が合った。
床に投げ出した白い脚がスカートのスリットを割って露わになっている。
人魚姫がその愛らしい声と引き換えに魔女から与えられたものを思わせる、真っ新で生まれたばかりのような瑞々しい脚。
声を失っていない茉莉花は無邪気に笑いながら彼を見上げてこう言った。
「――「王子様」が迎えに来るまでなら、好きにしていいよ」
彼を見つめる琥珀色の目は蜂蜜のような甘い光沢を帯びて輝いている。
「アレ以外なら、何をしてもいいし、何でもしてあげる」
陽の光のような眩しい笑顔で彼女は禁忌を犯せと嗾ける。
「私もう子供じゃないし、女らしくしているからってウブな訳じゃないし」
屈託のない明るい声で、いつ折れてもおかしくない彼の理性を擽る。
「男と番う役目背負ってるんだから、どうすれば男が悦ぶかなんてもうとっくに知ってるし」
肌に直接囁くように、彼の腰に頬擦りをしながら唇を寄せる。
「上手く出来るかわからないけど、上手くするから」
ズボンの腰回りに悪戯に腿を撫で上げていた白い指が差し入る。
彼にとってそれはもう恐怖でしかなかった。
甘い蜜の匂いを滴らせ愛らしく男を誘う茉莉花は、黄泉の国で体を蛆に蝕まれ変わり果てた姿と化した伊邪那美のような悍ましいものに見えた。
自分の腰に絡みつく茉莉花の体を力任せに引き剥がすと、彼女は体勢を大きく崩し縁側の床板に倒れ込んだ。
痛々しい小さな悲鳴を聞いた彼は我に返り、蹲る茉莉花を抱き起こす。
「……が「王子様」だったら良かったのに」
彼の腕の中で茉莉花は声を震わせそう言うと、目を伏せて寂しそうに笑った。
このまま泡になって消えてしまいそうな儚い顔に胸を突かれ、引き止めるように彼はその華奢な体を抱きしめる。
「どうせ産むなら好きな人の「剣」を産みたかった……」
そう呟き胸に顔を埋める彼女の柔らかい髪を掻き抱き、細い腰を引き寄せた。
服越しに互いの体を擦り合わせながら彼は目を閉じ、茉莉花を抱えたまま床に倒れ込む。
剥き出しになっている彼女の細い肩に指を這わせ柔らかい首筋に唇を寄せ、少し冷たい雪のような肌を喰んだ。
茉莉花は覆い被さる彼の大きな体に脚を絡ませ、浴びせられる情欲に応じるように腰を擦り寄せる。
一線を超えないように懸命に踏み止まりながら、二人は変えてはいけない運命に抗うように体を重ね合った。
このまま床板を突き抜けてもっと深いところへ、取り返しのつかない闇の底まで堕ちていく――彼はそんな気がした。
目を開けると、そこは縁側でも奈落でもなく自室のベットの上だった。
まだ夜が明け切っていない薄闇の中で彼は夢から覚めた。
うつ伏せになり抱いているのは茉莉花ではなく枕で、体に絡んでいるのは彼女の脚ではなく薄手のタオルケット。
狐に化かされた後のような情け無い有り様だ。
枕を離し仰向けになると、夢の中で彼女が着ていた服のチェック柄がゆらゆらと蒼暗い視界に浮かんでは消える。
悪い夢だった――彼は汗で肌に張り付いた濃紺のTシャツの裾をたくし上げ腹を摩った。
現実の茉莉花と夢の中の茉莉花は見た目こそ同じだが違う存在だった。
林檎と林檎味の飴くらい違う。
青臭さが無く、妙に味が濃く甘味が強い。
自分にとって都合の良い要素だけで作られたもののように感じた。
都合良く彼を愛していた。
汗で額に張り付いた髪を掻き上げ、彼は首を振って打ち消す。いや、これは都合が悪い。
そんなことある訳がない、望んではいない、絶対にあってはならない。
彼は苦しげに唸り、夢の余韻のように脚に絡みつくタオルケットを蹴飛ばした。
首を起こし下腹部を覗き込むと、彼は苦々しく顔を歪め舌打ちをする。
彼女に対する激情だけが浴びせる宛を失い、苛立ちを孕み猛っていた。グレーのスウェット越しでもわかるくらいに。
無邪気に破滅へ誘う「運命の女」は彼を弄ぶだけ弄び、泡も立てずに腕の中から消えた。
最悪の寝覚めだ。
◆
――また「双子コーデ」じゃん。
顔を洗い髪を梳かし台所に入って来た茉莉花は、先にダイニングで朝食を取っていた真斗と九郎を見てそう思った。
二人ともネイビーの無地のTシャツにグレーのスウェットの寝巻き姿。
男の服の形や色のバリエーションの少なさから、こう言った「被り」は多く発生する。
真斗と九郎の寝巻きは似たり寄ったりなので、洗濯をした後にどちらの物なのか判別がつかなくなることが多い。
二人ともこだわりが無いので無難なものしか着ない上にサイズまで同じだ。
シャツやスラックスはサイズが大きい方が真斗のものだとわかるが、寝巻きやジャージの場合、九郎は締めつけを嫌いゆったりとした着心地を好んでいるので真斗と同じサイズの物を着ている。
おそらく本人たちも自分の物なのか判別がつかないまま、洗い上がって戻って来た物をそのまま身につけている。
今日は真斗も彗斗も仕事が休みなので弁当を作る必要がない。
茉莉花はいつもよりも遅く起床し、朝食はそれぞれ適当に用意して食べてもらうようにしていた。
ガラス戸側に座っている真斗は朝刊を広げている。
テーブルの上には昨日買って来たドーナツが二つとマグカップ。中身はおそらくコーヒーだ。
背中を向けて座っている九郎が食べているのは、こちらまで漂ってくる匂いから昨日の残りのカレーだろう。
テーブルの上にあるポータブルテレビから情報番組の音声が流れる中、二人は無言で食卓を囲んでいる。
口数が少ない者同士なので、終始無言でも一緒にいて肩肘を張らなくて済むようだ。
パジャマ姿の「休日モード」の茉莉花も寝起きでテンションが低いこともあり、欠伸をしながら無言で朝食の準備に取り掛かった。




