7・雪肌の「処女」と闇夜の「獣人」(4)
半人半獣の幼子の姿で地上に降りた九郎は、深い森の中で目を覚ました。
辺りを囲う木々もその枝葉の間から見える空も、彼にとっては地上で初めて目にするものばかりだったが不思議と見慣れたもののように感じた。
高天原にも山や森はあった。
体の感覚がそれらを覚えている。ああ、ここは森だ。
彼の体は四、五歳くらいの子供と同じくらいの大きさ。
思考や言語能力もその年代の子供と同じ程度のものを持っていた。
空、木、草、土、光、影――目に映るものを一つ一つ確かめながら九郎はゆっくりと立ち上がる。
「ひとくさにみつけてもらい、ひとくさをまもる」
降り注ぐ木漏れ日に目を細め、九郎は唯一覚えている言葉を呪文のように唱える。
高天原での記憶は消えてしまったが、この言葉だけは覚えている。
彼を見送った天津神が誰なのかも忘れてしまったが、この言葉だけは覚えている。
それは天津神から与えられ、流れる「血」に刻まれた九郎の使命だった。
森の中を動き回るには獣の姿の方が良いと判断したのか、九郎はその体をオオカミの形に変化させ覚束ない足取りで歩き出した。
木の実や虫を食べて飢えを凌ぎ、森の中を彷徨うこと数日――深い森を抜け視界が開けた先にあった、高台の斜面の下に大きな建物が見えた。
鉄筋二階建ての横に広い建物は金網で出来た二メートル程のフェンスで囲まれており、その向こう側に数人の人草の姿を見た。
地上の人草を目の当たりにした九郎は怯えていた。
「見つけてもらう」ために森から人里まで降りて来たにも関わらず怖くて足が竦んでいた。
人里のすぐ側まで来たにも関わらず様子を伺うばかりの日がしばらく続いた。そうしているうちに体力の限界が迫ってきた。
このままでは「見つけてもらう」事なく死んでしまう――オオカミの形を保てず半人半獣の姿に戻った九郎は残った力を振り絞り人草がいる「向こう側」へ足を踏み出した。
錆びた金網を掴み足を掛け、九郎はフェンスをよじ登る。
獣の血が入っているので身体能力は普通の幼子よりも高い。このくらいの高さのフェンスなら登って降りることは出来る。
「……ひとくさにみつけてもらい……ひとくさをまもる」
か細く震える声で唯一覚えている「自分の使命」を唱えながら、九郎はゆっくりと金網のフェンスを登っていく。
天辺の金属製の柵に手を掛け、身を乗り出した時に「向こう側」の建物の方から声がした。
「みつけた!」
建物の前にある低い植え込みから二人の子供が顔を出し、フェンスの前まで駆け寄って来た。
ふわふわとした栗色の癖っ毛と琥珀色の瞳。
同じ背丈で同じ顔。九郎と同じくらいの年恰好。
髪が短いやんちゃそうな表情をしている方は男の子。髪を二つに結っている方は女の子だ。
男の子は異形の九郎を見ても怖がってはいない。物珍しそうに目を輝かせていた。
女の子は少し怯えた様子で男の子の後ろに隠れて、恐る恐る彼の肩越しに顔を出す。
男の子は後ろから自分のTシャツの袖を掴む女の子に興奮気味にこう言った。
「やっぱりクロはカタオイだったんだ」
「クロ?」
「あいつのなまえ」
男の子は一昨日からフェンスの向こうの草むらに身を隠す九郎の姿を何度か見ていた。
黒い犬のような姿をしていたので彼は九郎に「クロ」と名前を付けていた。
地上の人草と間近で対峙した九郎は怖気付いていた。
森へ戻ろうとフェンスから降りようとした時、男の子は彼に向かって大きく両手を振った。
「こっちにこいよ。こわくねーから」
男の子はフェンスの上で震えている九郎に呼びかける。
「……こっちにおいで」
「クロ」が自分よりも怯えていると察した女の子は、男の子の隣りに出て来て「こわくないよ」と微笑み小さく手招きをした。
夏の日差しを受ける二人の栗色の髪と琥珀色の瞳が金色に輝いて見えた。
金色の眩しい光のような男女の双子――咲也と茉莉花だ。
九郎が二人と出会ったのは仙台市の南部に隣接する名取市にある児童養護施設の裏庭。
咲也と茉莉花は九郎――「高天原からの神使」である「天津片生」の第一発見者だった。
シングルマザーだった母親を亡くした咲也と茉莉花は他に身寄りがなかったので、三歳からこの養護施設で育てられていた。
ここでは戦前から天津人の孤児を養育していた。
北海道・東北で唯一「天津片生」の保護養育を担っている施設でもある。
現在は「天津片生」の子供はいないが過去の育成ノウハウは残っていたので、九郎はそのままこの施設に引き取られ育てられることになった。
地上の人草と暮らすために必要な戸籍を作る際、ここで彼に「九郎」と名前が付いた。
名字は発見された場所の地名から「高舘」。名前は咲也が彼を「クロ」と呼んでいたので、その韻を残し「九郎」となった。
誕生日は咲也と茉莉花が九郎を発見した「七月八日」で、年齢は当時四歳だった彼らと同じとされた。
九郎と咲也は「特殊な子供」同士だった。
九郎は半人半獣の「天津片生」で、咲也は既に三歳で天津人が持つ能力に覚醒していた。
普通の天津人が祓除能力を使えるようになるのは七歳から十歳くらいになってからだ。
咲也はかなり早く覚醒しただけでなく、能力の強い血筋の者が持つ念力などの超能力的な力も持っていた。
だが、彼はまだ幼く能力を制御することが難しかった。
感情がたかぶるたびに力を暴発させ、茉莉花や他の子供たちや職員を傷つけることもあった。
傷つけたくて傷つけている訳ではない。
自分ではどうにもならなかった。
咲也は能力の制御が出来るまで外部の人間や施設内の他の子供とも接触しないように別棟に隔離されていた。
隔離されてはいたが、職員も天津の大人たちも咲也に対して献身的に接し根気強く指導していた。
過度に甘やかすことはなかったが、差別的な扱いをしたり虐げるようなことはしなかった。
咲也のまわりにいたのは職員や外部から能力制御の指導に来る天津人などの大人と、双子の姉の茉莉花だけだった。
まだ能力を使えない茉莉花は施設の子供たちと寝食をともにしていたが、咲也だけ一人きりにしていることを心苦しく思っていた。
次第に茉莉花は他の子供たちから離れ、一日中咲也と過ごすようになった。
孤児としては比較的周りの大人たちや環境に恵まれていた咲也と茉莉花だが、二人は世界に自分たちだけしかいないような寂しさを抱いていた。
そんな空寂な世界にいた二人の元に現れたのが九郎だった。
九郎にとって咲也と茉莉花が特別な存在だったように、二人にとっても九郎は特別な存在だった。
幼い九郎は獣の牙や爪で人を傷つける危険があった。
まだ長時間人の姿を保つことが出来ず、すぐに半人半獣の姿に戻ってしまう。
念力のコントロールが上手く出来ない咲也と同じ「人を傷つけ、恐れられる」存在だった。
似た者同士の九郎と咲也は互いに元気づけ、自分の力を制御する訓練に励んだ。
時には傷つけ合うこともあったが、そのことはより互いを大切にするきっかけになって行った。
茉莉花は九郎を恐れることはなかった。
念力が使える咲也と一緒にいたこともあり、特殊な存在には慣れていたので幼いながらも九郎の面倒をよく見ていた。
施設でずっとひとりぼっちだった咲也に友達が出来たことが嬉しかった。
読んでいた絵本に九郎が興味を持ち、二人で一緒に本を読むようになったことも嬉しかった。
職員の尽力と茉莉花の励ましと二人の努力が身を結び、九郎と咲也は五歳でそれぞれの能力を自分で制御出来るようになった。
職員の引率で施設の外にある大きな公園に遊びに行けるようになり、遠足で他の子供たちと一緒に仙台にある大きな水族館にも連れて行ってもらった。
九郎と咲也、そして茉莉花を取り囲む世界は彩りを放ち大きく開けていった。
毎日に新しい発見があり、明日が訪れることが楽しみでしょうがなかった。
九郎と咲也と茉莉花はいつも一緒に身を寄せ合い、「三つ子のきょうだい」のように共に成長して行った。
「三つ子」たちが六歳になった八月の盛暑の頃、彼らの「世界」が大きく変わる出来事があった。
咲也と茉莉花の父親と名乗る男――高野原和真が施設を訪ねて来たのだ。




