7・雪肌の「処女」と闇夜の「獣人」(5)
咲也と茉莉花の父、高野原和真は背が高く精悍な体つきをしていた。
口元と顎に髭を蓄えた彫りの深い端正な顔立ちで、銀縁の眼鏡を掛けていた。
普段の生活では見ないタイプの「おじさん」――和真と初めて会った時、テレビで見た俳優が目の前に現れたような不思議な感じがしたことを九郎は覚えている。
和真は茉莉花と咲也の母親――藤倉茉莉也と恋人同士だったが、彼女は自分から別れを告げ和真の元を去った。
茉莉也が別れた後に自分の子供を産んでいたこと、三年前に亡くなっていたこと、そしてその双子の姉弟が名取市のこの施設にいることを先日に知ったと言う。
別れた時に和真の子供を妊娠していたことを茉莉也は彼に告げず、一切の連絡を断ち一人で彼との子供を産み育てていた。
何も知らなかったとは言え彼女一人に全てを背負わせてしまったことと、自分と彼女との間に生まれた子供たちに今まで何もしてやれなかったことを和真は悔やんでいた。
亡くなった茉莉也には何もしてやれなかった。
子供たちに対し今まで自分がしてやれなかったことや茉莉也が成長した子供たちにしてあげたかったこと――今さらだとは承知だが、せめて彼女が残した子供たちに対しては父親としての責任を果たしたいと和真は茉莉花と咲也を引き取り育てることを望んでいた。
九郎は幼いながら、二人の父親が施設を訪ねてきた時点でもう茉莉花と咲也と一緒に暮らすことは出来ないと察していた。
とても寂しかったが幼いながら、親という存在を知らないながらも「ほんとうのおとうさん」の元で暮らす方が二人にとっては幸せなのだろうと九郎は思っていた。
もう会えないわけじゃない。毎日会えなくても二人とはずっと友達だよと施設の職員からも言われ、九郎はそのことを受け入れる覚悟は出来ていた。
そんなある日、九郎は定期的に施設を訪れていた和真から直々に「君も家族になって欲しい」と告げられた。
咲也と茉莉花にとって大切な「きょうだい」とも言える九郎を二人から引き離すことを心苦しく思っていた。
九郎も双子たちの「きょうだい」として「家族」として彼を養子に迎えたいと言うのだ。
血の繋がりのない孤児を養子にすることは簡単なことではなく、厳しい審査をクリアしなければならない。
養子を迎えるには、まず「夫婦」が揃っていなければならなかった。
和真は双子の実子ともう一人の子供を同時に引き取っても不自由なく暮らせる経済力があり、同居する家族からも了承を得ているが現在は独り身。
父子家庭なので法律上養子を迎える事は出来ない。
しかし和真は天津人で九郎は天津片生だった。
昔から降りて来たばかりの身寄りのない天津片生は天津人が引き取り、家に迎え育てて来た。
現在はほとんどが養護施設で育てられている。
全員が天津人に養子として引き取られる訳ではないが、引き取られた天津片生たちは独り立ちするまで丁重に育てられて来た。
養子たちは皆独立後は定職につき、結婚をしてそれぞれ世帯を持っている。模範的な社会人、親になっていた。
そんな先人たちの実績があるので、天津人と天津片生の場合は「特例」として条件が緩和されており和真と九郎の養子縁組は成立した。
様々な縁が重なり九郎は高野原家の一員になった。名前も「高舘九郎」から「高野原九郎」になった。
茉莉花と咲也と正式に家族、きょうだいになった。
九郎にとって茉莉花と咲也は地上で出会った初めての「光」で、何よりも大切な存在だ。
彼女たちと一緒に自分を家族として迎えてくれた養父の和真、義兄の真斗と義姉の彗斗には心から感謝している。彼らは大切な家族だ。
死の穢れから人草を守る――天津神から託された天津片生の九郎の使命に、双子たちと高野原の家を守ることが加わった。
高野原の家で育った十七歳の九郎は逞しい天津片生に成長した。
持ち前の高い身体能力と祓除能力にさらなる磨きをかけ、ヨモツ討伐の場数も踏んできた。
もう怯えるだけだったあの頃とは違う。
人草に見つけてもらった「高天原の神使」である九郎は、人草を守るためその爪に、牙に、体に雷を宿し「死の穢れの獣」を祓う。
祓いの雷に蝕まれ、ヨモツは獣の形を失い消えて行った。
残った一欠片を握りつぶすと拳から青白い火花が散った。
祓除完了――辺りに再び穏やかな夜陰が訪れる。
ヨモツの出没で息を潜めていたのか、先程まで耳にしなかった虫の声がそこかしこから聞こえて来た。
九郎は呼吸を整えてからその姿を半獣のものから人型に変えた。
髪やハーフパンツに付いた土埃を払い、斜面側のガードレールに腰掛ける。
ヨモツと揉み合った際に擦ったようで右の脛と左肘の皮が剥け、血が滲んでいた。
肘の傷に付いた砂つぶを払った時、九郎は縁側でぶつかった際に触れた茉莉花の腕の感触を思い出した。
きめの細かい肌は少し冷たくて、触れ続けたら雪のように溶けてしまいそうな気がした。
華奢な腕は肌と同じように骨まで柔らかそうに感じた。
骨と言うよりもしなやかな木の枝。加減を間違えたらすぐに折れてしまいそうだった。
か弱い女の腕の感触は彼の体の深いところまで刺さり、残り続けている。
血が滴る肘の傷はそのうち消えるが、この感触はきっといつまでも残り続ける。
彼自身が手放したくなからだ。忘れたくないと何度も何度も思い出す。今もこうして思い出している。
九郎は完全に茉莉花に惚れてしまっていた。
血の繋がりはないがきょうだいである茉莉花から「女」を感じて、彼女を「欲しい」と体が疼いたことに対しての罪悪感はある。
だが体は抑えることは出来ても、心は抑えることは出来なかった。
興奮が引いて半獣の姿から人の姿に戻り、茉莉花と咲也と居間でテレビを見ながらドーナツを食べていた時には、既に手遅れなくらい茉莉花のことしか考えられなくなっていた。
見慣れていたはずの茉莉花を形作るパーツの一つ一つが九郎の心を捉えて離さなかった。
ドーナツを食む小さな口。唇についたクリームを舐める小さな舌。
台所で夕飯の支度をしている後ろ姿――締めたエプロンの紐で強調された柳腰。
胸はどちらかと言うと大きい方が良いと思っていたが、手に収まるような小ぶりな丸い胸がたまらなく「可愛い」と感じた。
目に映る茉莉花の何もかもが本能的に求めている形に気持ち良く「カチリ」と当てはまる。
ずっと側にいた「きょうだい」として一緒に育って来た茉莉花が、意識下にあった「自分が番う女」の形になっていた――そんな気がした。
もし自分と茉莉花が結ばれたなら――九郎の想像は暴走気味なくらい突っ走っていた。
キスやセックスは合意してから。茉莉花がすぐしたいと言うならすぐするし、まだしたくないと言うならその時まで待つ。
当然避妊はする。高校を出てすぐに子供をつくるのは早過ぎる。茉莉花だって若いうちにやりたいことがあるだろう。金銭面でも厳しい。
自分は大学には行かず公務員試験を受け、高卒で義兄の真斗と同じ獣撃隊に入る――現在考えている進路と同じだ。
普通の天津人だった場合、茉莉花は高校卒業後は結婚をする事はない。おそらく付属の女子大に進学するだろう。
彼女が大学を卒業するまで家に生活費を納めて住まわせてもらう。
実家暮らしをし貯金をして彼女が卒業し就職するタイミングで同棲を始める。もちろん家賃や生活費は自分が多めに出す。
そのまま二十五歳くらいで結婚してすぐに子供をつくる――
いつも通り茉莉花と食卓を囲み、彼女が作った夕飯のカレーをかき込みながらそんなことを考えていた。
セックスもキスもしていないどころか告白すらしていない――思いが通じ合っているのかすらわからないのに。
それ以前に自分と茉莉花は結ばれてはならないのに。
茉莉花の恋愛観も結婚観も知らないのに、叶うはずがない将来設計を大真面目に事細かに考えていた。
我ながら気持ち悪い――食後に皿を洗いながら九郎は自分自身に引いていた。どん引きしていた。
何てことを考えているんだ。
性欲の先にある生殖まで彼女に負わせようとしている。
地上の女と番い、自分の血を引いた人草を残そうとする不完全な半人半獣のカタオイの渇望。
番う相手を決めたら死ぬまでその相手と添い遂げるオオカミ特有の、人間以上に一途な習性。
激しく急かすような茉莉花に対する性の執着は、流れているそれらの「血」がそうさせているのか。
九郎は自分の中に突如芽生えた、支配欲に近い強烈な衝動に不快感を覚えた。
九郎が茉莉花に対し抱いているものは本能から生じる「女にとって有害」な性欲だけではない。
彼女は九郎にとって眩しい光だった。
施設の裏庭で咲也と一緒に自分を見つけてくれた時から特別な存在だった。
彼が本を読むようになったのは茉莉花が楽しそうに絵本を読んでいるのを見て、彼女と同じ体験を共有したいと思ったからだ。
ずっと眩しい笑顔でいて欲しい。ずっと一緒にいたい――思えばこの素朴な茉莉花に対する気持ちは「恋」の火種としては十分過ぎるものだった。
肌に触れて女を感じたことで、感情に着火して生まれたのはまた違いなく「恋」だ。
だがこの思いは成就することはない。
茉莉花は普通の天津人ではない。「花鞘比売」になる娘だ。
彼女が番うのは天津人の男。天津の人草ではない半人半獣の天津片生の九郎と初交をしたら彼女は「枯れる」――死んでしまう。
「血」と「心」が焦がれる女と出会ったが、彼女は他の男に抱かれその男のものになる。
――九郎は家族で、この家の「守り神」だよ。
幼い頃、養父の和真からそう言われていた。
遠い昔から天津片生を引き取った家には繁栄が訪れると言われ、天津人は彼らを「守り神」としていた。
高野原家の「守り神」である九郎は、この家に与えられた使命――「花鞘比売」になる娘である茉莉花を無事に「剣比古」になる男の元へ送り出す役目を果たさなければならない。
好きな女を守り、他の男の元へ送り出す――それが九郎の務めだ。
自分と茉莉花の立場をあらためて考えると、のぼせるような甘い熱が胸の痛みを伴って引いていく。
傷に沁みる風は生ぬるい。八月の下旬に入ったが夏の果てまではまだ遠いようだ。
汗で額に張り付いた髪を掻き上げながら仰いだ空は雲ひとつなく高く澄んでいた。静かに星が瞬いている。
このまま自分の中にある不毛な思いも空に吸い込まれて消えてしまえばいい。
そう思ったが、見上げた夏星の瞬きの中にも茉莉花を探してしまう。
九郎に高天原の記憶はない。
空を見上げても彼が思うのは彼女の眩しい笑顔だけだ。




