第9話 ロールプレイング
「彼氏とケンカした?」
海岸線をしばらく走ったところで、ずっと無言だった運転手が口を開いた。
質問の意図がわからず首を傾げる。
「ケンカして、おいてかれたん?」
彼はフロントガラスから目を動かさずに言った。
なるほど、そういうことか。
「違うわ」
ゆるくカーブしている海岸線を見ながら答える。
「用事があって来たの、そうしたら電車が止まって」
内心で苦笑する。
こんなのは、なにも説明していないのと同じだ。
「困ってた所にあの女の人が通りかかったから、タクシーかホテルがないか聞いたんだけど」
「ああ」
彼の目がすっと細くなる。
「タクシーに乗りたいって言ったら、俺のとこに連れてこられたのか」
彼はこちらを見ると、片側の眉をきゅっと上げて口の端で笑った。
「なるほどな」
その表情を見て、安堵したというか、共犯者のような妙に気安い心地になった。
きっと、どんな家庭でも何かしらの軋みはあるんだろう。
私はシートにもたれると視線をフロントガラスに移す。
人が歩くのを想定していないような細い歩道に、頼りない街灯。
時おりトラックとすれ違う以外は車も通らなかった。
遠い水平線では、ぽつんと浮かぶ光が強い存在感を示している。
「あれは、漁火だな」
私の視線を追ったように彼がつぶやいた。
「漁火?」
彼はハンドルを繰りながら「ああ」と頷く。
「光でな、イカを獲りよる」
「イカは光に集まるの?」
暗い夜、明かりを求めた結果、罠にかかる。
まるで世の中の仕組みそのもののような。
「そう思うだろ? ちょっと違ってな」
彼の声は淡々としている。
「イカは強い光を嫌うけん、暗がりに逃げ込んだところを獲るんだ」
私は漁火を見る。
強い光には耐えられず、だからと言って逃げ込んだ先にも安寧などない。
なんだか薄暗い気分になって、私は無理やり話題を変えた。
「娘さん、何歳?」
「この間3歳になったところだな」
「3歳かあ、可愛い盛りでしょう」
私はふっと、柔らかく頬をゆるめる。
「どうかな」
想定外の言葉に貼り付けた微笑みがはがれる。
「そりゃ、可愛くねぇってことはないけどよ」
彼は落ち着いた声で言うとハンドルをきった。
窓の外は海岸線から田園へと変わっていく。
『可愛くて仕方がないんだ』
『でも、子育てってやっぱり大変でさ』
通り一遍の答えが返ってくると思っていた。
微笑ましい顔をして適当に相槌を打っていればいいのだと。
でも、違う。
彼は外向きではない話をしようとしている。
「なんかさ、上手く言えないけど、すげえ生なんだよ」
私の動揺をよそに、彼は話を続ける。
「生?」
「重くて、熱くて、柔らかくて、当たり前かもしれないけど、なんかすげえ生き物って感じで、むき出しなんよな」
彼はまっすぐに前方を見ている。
「だけん、すぐ傷つくから守らないとだめだし、守ってばかりだと将来苦労するだろうし、難しいわな」
それが可愛いってことなんじゃないかと思ったけど、きっと彼の中では違うのだろう。
少なくとも、他人が勝手に定義するものではない。
「まあ、それはいいんだけどさ」
彼の表情にほとんど変化はなかったけど、少し声に疲労が乗った気がした。
「この前、家族で動物園に行ったんだよ。それが、俺も小さいときに行ったとこでさ、娘は喜んどったし、よかったんだけど……」
少しの沈黙のあと、彼は口を開いた。
「俺の人生、もう2週目かって思ってな」
低い声が、暗闇に重く響いた。
一面に水田の広がる道を車は走っていく。
相変わらず、街灯の類はない。
幼いころに過ごした地平を、子どもの姿を通して見る。
それは、幸福なことだと思っていた。
なぜだろう、ただそういうものだと思っていた……なんの疑問もなく。
「結婚して、家建てて、子供も生まれて、向こうのお義母さんもいろいろ協力してくれるし、順調なんだよ、怖いくらいにな」
お義母さん……見た目と合わない、少女のような声を思い出す。
「でも、思うんだ。これから先、俺はずっと子供の成長を見守るだけの人生なのかって、そうして、歳をとっていくだけなのかってな」
彼の問いかけは夜の中に沈んでいく。
それに対する答えを私は持っていない。
「かといって、他にやりたいこともないからな」
「やりたいこと」
思わず言葉が口をついて出た。
やりたいこと。目標。夢。
考えるだけで高揚して、まるで火が灯ったように体の内からつき動かされるもの。
パティシエールだったときの私は、美味しいケーキを作ること、職人として腕を上げることを至上の喜びとして生きていた。
ほかのことなんてどうでもよかった。
それを人生の中心に据えた結果、得たものは挫折と、亡霊のようにつきまとう手首の痛み。
私はその世界に一年と耐えることはできなかった。
彼は少しこちらを見て、またフロントガラスに視線を戻した。
「まわりからは立派って言われるんだよ。家庭を持って、ちゃんとしとるって……なんでなんだろうな」
「ああ、それはわかる」
結婚したとき、母親をはじめとして親戚中からこぞって言われた。
『本当に立派な旦那さん』
『一時期はどうなるかと心配したけど、幸せになれてよかったね』
『これでひと安心ね』
旦那のことは好きだ。
でも、結婚は私の努力や目標とはなにも関係ない。
こんなの、誰でもできることなのに。
私は何ひとつ成してはいないのに、なぜこんなに祝福されるのだろう。
「あれ、なんでなんだろうね……まるで、それ以外のことなんてはじめから期待されてないみたい」
どこを見ても幸せばかりが目につく、過剰なまでに晴れやかな空間。
オールドローズのブーケを持つ手首がじわりと痛んだ。
「幸せとか立派とか、誰から見てのものなんだろう」
私の言葉は車内の空気をわずかに震わせて、やがて消えていった。
彼もまた、答えを持っていないのだろう。
田園を抜けたら広い道路に出た。
道沿いには郊外型の店舗が並び、奥には深い山が見える。
「もうすぐ、駅だけん」
彼が言った。
この奇妙な道中もこれで終わりか。
ほっとしたような、それでいて少し寂しいような、不思議な心地だった。
「一番駅に近いホテルに停めるけど、ええか?」
彼の言葉に私は頷いた。
やがて、彼は高層のビジネスホテルの駐車場に車を停めた。
エンジンが切られて、室内灯がつく。
私はゆっくりと彼に視線を向けた。
「あの、今日は本当に助かりました。ありが……」
言いかけた言葉は途中で止まった。
シートの上に置いていた右手に、彼の手が重ねられていた。
「あのさ、俺、お姉さんともう少し話したい」
驚きか恐怖か、胸の鼓動が早くなる。
彼は射抜くような目で、まっすぐ私を見据えた。
「だけん、俺も部屋に行っていい?」
私は目を見開いて彼を見た。
うかつだった。
夜の町、ふたりきりの車内。
なぜ、こうなる可能性を少しも考えなかったのか。
『パパ』という届かない棚にある言葉の響きに、ポーチに停められた三輪車に、知らず知らず警戒を解いてしまっていた。
そんなもの、男と女の間にはなんの意味もなさないことは知っていたはずなのに。
この短い時間のなかで、ただ浮かんでは消えていくだけの本音の触れ合いのうちに、境界線は少しずつ溶かされて、気がつけばこんなところまで侵入を許していた。
そして、指先から伝わる体温は……非常に厄介なことに……決して不快なものではなかった。
さざなみを起こすように、重ねられた手のひらがゆっくりと肌をなでる。
まるで、暗い海に誘い込まれていくみたいだ。
これは、まずい。
思ったときにはもう遅かった。
こらえきれず、あ……とかすかな声が漏れる。
にわかに車内の空気が濃くなる。
「だめ……」
拒絶は弱々しく吐息の中に消えていく。
「だめ?」
耳元でささやく声は、先刻まで人生の閉塞感を語っていた男と同じ人物と思えないほど甘く、優しい。
手の甲をもてあそんでいた手のひらは、今はぴったりと重ねられている。
「だめなん?」
それはもはや問いかけではなかった。
するりと入りこんで、内から崩さんとする、ゆるやかな侵食。
右手から生まれた波は、体の中で次第にうねり、暴れはじめる。
だめだ、このままじゃ。
キリ……と、手首が疼く。
わたし、結婚してるんです。
いや、違う。
私は重ねられた右手を引き抜いた。
乱れた呼吸を整えながら、胸の前できゅっと手を握りしめる。
「私……会いたい人がいて……会って、確かめたいことがあって、この町に来たの」
切れ切れに言葉をつなぐ。
体の内に起こされた波はいまだに引かない。
「会えたのか?」
ゆっくりと首を振る。
「でも、会えるの、明日」
顔を上げて、私は彼を見る。
「だから、部屋に入れるわけにはいかない」
彼もまっすぐな目で私を見つめ返して言った。
「そうか」
声の中から欲望の気配は去っていた。
「ごめんな、警戒させて」
彼は置き場のなくなった左手でエアコンの吹き出し口を一度上下させてから、ステアリングをつかんだ。
私は口の中でもごもごと礼のようなものを言って、シートベルトを外す。
「待って」
ドアを開けようとしたとき、声をかけられた。
「あのさ、ちょっとお願いがあって」
振り返ると、彼は決まり悪そうに笑っていた。
「俺、スバルって言うんだけどさ、あの、名前……呼んでくれへん?」
胸に、先ほどとは別種の感情が飛来する。
そんなこと、ゆきずりの女に頼むものではない。
彼は、こんな場で、こんな形でしか、自分に課された役割を解くことができないのだ。
私たちは同類だ。
抱きしめて、頭を撫でてやりたい衝動にかられたが、それをするわけにはいかない。
そんなことでなにも慰められはしない。
「ありがとう、スバル」
スバルは噛みしめるように頷いてから、私を見た。
「お姉さん、名前なんて言うん?」
「ショコラ」
スバルは片側の眉をぴくりと上げて、その表情のまま笑った。
「気をつけてな」




