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第10話 シングル

 ホテルの部屋へ入ると、どっと疲れが出た。


 机に押し付けるようにかばんを置いて、はあーっと大きく息を吐く。


 今すぐベッドに倒れこみたい。


 でも、昼間かなり汗をかいたからシャワーを浴びたい。


 だけど着替えの類は持ってきていない。


 コインランドリーに行くにしても、替えの下着は買いに行かないといけない。


 そういえば化粧品もなかった。

いつも通りは無理でも、せめてベースメイクと眉毛くらいはなんとかしないと。

あとクレンジングも。


 近くにコンビニはあるんだろうか。


 それにお腹も空いた。

よく考えたら昼から何も食べていない。


 ラーメンが食べたい。

昔ながらの鶏ガラ醤油で、できれば細麺、メンマは多めがいい。


 この辺りにラーメン屋なんてあるのか。

あったとして、今の時間でも開いてるのだろうか。


 なんだかやることが多いな。

めんどくさくなってきた……やっぱりもう寝てしまおうか。


 とりあえずスマホの充電だけはしておかないと。

かばんからスマホを取り出す。


 危うく取り落とすところだった。

手にとった瞬間、スマホが震えだしたのだ。


 画面に発信者名が表示される。


『上田さん』


 旦那だ。

私はゆっくりとスマホを机に置く。


 狭い部屋に規則正しいリズムが響く。


 今は……出られない。

だってこの状況をどうやって説明できる?


 自分でも何をしているのかわからないのに。


 机の上、繰り返す振動は心を揺さぶってくる。


 放っておこう。

このまま電話が切れるのを待って、あとでメッセージを送ればいい。


『柿石という所にいる』

『今夜はホテルに泊まる』

『明日には帰る』

『心配しないで』


 メッセージは便利だ。

相手の反応を許さずにこちらの言い分だけを送りつけることができる。


 対話で生まれる一瞬の揺らぎや迷い、嘘と真実の間にある沈黙をメッセージは伝えない。


『終電逃しそう』


 不意によみがえった記憶に、喉の奥が苦しくなった。


 私は知っている。

この電話の反対側にある夜を。


 ふたりのために整えられた部屋にひとり置き去りにされる苦しさを。

どんな音を重ねても消すことのできない、あの重く暗い静寂を。


 普段は存在すら忘れている孤独の感触が、深く肌に食い込んでくる夜。


 あの、永遠に続くような夜の中、ブランケットにくるまって震えながら、私はひたすら考えていた。

繰り返し問わずにはいられなかった。


 なぜ、私はこんな思いをしなければならないのか。

共に生きると決めた、一番近い存在を苦しめてまでいったい何がしたいのか。


 出口のない問い。


『ごめん』


 返ってくるのは答えですらない。

神妙な表情をした言葉の下にあるのは、この話をこれ以上続けるなという圧力だ。


 あの虚しさ、孤独、怒り。


 少しは味わってみればいい。


 必要なものだけが固めて置かれた部屋の隅、スマホは懸命にその存在を主張し続ける。


 耳を塞ぎたい。


 繰り返される単調なバイブレーションはまるで悲鳴みたいだ。


「もしもし」


 出てしまった。

私には、この着信を夜の闇に葬ることはできない。


 向こう側から声は返ってこない。

なにを言うべきか、決めかねているのだろうか。


 壁に飾られた絵を眺める。

遠い国の風景のような、緑色の多い絵は全体的にぼんやりとしている。


『ショコラ』


 しばらくの沈黙のあと、憔悴しきったような声が聞こえた。


 胸がぎゅっと切なくなる。

こんな状況なのに、馴染んだ声を聞くと旦那の体温が恋しくなってしまう。


『今、どこにいるんだ?』


「柿石」


 正確には上囲だが、どちらでも同じようなものだろう。


『柿石? どこだ?』


 旦那の声には明らかに戸惑いが浮かんでいた。

当然だ、逆だったら私も同じ反応を返す。


「すごく小さい町、日本海の近くの」


『日本海……』


 旦那の声が翳った。

遠くに漁火の浮かぶ、あの暗い海を思い浮かべたのだろうか。


『どうして、そんなところに』


 どうして……それは、私がいちばん知りたい。


 ここのところ、私は少しおかしい。


 あと先のことなんて考えず、衝動のままにここまで来てしまった。

いったい、なにが私を突き動かしているのか。


『俺のせいか?』


 低く、絞りだすような声。


『俺が、悪いのか?』


「違う」


 確かにきっかけはそうだったかもしれない。

でも、これはずっと前から私の中にあったものなんだろう。


「ひまわりを見にきたの」


『ひまわり?』


 小さく「わけわかんねえ」とつぶやくのが聞こえた。


 また、沈黙が訪れた。


 ちらりと時計を見る。

ラーメンは諦めたほうがいいのかもしれない。


『今日、泊まるところはあるのか?』


 静かな声がした。


「うん、今ビジネスホテルにいる」


『そうか』


 はあ、とため息が聞こえた。


『迎えに行こうか』


「ううん、大丈夫」


 ゆっくりと、言い含めるように話す。


「心配しないで、ちゃんと帰るから」


 それはもしかしたら、私自身に言い聞かせていたのかもしれない。


『わかった』


 低く、短い声が返ってきた。


『じゃあ、おやすみ』


 力のない声を聞いて、旦那の横にいられないことに胸が痛んだ。


「おやすみ」


 言ったあとも私は通話を切ることができなかった。

しばらくの間、スマホを耳にあてたまま不規則な息づかいを聞いていた。


『切るよ』


 時間を進めたのは旦那だった。


「うん」


 終了ボタンを押そうとしたところで、向こうから通話が切られた。


 スマホを置いて窓の外を見る。


 幾重にも連なる山の奥、月はさらに遠い空で光っていた。

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