第8話 第一村人
名産品やパンフレットがごちゃごちゃと置かれた棚の横に、この地域のイメージキャラクターらしいアニメ絵のパネルが立っている。
駅構内に人の姿はまばらで、壁一面のガラスから見えるのは山と、遠く光る月。
ここにあるのは、私の知らない日常だ。
地元の特産品でも扱っているのか、イートインコーナーがついた小さな売店は、19時をまわったばかりだというのにもう店じまいをしていた。
ご当地ソフトクリームが食べたかったけど仕方ないか。
電光掲示板を見上げる。
乗る予定の列車まではまだ30分近くある。
一度ホームに降りて乗り場を確認しておいたほうがいいだろうか。
乗り場の案内サインは、見慣れない単語ばかりが並んでいる。
いや、やめておこう、あんまりうろうろするのも落ち着かない。
私は軽く息を吐くと、ガラスで仕切られた待合のベンチに座った。
メッセージアプリを開く。
新しいメッセージは届いていなかった。
旦那とのメッセージ履歴を見る。
『お腹すいた』
『今日のごはん何かな?』
土曜日の仕事帰り、何も知らない旦那に投げつけた返信がこれだ。
『ごめん、今日ちょっと帰れない』
しばらく時間が空いて、メッセージが返ってきた。
『どうしたの』
『何かあった?』
返信はひと言だけ。
『心配しないで』
旦那のメッセージルームを閉じて美羽のメッセージを開く。
『どこ?』
昼間、ほぼ反射のように送ったメッセージにはすぐに既読がついた。
返事がきたのは少し経ってから。
『柿石』
その単語がなにを意味するのか、地名か駅名、あるいは施設名か。
その場ですぐに柿石を調べた。
どうやら柿石という場所は2か所あるらしく『柿石 ひまわり』で検索して出てきた方にあたりをつける。
『わかったすぐ行く』
それだけを返して電車に乗った。
『今から!?』
美羽のメッセージを確認したときにはもう西へと向かう電車に揺られていた。
待合のガラスごしに駅構内を眺める。
誰もいない空間は世界からとり残されたようで、このまま待っていても列車なんて来ないのではないかという気分になる。
『本当にごめん、今日は行けない』
美羽から次のメッセージが届いたのは、車窓いっぱいに広がる海を見ながらふたつ目の県境を越えたあたりだった。
『気にしなくていい』
もとよりそこまで期待しているわけでもなかった。
美羽にだって予定もあるだろう。
『明日は?』
返信はすぐに来た。
『行ける』
『じゃあ、明日』
ひまわりの画像から始まる短いやりとりを何度かスクロールしたあと、私はスマホを閉じた。
そろそろホームに降りるか。
ガラス戸を押す音が、夜の静けさをわずかに震わせる。
階段を降りると、ひやりと涼しい風が首すじを通りすぎていった。
湿った空気の中に濃い草木のにおいがする。
辺りではチリチリチリと、虫の鳴く声が絶え間なく聞こえていた。
単調な電子音に続いて構内アナウンスが列車の接近を告げると、やがて落ち着き払った顔で二両編成の列車が入ってきた。
10人ほどの降車客と入れ違いに乗ると、車内にほとんど人の姿はなかった。
4席固定のボックスシートに腰をおろす。
列車は山沿いをしばらく走ったあと、田園地帯を通って、やがて海が見えた。
遠かった海が少しずつ大きくなり、すぐ近くまで来たとき、柿石駅についた。
ホームに降り立ったとき、生ぬるい風の中、よどんだような、濃い海のにおいがした。
列車はすぐに去っていき、辺りはすぐに静寂の夜に包まれる。
柱に貼られた縦書きの駅名サイン『かきいし』と美羽のメッセージを見比べる。
『柿石』
不安にも似た高揚が腹の底からせり上がってくる。
着いた。ここだ。
ぐるりとあたりを見まわす。
向かい合った短い乗り場に木製の長椅子。
ホームの端近くは生い茂った草木で塞がれている。
小さな駅舎には事務所らしき窓口があるものの駅員の姿はない。
無人駅だ。
そういう存在があることは知っていたけど、実際に降りたのは初めてだった。
ロータリーを抜けて駅前の通りを歩く。
町はすでに今日の業務を終えたようで、商店や銀行の明かりは消え、すれちがう人もない。
ときおり風と共にざあざあと波の音が聞こえるばかりだ。
水面は駅からも見えたけど、海岸までは思いのほか距離があった。
歩いていくにつれて、海のにおいは濃くなっていく。
駅からまっすぐ通りを歩いた突きあたり、歩道の柵越しに海が見えた。
浜は真っ暗で、漁船だろうか、遠くにぽつぽつと強い光が見えた。
浜へ下りる道は街灯がなかったので、スマホのライトで足元を照らしながらゆっくりと歩いていく。
降りていく途中で『ひまわり畑』の小さな看板を見つけた。
あった……これだ。
胸が高鳴る。
体の奥からじわじわと温度が上がってくる。
看板の奥、ライトに照らされて浮かび上がってきたのは、背の高いひまわりの姿だった。
夜の中、ひまわりも一日の仕事を終えたようにうつむいている。
目を閉じる。
胸の鼓動とともに、どうしようもない切なさが全身をかけめぐる。
ゆっくりと息を吸って、大きく、長いため息を吐く。
美羽だ。
ほんの数時間前、美羽がここにいた。
ここで、ひまわりを見ていた。
真剣な表情で何度も角度を変えながら、スマホでひまわりを撮っていた。
理由のわからない、涙が出そうになる。
噛みしめるように、私はまた大きく息を吸う。
明日、美羽に会える。
海の塩気に混ざって、夏草のにおいがする。
何重にも重なる波の音は肌の表面を震わせていく。
もう一度深く呼吸をして、私は目を開けた。
暗い海の向こう、水平線に船の光が見える。
こちらを見下ろすようなひまわりを背に、スマホのライトを頼りに細い道を上がった。
来た道をたどって柿石駅に戻りついた私は、ホームの電光掲示板を見て愕然とした。
『運転見合わせ中』
赤く光る文字の下、淡々と事実だけがながれていく。
『車両と動物との接触事故の影響で一部区間の運転を見合わせております。お客様には大変ご迷惑を……』
生ぬるい風が頬を撫でる。
接触事故……あの静かな山沿いの道で、動物が。
いや、そうじゃない。
浮かんできた痛ましい光景を振り払うように頭を振る。
まずいことになった。
動物との事故は、復旧するまでいったいどのくらいかかるのだろう。
見当もつかない。
短時間で済めばいいけど、もしこのままずっと動かなかったら……
もともと乗換駅まで戻ってホテルに泊まるつもりだった。
さっき歩いたかぎりでは、この周辺にホテルはおろか、おそらく夜を越せそうな飲食店やネットカフェの類もない。
遠いはずの波の音が妙に耳につく。
電光掲示板はずっと同じ情報だけを繰り返し表示している。
とにかく、ここに立っていても何にもならない。
私は駅舎に目を向けた。
少し痛い出費にはなるけど、タクシーで戻れないだろうか。
タクシー乗場はなかったが、どこかに地元のタクシー会社の情報があるかもしれない。
しかし、駅舎には日に焼けた古いフリーペーパーと地域行事の掲示があるだけだった。
一応フリーペーパーの内容も見てみたが、沿線の観光スポットのことばかりで有用な情報はない。
ホームの電光掲示板をもう一度見る。
表示の内容に変化はない。
スマホでも運行情報を確認してみたが、電光掲示板以上の情報はなかった。
それに、充電がずいぶん減っている。
いざというときのためにスマホは考えて使わなければ。
今となっては、列車の中でインスタントさんの実況プレイ動画を見ていたことが悔やまれる。
少し周辺を探してみるか。
さっきの道は商店もガソリンスタンドも閉まっていたけど、居酒屋ならどこか一軒くらい開いてるかもしれない。
私は再びロータリーに出た。
波の音はさらに大きく、私を揺らす。
油断するとさらわれてしまいそうだ。
暗い海、遠く光る人工的な光を思いだす。
収まるべき場所がないだけで、夜の闇はこんなに深く、得体の知れないものになるのか。
普段は意識すらしていない、屋根と壁で守られていることのありがたさを実感する。
整えられた部屋、柔らかくて清潔なベッド。
家の中では、空に浮かぶ月も通り過ぎる風も、全てはガラス窓を隔てた外の世界のものになる。
安心して目を閉じられる空間があることは、決して当たり前ではない。
そして、それはほんの少し中身が変わっただけで、あっという間に孤独の牢獄へと変貌する。
「じゅす、じゅす」
はしゃいだような、舌足らずな声が聞こえて、意識は地上に戻ってくる。
見ると、球状の飾りがついたヘアゴムで髪をふたつにくくった幼い女の子と、祖母だろうか、小柄でふくよかな女性が手をつないで立っていた。
「じゅす、飲むか。よしよし、ばあばが買うたろ」
ふたりは駅の入口に設けられた自動販売機コーナーへと歩いて行く。
「すみません」
迷う間もなく、私は声をかけていた。
「ちょっとお聞きしたいことがあって」
女性はぎょっとした顔で私を見た。
無理もない、言ってみれば私は静かな夜に紛れ込んだ異分子だ。
「このあたりにホテルか、それかタクシーに乗れるところはありますか?」
「ホテル?」
女性が訝しげに聞き返したとき、「カルピス!」と女の子が自動販売機を指差した。
自販機のボタンの高さまで女の子を抱え上げる女性に向かって、私はほとんど一方的に事情を話した。
「それは災難やったねえ、動物は厄介だけん」
ペットボトルの蓋を外して女の子に持たせると、彼女は同情を含んだ声で言った。
「でも、ホテルに、タクシーねえ」
考え込む様子を見て、希望が薄れていく気がした。
地元の人がないと言うのなら本当にないんだろう。
やっぱり、ここで列車が動き出すまで待つしかないのか。
それは何時になるかわからないし、今日中に復旧できるのかも怪しい。
「ああ、でも待ってな」
女性が思いついたように言った。
「どうにかなるかもしれん」
「本当ですか?」
食い気味に返事をしてしまった。
「こんなとこで女の子ひとりじゃ心配だけん、着いてきて」
どこに向かってるのかもわからないまま、私はふたりのあとを着いて歩いた。
女性は私にもカフェオレの缶を買ってくれた。
甘くて温かい液体を体に入れたらふっと気分がゆるんで、体が不安に冷えていたのがわかった。
「なんでまた、こんな何もない町に来たの?」
何気なく問われて答えにつまる。
すげなくされていた年下の女からのメッセージひとつで、矢も盾もたまらずにとんできたとはとても言えない。
私はSNSで話題のスポットがどうのとか、適当に話を濁した。
「へええ、何が注目されるかわからんなあ」
興味もなかったのか、彼女はそれ以上深く聞いてこなかった。
通りから一本入った住宅地をしばらく歩いて、ある一軒家の前で彼女は歩みを止めた。
タイル調の外壁にスレート屋根、周囲の重厚な日本家屋と比べてずいぶん新しいデザインに見える。
家の前に広くとられた駐車スペースには、SUVとコンパクトカーが並んでいて、ドアの横には三輪車が置いてあった。
どう見ても民家だ。
胸にまた不安の種が落ちる。
こんなところに連れてきて、どうするつもりなんだろうか。
身の置き場がわからないまま、ポーチのスロープを見つめる私の横で、女性はドアを開けた。
「ねえ、パパァー」
声を聞いた瞬間、ぎくりと肩が引きつった。
湿り気を帯びた空気のように、違和感が重く胸にまとわりつく。
聞き間違えじゃない。
エサをねだる猫のような甘ったるい声は、幼い少女ではなく、50代も半ばを過ぎてそうな女性が発していた。
「おう、ばぁば、ゆーちゃん、おかえりー」
のんびりと、内向きの気安い声がした。
奥から出てきたのは背が高い男性だった。
年は私と同じくらいか、着古した無地のTシャツに甚平の下のような半ズボン姿で、黒い髪を短く刈り込んでいる。
「その人は?」
私の姿をみとめると、ゆるんでいた彼の顔に警戒が浮かんだ。
「この子ねぇ、駅で会うたんやけど、電車が動かんで困っててなぁ、タクシーもホテルも、このあたりは全然ないやろ」
説明する彼女の声は相変わらず甘え声だ。
「だけん、パパに車出してもらおうと思って」
「え、ちょっと」
まさかそんな流れになるとは思わなかった。
「そこまでお世話になるわけには……」
「ええよ」
私の遠慮はひとことで遮られた。
「ママはお風呂だけん、上がるまでゆーちゃん見ててな」
言いながらサンダルを履くと、彼は靴箱の上にあるキーケースを取った。
「上囲なら20分もかからん、乗って」
彼はもうコンパクトカーに乗り込んでいた。
そこまでしてもらう理由はない。
でも、このままこうしていてもらちがあかないのも事実だ。
車の横で私は立ち止まる。
助手席は妻の場所だ。
しかし、後部座席に座るのはあまりにお客様然として図々しい。
一瞬の迷いを振り切って、私は助手席のドアを開けた。
「お願いします」
シートベルトをしめると、すぐに車は発進した。




