第7話 構成品
メッセージアプリの画面には、さっきと同じ、企業アカウントのアイコンが並んでいた。
やっぱり……入ってない、空だ。
私はスマホの画面を消してローテーブルの上に置いた。
ライブ配信の日以来、美羽からのメッセージはぱったりと来なくなった。
無理もない……あの日、一切の作法を飛ばして、欲望のおもむくまま、ただ肉だけを貪った。
愛想をつかされるのも当然だ。
美羽から連絡がない以上、こちらからは何もするつもりはない。
もともとが偶然知り合っただけのなんのつながりもない2人、生活圏だって違う。
もう、会うこともないのかもな。
「大丈夫?」
すぐ隣で声が聞こえて我にかえる。
顔を向けると、旦那がじっとこちらを見ていた。
「大丈夫って、何が?」
「いや、だいぶ疲れてるように見えたから……仕事、忙しいのか?」
私はかぶりをふった。
「ううん全然、いつも通りだよ」
そんなふうに見えていたのか。
だめだな、しっかりしないと。
「あの」
言いかけて、旦那は思い出したようにテレビを消した。
熱中症の危険を訴えていた天気予報の画面が暗転する。
照明の明るさは変わっていないはずなのに、夜の闇が一段濃くなった気がした。
「あの、前に話してたことだけど」
「前?」
深刻そうに切り出した旦那に、私は首を傾げる。
なんだろう……こんなふうに改まって話すような用事なんてあっただろうか。
「その、病院のこと」
「病院?」
どこか不吉な響きの言葉に胸がざわつく。
もしかして、どこか悪いところでもあるんだろうか。
「うん、前言ってたただろ」
すっかり記憶の奥に埋もれていた単語をどうにか掘りおこす。
「ああ、そのこと」
私は旦那からふいと目をそらした。
ローテーブルの上、飲みかけの緑茶はすっかりぬるくなって、湯呑みの底に細かい茶葉が凝っている。
はじめに話を出したのは私だ。
どのくらい前だったか、はっきりとは覚えていない。
「嫌なんでしょ? 無理しなくていいわよ」
旦那の深酒が始まったのはちょうどそれからだ。
これ以上にわかりやすい拒絶があるだろうか。
「家に帰らなくなるくらい嫌なら、そう言ってくれればよかったのに」
「違う!」
思いがけない強い口調に顔を上げる。
旦那は自分の声に驚いたように口をつぐむと、小さい声で話し始めた。
「あの、ショコラから言われて……正直それまで考えたことがなかったから、戸惑ったのもあるけど、その、俺もちゃんと考えないといけないと思って」
そんな話になるとは思わなかった。
2度まばたきをして、いつになく真剣な旦那を見る。
「あの、それで周りにも相談に乗ってもらったりして……帰りが遅くなってショコラに心配かけたのは本当に申し訳なかったんだけど、いろいろ考えて、その」
旦那はまっすぐに私を見て言った。
「俺、子どもが欲しいんだ」
すぐには言葉が出てこなかった。
ローテーブルの上を見たとき、死んだように上を向くスマホが目に入った。
もしかしたら、美羽からのメッセージが入っているかもしれない。
◇
いつもの路線からひとつ外れただけで、車窓は知らない風景を映しだす。
『今は自然にまかせてるから……でも、旦那そっくりの男の子がいたら、きっと可愛いだろうな』
人に聞かれれば、そう答えていた。
私たち夫婦の間には子どもがいない。
結婚したふたりが、次の段階として子どもを望むのは、とても自然なことだと思っていた。
そのまま授かっていたなら、私も旦那もごく普通にそれを受け入れただろう。
でも、結婚して2年以上経っても、私たちに子どもができることはなかった。
そういった夫婦は、いずれひとつの決断を迫られる。
子どもを作るために、医療の手を借りるか否か。
『検査だけでも、受けてみない?』
最初に病院の話をしたときは、本当に軽い提案のつもりだった。
でも、それからの数ヶ月、旦那のいない夜をひとりで過ごすうち、頭にある疑問が浮かんで離れなくなった。
私は本当に子どもが欲しいのか。
それとも、自分の人生の構成品として、子どもが必要なのか。
私はただ、『子どもを持つことができない可哀想な女』だと思われたくないだけじゃないのか。
わからなくなってしまったのだ。
電車のドアがひらくと、照りつける日差しとともに、小さな駅舎があるだけの簡素なホームが現れた。
◇
降りたのは私だけだったんだろうか、土曜日の昼間だというのに、駅前のロータリーに人の姿はなかった。
郊外型の大型スーパーの横を通って住宅が並ぶ道を歩いていくと、周りは田んぼだらけになった。
しかし、暑い。
蝉の鳴き声が響く中、さえぎるもののない日差しが容赦なく降り注ぐ。
帽子をかぶってくればよかったな。
道の奥に連なる山々を眺めながら、流れる汗をハンドタオルで拭った。
山の登り口のほど近く、その建物はあった。
板張りの外壁、以前見た画像より蔦はいっそう茂っているように見える。
中に入ると空調が効いていてほっとした。
古びた外観と対照的に、中は広々として明るく、現代的な図書館といった雰囲気だった。
外には誰も歩いていなかったけど、座って読書をしている人や、子連れで来ている人もいた。
廊下を歩いていると、スマホで写真を撮っている男性を見かけた。
彼も美羽のようにこの建物を見に来たのだろうか。
2階へ上がると、一室が資料室になっていた。
この建物の歴史や、改修工事の内容などが展示されている。
前に見たときは小学校みたいだと思ったけど、この建物の前身は村役場だった。
外壁の蔦はやはり人工的に這わせたもので、建物を傷めないようワイヤーを渡して、そこに絡めているらしい。
窓から外を見ると、確かに壁の表面に細い格子が見えた。
一角が喫茶室になっていたので休憩していくことにした。
意外とメニューの種類が多い。
利用客は多くなさそうなのに、採算はとれているのだろうか。
注文したレモンスカッシュはよく冷えていて、渇いた喉に沁み込んでいくようだった。
大きくとられた窓の外では、深い木々が茂っている。
他に客もいない空間はがらんとして、やけに静かだった。
グラスの底に残った液体をストローで一気に飲み干すと息を吐いた。
いったい、何をしているんだろう。
相変わらず美羽からの連絡はない。
私にできることなんてないのに、こんなところに来たって会えるわけがないのに。
なんでこんな、美羽の痕跡をたどるようなことをしてしまうのだろう。
スマホのロックを外して、メッセージアプリを開く。
心臓が跳ねた。
ガタッと、椅子の脚が板張りの床を蹴る。
入っている。
すっかり打ち捨てられたと思っていた箱に、中身が。
空虚だった体に血が通ったかのように、全身が熱く脈打ちはじめる。
美羽からのメッセージは2件。
ひとつは画像だった。
天をあおぐひまわりを下から撮ったのだろうか、奥には青い空が広がっている。
『ひまわり』
添えられていた言葉はそれだけだった。
送信時刻は12時7分、ちょうど2時間前だ。
相変わらず喫茶室にほかの客の姿はなく、ホール係の女性が退屈そうにスティックシュガーとフレッシュを補充していた。
窓の外ではうるさいくらい蝉が鳴いている。
私はなぜ、こんなところにいる。
2時間も、美羽のメッセージに気づかなかった。
2時間も前に届いていた美羽の言葉に気づかなかった。
いったい、何をやっているんだ。
『どこ?』
ひと言だけ送りつけると、返事を待つのももどかしく、私は照りつける太陽の下へ飛び出した。




