第6話 ライブ配信
加速する電車の揺れにあわせて聞きなれないアナウンスが流れる。
車窓は風景を映さず、ただ地下の暗がりだけが続いていく。
不意にガラスに映る自分と目が合った。
お前は、どこへ行こうとしている?
揺れる電車の中、自分自身から問いかけられている気がした。
◇
「ライブ配信?」
「うん、次の金曜日なんだけど」
夕食を終えたあと、いつものようにテーブルを片付けながら、さりげなさを装って切りだした。
「この間話したでしょ……大学生の女の子。その子もインスタントさんのファンでさ、一緒に見ないかって誘われて」
旦那は固い表情でカレンダーの日付をじっと見ながら、口を開いた。
「それ、他の日にはできないのか?」
小石のような、わずかな落胆が胸に落ちる。
「ええっと、その場で一緒に見るのが楽しいっていうか、それが生配信だし」
動揺を見せてはいけない。
小さく息を吸うとゆっくり口をひらく。
「だめ?」
「いや、だめってことはないけど」
なんとも歯切れの悪い返事に、胸の奥を漂っていたものがふいに浮き上がる。
「別に……終電を逃したりはしないわ」
言葉を放った瞬間、旦那はかっと目を開いてこちらを見た。
強い表情に一瞬身構えたが、視線がぶつかったあと、旦那は悲しそうに目をふせた。
「ごめん」
◇
あのとき、旦那が少しでも難色を見せたらやめようと思っていた。
あんなことを言うつもりなんてなかったのに。
ドアが開いて、ガラスの中の私はいなくなる。
人工的な白い光に照らされながらも、ホームはどこか薄暗かった。
長い階段を上がると、夕陽に包まれた街が現れた。
スマホの地図と角のコンビニを見比べて、現在地を確認する。
コンビニの前の通りでは、大学生だろうか、1Lパックのジュースにストローを挿して飲みながら、若い女の子達が立ち話をしていた。
明るい笑い声の横を通って角を曲がる。
道沿いの喫茶店に『アルバイト募集 未経験歓迎 試験期間のシフト調整できます』と書かれた張り紙があった。
また、この街に来ることになるなんて。
歩きながら、オレンジ色に光る雲を眺める。
あの日は、曖昧な意識の中、わけもわからず連れてこられただけだった。
でも、今日は違う。
私は自分の足で再びここへ来た。
あの部屋へ入ってしまったら、もうなんの言い訳もできない。
頭の整理はつかないまま、いかにも学生向けというような小規模なマンションの前に私は立っていた。
◇
「いらっしゃい」
ドアが開いた瞬間、夏そのもののような、存在感の強いスパイスの香りに迎えられた。
「カレー?」
玄関のすぐ横にあるキッチン。
コンロの上で深めのフライパンが湯気をたてている。
「うん、ショコラと一緒に食べようと思って」
Tシャツにハーフパンツ、首にかけたタオルで額の汗を拭きながら美羽は笑った。
「もうちょっとで出来るから、適当に座ってて」
洗濯機、冷蔵庫、カラーボックスの上には電子レンジ。
必要なものが集中している廊下は狭く、すれ違ったとき美羽の二の腕を肘が掠めた。
ざわっと、羽毛で覆われたような、妙な感覚が背中を包む。
「お仕事モードのショコラ初めてみた。なんかすごい、できる女って感じ」
美羽の声が、妙に甘ったるく耳を震わせる。
「そりゃあ、仕事だったもの」
美羽のほうを見ずに、私は引き戸を開けた。
シングルベッドと2人がけのソファで占められた部屋、エアコンの冷風が頬を冷やす。
そうだ、この部屋だ。
柔らかい照明の下、ブルーグレーのベッドカバーはきれいに整えられている。
あの日、私はここで裸で眠っていた。
美羽はどんな目でその姿を見ていたんだろう。
「そうそう、ケーキも買ったんだ。近所のケーキ屋さんだけど、結構美味しいんだって」
廊下からひょいと美羽が部屋をのぞいた。
「あ、パソコン消えてる」
美羽はソファにひざをついてパソコンを操作しだした。
「節電モードだとすぐに落ちちゃうな、戻そうかな」
半袖から見える二の腕が妙に白く光る。
にわかに、息が苦しくなる。
このソファで私たちはキスをした。
あれは通りすがりの、事故のようなもの……だと思いたかった。
日常に紛れ込んだ異物として、忘れようとした私を誘ったのは美羽だ。
一緒に中へ入ろうとささやいたのは美羽だ。
そして私もここへ来た。
旦那にあんな顔をさせてまで。
それなのに、カレーと……なんだ、ケーキ?
背中に生まれた波は全身を巡り、苛立ちにも似た渇きが喉の奥から湧き上がってくる。
なにを、もったいつけている?
この衝動には覚えがある。
日常に飼い慣らされて、すっかり牙を抜かれたはずの欲望。
今、音もなく立ち上がって狙いを定める。
荒くなった呼吸を、もう隠すつもりもなかった。
「もうすぐライブ配信始まるから……」
美羽の言葉は途中で止まる。
さえぎったのはTシャツの薄布ごしに美羽の背中を探る私の指先だ。
緊張を表すように、美羽の呼吸が早くなる。
ある一点を掠めたとき、美羽の肩が小さく跳ねた。
ああ、ここか。
糸を撚るように、ゆっくりと指を進める。
「ショコラ……やっ」
美羽は切なげに体を震わせる。
「いやなの? なにが?」
私は構わずに指を動かす。
「こういうことがしたくて呼んだんでしょ?」
優しく、文でも綴るかのように、もどかしさを刻んでいく。
「ちがっ……だって、カレー作ったし、ケーキも……一緒にライブ配信みたくて……」
ああ、そうだよね。
ちゃんと煮込んでカレーを作って、ケーキを選んで……そういうのが楽しいんだよね。
すごくわかる。
でも、そんなことがしたいのなら大学生の彼氏でも作ればいい。
私にそこまで付き合う義理はない。
この女は、私の指先にどこまで自分をあけ渡してくれるんだろう。
『ちわーっす、インスタントです。えーと、大丈夫かな……みんなちゃんと聞こえてる?』
パソコンの画面からは間延びしたような声が聞こえてくる。
『そんじゃ早速だけど、ジャグラー放浪記3、ライブ配信始めていきましょう』
いつのまにか窓の外は暗くなっていた。
指先は次第に熱を帯びる。
もっと、狂え。
腹の底で渦巻く衝動を、脳が言葉へと変換する。
もっと、奥まで、深くまで潜って、めちゃくちゃにしてやりたい、もっと。
「やあっ……やだあ」
美羽は涙声になっていた。
◇
あ、美味しい。
口の中に広がる爽やかな香りに少し驚く。
これ、多分スーパーで売ってるカレールーじゃなくて、スパイスから作ったやつだ。
『このラスト、反則やろ……インスタント、泣きました。全インスタントが泣いた』
つけっぱなしのパソコンからは感傷的な音楽とともに少し疲れた声が聞こえている。
後ろのベッドでは、まるで充電の切れたスマホのように美羽が正体もなく眠っていた。
なんとはなしにパソコンの画面を見ながらスプーンを口に運ぶ。
カレー粉はかなり辛味に寄ってるけど、鶏肉の油で中和されて味が丸くなってる。
いつもカレーは牛肉だけど、たまには鶏もいいな。
『俺たちの冒険はいったんここで終わるけど、このゲームね、まだまだ裏がありそうです。何か情報があったら、コメント欄で……』
私はスプーンを置くと動画を落とした。
おそらく長い時間をかけて煮込んだのだろう、すっかりその均衡を崩した手羽元は、口の中で柔らかくほどけていった。




