第5話 メイラード
午後のゆるい日差しの中、街路樹が揺れる。
改札を抜けて普段着の街に降りたつと、肌の上に日常の手ざわりが戻ってくる。
さっきまでの出来事が幻だったみたいだ。
どこまでも沈み込んでいきそうな、柔らかい唇の感触がよみがえる。
いや、何を考えてる。
いまだ体の芯にくすぶる熱を逃すように小さく息を吐く。
とりあえず早く帰ろう。
駅前の坂道を歩くうちに、西日のオレンジ色は濃くなっていく。
街に出たことは……言っていいか。
用もなく出かけるのは珍しいことではない。
ただ、そういう時はお土産にケーキを買って帰るから、不自然に思われるかもしれない。
いや、考えすぎか。
家にいたことにしたほうがほころびも出ないだろうか。
家事をすませたあと動画でもみながらゆっくりして、気づいたら夕方になっていた。
そうなると今度、このワンピースがおかしい。
洗濯するのに少し日をあけたほうがいいのか……いやそれより、今日は結構な時間外を歩いたけど、日焼けは大丈夫か。
スーパーマーケットの駐車場は週末だからか、かき氷の屋台が出ていた。
氷いちごの前を素通りして自動ドアを通ると、一連の流れのように買い物カゴを手に取る。
待て、ちょっと落ち着け。
女ふたりで連れだって、食事をして少し街を歩いただけだ。
旦那に言えないことなんてしていない。
本当に……今日私は何をした?
心を直接握られるような、甘い手のひらを思い出して胸の奥が震える。
『手をつないでもいい?』
美羽が私に要求したのはひとつだけだ。
『本当に、手だけでいいの?』
それなのに、どうして私はあんなことを。
店内へ入ると、甘い果実と葉物野菜の混ざった、まさに青果といったにおいに迎えられる。
『うちでさ、見ない?』
あのとき、美羽は明らかに誘っていた。
あの状況で家に行って、動画を見るだけで終わるわけがない。
どうしよう……どうしたらいい?
このままだと、そう遠くないうちに、私は……
そのとき、かばんの中でスマホが鳴った。
『今から帰るよ』
ロック画面に表示されたのは旦那からのメッセージだった。
『ごはん何?』
続けざまにメッセージが映し出される。
『お疲れさま』
メッセージを打ちながら白い光に照らされた野菜の棚を見る。
ニラが安い。餃子にしよう。
『今日は餃子だよ』
『やったね!』
メッセージと共に『絶好球やがな!』と漫画のスタンプが送られてきた。
そうと決まればさっさと帰って作らないと。
『なんだと!』とスタンプを返すと、返事を待たずにスマホをカバンにしまった。
レジに並んでいたら、黒板をナイフで引くような音がして身がすくんだ。
ちらりと目をやると、子どもがレジ前で奇声を上げながらひっくり返っていた。
うわあ……嫌だな。
米袋のような、中身がパンパンに詰まった体をバタバタさせながら、子どもはまた空気を軋ませる。
こういった鳴き声には2種類ある。
ひとつは衝動的、生理的なもの。
うるさいと思うことはあっても、そこまで不快ではない。
もうひとつはわざと上げている金切り声だ。
これが嫌でたまらない。
ふたつの違いははっきりとわかる。
あんなに幼い頃から、自分の欲求を通すためにまわりを巻き込む術を心得ている。
傍にはおそらく母親だろう、リュック状の器具で乳幼児を体にくくりつけた女性が疲れ果てた顔で立ち尽くしていた。
ため息を隠してレジ台にカゴを乗せる。
そうまでして、いったい何を手に入れたいというのか。
顔を真っ赤にしてわめく小さな獣の手には、食品玩具の箱が握られていた。
◇
動画を見ながら洗濯物をたたんでいたら玄関で鍵の回る音がした。
さっとリビングを見まわす。
包んだ餃子、たたみかけの洗濯物、テーブルの上には充電中のスマホ。
大丈夫……いつも通り、いつも通りだ。
畳んだタオルを重ねると、私は立ち上がった。
そう、今日はずっと家にいて、掃除したあとちょっと昼寝のつもりが起きたら夕方で。
廊下に出たのと同時に玄関ドアが開く。
まさに炎天下で一日中焼かれたというような、真っ赤な顔をした旦那がいた。
「お帰りなさい」
「あの、これ」
ただいまの代わりに、旦那は箱を差し出した。
取手のついた白い箱、小さく印字されたロゴには見覚えがある。
駅前の洋菓子店だ。
でも……なんで?
「いつもありがとう」
早口で言うと、旦那は私の手に箱を押しつけた。
「風呂入ってくる」
「あ、はい」
旦那は靴を脱ぐのももどかしいといった様子で、かばんを持ったまま脱衣所へと駆け込んでいった。
とりあえず、開けっぱなしになっていた玄関の鍵をかけてリビングに戻る。
おそるおそる紙箱を開けると、ガラスの器に入ったプリンがふたつ並んでいた。
どくんと胸がなる。
旦那がこんなふうに手土産を買ってくるなんて珍しい……いや、初めてかもしれない。
もしかして、何か勘付かれた?
『いや、なんでそこでスロット勝負になるねん、おかしいやろ』
つけっぱなしのテレビからは、どこか笑いを含んだようなのんびりした声が聞こえていた。
◇
洗いものを終えたタイミングで電気ケトルのスイッチが落ちる。
無意識のうちに急須にお湯を注いで、はたと気がつく。
いつもの調子で緑茶を淹れたけど、せっかくデザートを買ってきてくれたんだから、コーヒーにすればよかったかな。
まあ、入れてしまったものは仕方ない。
ふたつの湯呑みをお茶で満たしたら、お湯を足した急須と共にローテーブルへと運ぶ。
「お茶入ったよ、プリン食べよう」
「うん」
旦那は湯呑みに口をつけて「熱っち」と小さく言うと、息を吐いた。
ソファの横に座ってプリンの蓋を開ける。
スプーンで口に運ぶとひんやりと濃厚な甘みが広がった。
表面に焼き目のついた生地はかためで、卵の味がしっかりとついた昔ながらのプリンだ。
「美味しい、ありがとう」
でも、急にどうしたの? 口から出かけた言葉を押しとどめる。
深い意味なんてないのかもしれないし、つっこみすぎるのはかえって不自然だ。
「うん、うまいな」
旦那はすぐにプリンを食べ終えてしまうと、片手でお茶を飲んだ。
「ショコラ」
ふた口めをすくおうとしたとき、低い声で名前を呼ばれて心臓が冷えた。
やはり、このなめらかな甘みはなにかしらの意思を内包しているのだろうか。
「なあに?」
下唇に力を入れて、つとめて明るい声を出す。
今日あったことは、なにひとつとしてこの家に持ち帰ってはいないはずだ。
まさか、見られていたわけでもあるまい。
それでも、昼間の出来事を覆い隠せるほど、私の表皮は厚くないのだろうか。
「なあ……あー」
旦那は言葉を探すように目線を泳がせたあと、リモコンに手を伸ばした。
「せっかくだし、何か映画でも見ようか」
言うが早いか、旦那は動画配信サービスを起動させた。
私は言葉もなく画面に映し出されたロゴを見つめていた。
旦那がこんなことを言い出したのは初めてだし、そもそも何がせっかくなのかもわからない。
いったい、なにが起こっている?
私が固まっている間に、旦那は画面をスライドさせていく。
「何がいいかな、ショコラ、何見たい?」
ラブストーリーにアニメ、西部劇、コメディ、ミステリー。
画面に広がるさまざまな世界を見ていたら、一気に緊張が解ける気がした。
旦那の様子は確かに普段と違うけど、それは私が身構えるようなものではないのかもしれない。
「アメリカ映画がいいな、80年代くらいの、めっちゃ明るいやつ」
「80年代のアメリカ映画な……えーと、タイムマシンとか出てくる?」
なんだ、その質問は。
「うん、じゃあ出てくるやつで」
笑いながら言うと、私は旦那のふところに潜りこんだ。
◇
目をひらいたら、常夜灯のぼやけた明かりが浮かび上がった。
枕もとを探ってくしゃくしゃになったTシャツをつかむと、裏表を返して音を立てないようにかぶる。
下はどこにいってしまったのか……まあいいか、探すのもおっくうだ。
もの憂げな脱力感が絡みついて、全身がじっとり重い。
横を見ると、旦那はこちらに背中を向けていた。
呼吸に合わせてゆっくり体が上下している。
あの朝、私が家にいなかったことがよっぽどこたえたのか、旦那は遅くても終電で帰ってくるようになった。
それに今日も仕事……土曜日なのに、あんなに暑かったのに。
相当疲れもたまっているだろう。
旦那と背中合わせに寝ころんでスマホを見る。
メッセージアプリを開くと、美羽からのメッセージが入っていた。
『今日はありがとう』
これは夕方、おそらくは別れてからすぐに送ったものだろう。
あとのメッセージはほんの十数分前に来ていた。
『インスタントさんの告知見た?』
続いて、SNSと思われるリンク。
『今度、ジャグ浪3のライブ配信するんだって』
ざわっと心臓が震える。
『一緒に見ない?』
「ショコラ」
その時、腰に腕が回されて、声をあげそうになった。
起きていたのか。
あわてて画面を消そうとして、思いとどまる。
そんなことをしたら逆に怪しい。
落ち着け、別に見られて困るようなメッセージでもない。
「好き」
声と共に、ぎゅっと両腕に力が入る。
「好きだ」
画面を消してスマホを置くと、私は旦那の胸に背中を預けた。
「私も」




