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第4話 真昼の狩人

 唇が触れる。

はじめは軽く、境界を重ねあった薄い表皮は危うい均衡を保ちながら次第に熱を持ちはじめる。


 ゆるめられた上唇がひとりでに開く。

もどかしさを楽しむかのように留まっていた唇がふいに遠ざかった。


 熱を帯びて敏感になった薄皮に、ひやりと空気が触れる。


「今日は早く帰るから」


 目をひらくと旦那の笑顔があった。


「うん、熱中症に気をつけてね」


 わずかに乱れた息を整えながら旦那を見上げる。

旦那は私の髪を撫でると片手を上げた。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 ドアがしまってからひと呼吸おいて玄関に鍵をかける。


 ああ……眠い。

でも昼間は出かけるから、朝のうちに洗濯と掃除をしておかないと。


 思いっきり伸びをしたとき、洗濯の終わりを告げる電子音がなった。



◇



「あの、ちょっといいですか?」


 駅の出口、時計台の下で女性から声をかけられた。


「占いとか興味ありませんか?」


 年齢は私と同じくらいか少し上だろう。

一体どこで買うのか、座席のシートみたいな紫色のシャツに、体のラインを強調するようにぴったりした白のパンツ、明るい茶色の髪をひっつめにして頭のてっぺんでお団子にまとめている。


「ないです」


「あなた、不安の青色が見えるんです。あの、本当にお時間はとらせないので」


 見た目と合わない妙に高い声が暑苦しい。

異様な輝きを放つ瞳は私の方を向きながら、まるで全然違うものを一心に見つめているようだ。


「用事があるので」


 なおも話し続けようとする彼女に背を向けて、私は駅に隣接する百貨店の扉をくぐった。


 自動ドアがひらいた瞬間、人工的な冷たい空気に包まれる。


 ハンカチと日傘が並ぶ売場を早足で通り抜けて、迷路のような化粧品売場で入り口を振り返る。

さっきの座席シートはついてきていないみたいで、ひとまずほっと息をつく。


 しばらく中で時間をつぶすか。


 何に使うのかよくわからない薄手の布の前でなんとはなしに足を止めた。

あたりには香水と革製品が混ざり合ったような、独特の粉っぽい匂いが漂っている。


 繁華街には、狩人がいる。


『よかったらお茶でもしませんか?』


 学生のときはこれが多かった。


『いまの仕事に満足してますか?』

『副業とか、興味ありませんか?』


 社会人になって増えたのがこれ。

不思議なことに、25歳を超えてぱったりとこの類の勧誘はなくなった。


 代わりに増えたのがさっきみたいな……占いだとかオーラだとか。


 形は変わっても、言いたいことは多分同じ。


 お前は、不幸せなんだろう?


 独身で寂しくないの?

いまの仕事は本当にやりたかったことなの?

旦那さんとうまくいってないんじゃないの?


『私らしさを大事にすれば、人生はきっと輝く』


 化粧品の広告だろうか、壁に大きく貼り出されたポスターが目に入る。

嫌なものを見た……わずかな疲労が胸に蓄積される。


 世の中に溢れている妙にポジティブな言葉。


『ひとりでも、幸せ』

『他人の目なんて気にしないで、自分らしくいられるのがいちばん大事』


 そんなのは強者の戯言だ。

普通の……人並みに傷つきやすい女は、他者の無遠慮な視線には耐えられない。


『不安の青色が見えるんです』


 どこを見ているのかわからない瞳を思い出す。


 奴らは『満たされていない女』を探し出すのが本当に上手い。


 建前に覆い隠されて普段は見えない、それでもときおり内から滲み出るように浮かぶあの言葉。


『あなた、かわいそうな人ですよね』


 すべてのフィルターを外して、剥き出しのままぶつけてくるのだ。


 数年前に一度来たきりの宝飾店の前を通り過ぎると、時計台の下に美羽がいた。


 美羽は落ち着かない様子でスマホと時計を見比べていたが、私の姿をみとめるとぱっと笑顔になった。


「ショコラ!」


 まぶしそうに目を細めて手を振る様は、完全に恋の始まりに浮かれる若い娘だ。

既婚者に誘いをかけるのがどういうことなのかわかっているのだろうか。


「会いたかった」


 真っ白なTシャツに、薄手のゆるいデニム。

黒髪が昼間の太陽を受けてさらりと光る。


「見ればわかるわ」


 服装が被らなくてよかった。

私は百貨店のガラスに映るチャコールグレーのワンピースをちらりと見た。



◇



 はじけるような香ばしい音が上がる。

ゆるい生地が絡みついた大量のキャベツは、鉄板の上でみるみるうちに焼き固められていく。


「青のりとマヨネーズはかけてもよろしいですか?」


 慣れた手つきで焼成を終えると、店員の若い男は鉄板の上に目を置いたまま低い声で言った。


 美羽がちらりとこちらを見たので「はい」と小さく答える。

彼は手際良く味付けを済ませると「では、ごゆっくり」と無骨に頭を下げて、忙しそうにバックヤードへ去っていった。


「ああ、美味しそう」


 美羽がうっとりと鉄板を眺める。


「早く食べましょ」


 金属製のヘラで生地を割ると断面からふわっと湯気が上がった。

ごくりとつばを飲みこむ。


「あ……」


 対面から気の抜けた声が聞こえた。

何か不都合があったかと顔をあげると、美羽がスマホを構えたまま固まっている。


「もしかして、写真撮りたかった?」


 ヘラを入れる前の完成品を収めたかったのだろうか。

美羽は頷いて2つに割れたお好み焼きにカメラを向けた。


 いったい何が珍しいのか、3回ほど角度を変えて写真を撮ったあと、美羽は満足そうにスマホを置いた。


「いただきます」


 すっかりしおらしくなったキャベツと厚切りのイカは、想像してたよりずっと柔らかく口の中で溶ける。


「おいしい!」


 先に美羽が言ってくれた。


「イカ玉って頼んだことなかった。美味しいんだね」


 はしゃいだ様子の美羽を見て、ゆっくりまばたきをする。


「私もよ」


 水滴でぐっしょりと濡れたジョッキをおしぼりで拭いて、ウーロン茶をひと口飲む。

暑いからとメガジョッキで頼んだら想像以上に大きいのが来て驚いた。


「普段は豚ばっかり食べてるから、違うのにしてみたの」


 いつも確実に美味しいことがわかっている豚にしていたけど、こんな時くらい知らないものを食べてみてもいいと思ったのだ。


「そうだったんだ」


 美羽の目が大きく開かれた。


「なんか、感慨深いっていうか……嬉しい、すごく」


 ゆるんだ美羽の両頬が電球の光に赤く照らされる。


 その笑顔は、本来なら三十前の主婦に向けるようなものではないだろうに。

なんとなく美羽を直視できなくて、私はジョッキを傾けながら店内を見まわす。


 よく日に焼けた、学校帰りの男子高校生の集団や、若い女性の2人組。

子供世帯と来ているのか、子連れ夫婦と老人のテーブルもある。


 土曜日の昼間、全国チェーンのお好み焼き店には、人生のいろんな段階が集まる。


 エビを入れてもよかったかもな。

ジョッキを置くと、皿の上、すっかり小さくなったお好み焼きを口に運んだ。



◇



 自動ドアをくぐって店の外に一歩出ると、湿気を含んだ熱い空気がまとわりついてくる。


 薬局と靴屋がやたらと多い商店街は、土曜日の昼間だけあって人であふれていた。


「どうする? どこ行こっか」


 人の流れに沿って歩きながら美羽が言った。


「そうねえ」


 アーケードの屋根から下がる七夕飾りを見上げる。


 行きたいところならある。すごくある。


 ドンキホーテだ。


 そろそろシートパックを買わないといけないし、あとタングルティーザーのパチモンがほしい。


 普段は街まで出たらまずドンキホーテなんだけど、さすがに今ではないのはわかる。


「ねえ美羽」


「うん?」


 美羽は小首をかしげるように私を見た。


「ジャグラー、打ってみない?」


 白い壁に赤い文字。

シンプルなのに妙に存在感のある看板に、私の視線は止まっていた。



◇



 金属同士がぶつかり合う、滝のような音がする。

店内の冷気に体が冷やされても、肌の表面に張り付いた湿気はなかなか離れない。


「はじめて入った」


 美羽はずらりと並ぶ筐体をきょろきょろと眺める。


「ショコラは来たことあるの?」


 反射的に「はじめてよ」と答えそうになって内心で苦笑する。

いったい、美羽を相手になにを取りつくろう必要があるんだろうか。


「何回かね、ずいぶん昔だけど」


 美羽は「そうなんだ」と小さく言った。


「それでもスロットは初めて」


 遊戯に興じる人の背中の間を通って店内を回る。

パチンコのコーナーを抜けると、奥まったところにスロットがあった。


「どれがジャグラーなんだろう」


 私の後ろをついて歩きながら美羽がつぶやく。

有名なアニメや、どこかでみたようなキャラクターの台が並ぶ中を縫うように進む。


 端から端まで歩いてみてもジャグラーは見つからない。


「置いてないのかな」


 ぽつりとつぶやきが漏れた。

そこまで打ちたいわけでもなかったが、こうなるとなんだか肩すかしをくった気分になる。


「ねえ、ショコラ」


 横でささやくような声が聞こえた。


「あれ」


 美羽が指差した方向に目をやると、壁際『B1Fジャグラーゾーン』のサインと共に地下へ降りる階段があった。


 美羽と顔を見合わせてゆっくりと頷く。


「行こう」


 階段を降りると、中央にピエロの人形が置かれたフロアは、見渡す限りジャグラーの筐体で埋め尽くされていた。



◇



 単純な電子音と玉の流れる音に送られて、私たちは再び商店街へ出てきた。


「やっぱり、ゲームみたいにうまくはいかないのね」


 使うのは千円までと決めていたけど、やっぱりそれではダメなようで一度もランプが光ることはなかった。

しかし、思っていたより長い時間遊べたし、それなりに面白かった。


「みっかぶんの食費が……たったの10分で……」


 悲痛な声に横を向くと、珍しく美羽がしおれていたので思わず笑ってしまった。

確かに学生と主婦では千円の重みが違うだろう。


「笑い事じゃないよぅ……」


 美羽が弱々しく抗議の声をあげた。


「ごめんごめん」


 悪いことをしたかもしれないと思いつつ、なぜだか愉快な気分になってきた。


「ちょっとお茶して行かない? 付き合ってくれたお礼におごるわよ」


 アーケードを抜けると、青空が広がっていた。


 大通りをしばらく歩いていくと、川沿いに石張りの建物が見えてきた。

ケーキのショーケースがあるホールを通って階段を上がる。


「すごい、きれいな建物」


 吹き抜けを見下ろしながら美羽が言った。

ショーケースを飾るケーキよりも建物の方が気になるらしい。


 そういえば建築が好きだと言ってたか。


 席についてケーキセットを注文すると、ホール係の女性がトレイに見本を乗せて階段を上がってきた。


「日向夏のタルトとスフレチーズケーキといちごのショートケーキ、あとブレンドコーヒーをホットで」


「えっ」


 美羽が声をあげてこちらを見た。


「えっと、ショコラ、3つ食べるの? ケーキ」


「うん、美羽も好きなだけ頼んでいいわよ」


 美羽はしばらく見本を見ながら考え込んでいたけど、桃のムースとアイスコーヒーを注文した。



◇



 たっぷりの日向夏の下はチーズクリームだろうか、刻んだレモンピールが練り込んである。

クリームが軽い分タルトベースのカスタードはしっかり甘かった。


「すごい、美味しい」


 向かいの席で美羽が笑った。


「建物はきれいだし、素敵なお店」


「それはよかった」


 私はコーヒーをひと口飲む。


「ここのチーズケーキが好きなの」


 チーズというよりバターケーキに近い生地に杏のナパージュが薄く塗られている。

定番のようで唯一無二の素朴な味は、ふとした時に食べたくなる。


「あの暖炉、本物かな」


 美羽の興味はいまだ建物に向けられている。

私はこの部屋に暖炉があることなんて今はじめて気づいた。


「こういうレトロな雰囲気って大好き」


 そういえば、以前送られてきた画像も建物だった。

たしか校外学習とかなんだとか。


「美羽は大学で建築を勉強してるの?」


「うん、家政学部だけど」


 美羽は頷いたあと窓に目をやった。

縦長の窓は金属製の額縁にミントブルーのカーテンがかけられている。


 美羽にとってはこの窓にも何かしらの意味があるんだろうか。

外を流れる川か、それとも窓自体か、しばらくぼんやりと眺めたあと、美羽はぽつりと言った。


「ショコラさ、夢ってある?」


「夢?」


 なにがどうなってそんな話になったのか。

すっかりネットワークビジネスの勧誘でしか聞かなくなった言葉だが、美羽の世界ではまだ現役らしい。


「うん」


 美羽は私に向き直ると両手でグラスを包むようにしてアイスコーヒーを飲んだ。


「私、建築が好きで、建築士になりたくて大学に行かせてもらったんだけどさ」


 美羽はふっと小さくため息をついた。


「なんかさ、うちの学校なんて大して賢くないのに、まわりの子に比べて図面引くのも全然上手くできないし、構造計算とか勉強もむずかしいし……なんていうんだろう、建築は確かに好きなんだけど、仕事としてやってくのにそれだけじゃだめっていうか、これが本当に私がやりたいことだったのかなって、最近よく考える」


 これはまた、ずいぶんと青くさい悩みがきた。

夢とか、やりたいこととか……その手の言葉と仕事が同列に出てくるのは、まだ仕事と金銭、もっといえば生活が結びついていないから。


 仕事なんてそんな大げさなものではない。


 社会の中で役割を果たし、対価として日々の糧を得る。

少なくとも今の私にとってはそういう性質のものだ。


 フォークを置いて、ポットで供されたコーヒーをカップに注ぐ。

ブラックのまま口に運んだコーヒーは苦くて、砂糖を入れればよかったと少し後悔した。


「パティシエール……ケーキ職人になりたかったの」


「ショコラだけに?」


「ケーキを焼くのが好きだったのよ、子どものころからずっと」


 この話をしたときにほぼ全員が返す反応を聞き流して、私は話を続けた。


 ケーキを作るのも食べるのも大好きで、暇さえあればケーキを焼いていた。

そんな私がパティシエールを志したのは、とても自然なことだっただろう。


 学校を卒業したあと市内の和洋菓子店に就職した。

歴史が長くて、地域ではそれなりに知られた店だった。


 はじめは販売員として接客をしながら、合間で職人の技術を学んだ。


 仕事は決して楽ではなかったが、職人として製菓に携わっていると思うと張り合いがあったし、自分が手がけた商品で誰かに喜んでもらえたことは本当に嬉しかった。


 勤め始めて半年ほどした頃だった。

生地の撹拌をしていたとき、手首にひきつるような痛みが走った。


 気のせいと誤魔化していたが、我慢しているうちに悪化して、しまいにはホイッパーを持てないほど痛くなった。


 病院へ行ったら腱鞘炎と診断された。


 上司から教えてもらったが、腱鞘炎は職業病のようなものらしい。


『みんな一度は通る道だから、しっかり治してこれからも頑張ろう』


 職人気質で口数が少なかった上司の、めずらしく優しい言葉だった。

しかし、そのとき私の頭の中は安堵で占められていた。


 よかった……これで、仕事を辞められる。


 毎朝暗いうちから家を出て夜遅くまで働きづめ、食事休憩さえとれない日もざらだ。

週に1日か2日もらえる休みは眠るだけで終わった。


 そして、私のことが気に入らないのか、それとも元からの性格なのか、やけにあたりのきつい先輩。


 お客様だっていい人ばかりではない。

むき出しの憎悪を理不尽にぶつけられることもあった。


 ふたつの季節をやり過ごして、私は疲れきっていた。


 自分のやりたい仕事をしてるんだから、その程度の苦労なんて耐えられるはず?


 まあ、そういう人もいるんだろう。

私にはできなかった。


 一番の繁忙期を前にして私は店を辞めた。


 あんなに痛かった手首も、冬が終わるころには普通に動かせるようになった。

今は下町の工務店で事務員をしている。


 あのとき、確かに私はパティシエールだったし、私が作ったケーキを美味しいと喜んでもらうこともできた。


 でも、どうなんだろう。


「これは、夢が叶ったことになるのかな」


 長い息を吐くと、私は再びコーヒーカップを傾ける。

砂糖の入っていないコーヒーはやはり苦い。


 美羽はじっと私を見ていた。


「どうして、こんなことを話してるんだろ」


 本当にどうかしている。


「そろそろ、行きましょうか」


 美羽がスマホをカバンに入れたのを同意と受け取って、私は立ち上がった。


 なんで私は……こんなふうに過去の傷まで見せて、目の前にいる女の気を引こうとしているんだろう。



◇



 傾きはじめた日が、外壁に張られた石の質感をくっきりと浮き上がらせている。


 建物の全体をカメラに収めようと、地面すれすれまで体勢を低くして美羽はスマホを構えた。


 この古びた建物の何をそんなに気に入ったのか。

もっとずっと、尊いものがすぐ傍にあるというのに。


 通りかかった若い男性が一瞬ぎょっとしたように動きを止めて、美羽と建物を見比べたあと、スマホで建物の写真を撮っていった。


「ごめん、お待たせ」


 大通り沿い、川を挟んだ向こう側に地下への階段がある。

降りた先は地下鉄の駅、美羽の街へと続く路線だ。


 時間的にもちょうどいいな。

石畳に伸びる街路樹の影を見る。


 橋を渡ったところで美羽と別れて、ドンキホーテで買い物して帰ろう。


「ね、ショコラ」


 橋の半ば、小さな展望台のように、欄干が半円状に張り出している場所で美羽が口を開いた。


「あの、あのさ」


 しばらくうつむき気味に水面を眺めたあと、美羽は私に向き直った。


「手を、つないでもいい?」


 川音に流されそうなほど、小さな声だった。

私はまじまじと美羽の瞳をのぞき込む。


 当惑、緊張、そして欲望。

若さゆえの、秩序をもたない衝動の渦がありありと見てとれる。


 西日が美羽の頬を照らす。

どこにも継ぎ目のない、シャボン玉のようになめらかな肌は、日差しをはね返して光るみずみずしさを備えている。


 なんだ、いま、なんて言った?


 この期に及んで、こんな目をしながら……手をつなぎたい?


 不安を内包した苛立ちのような、言いようのない感情が胸の内側に張り付く。


 いったい私にどんな反応を期待しているというのか。


 視線を向こう岸へと向ける。

石畳の先、地下鉄を示すロゴマークまでは、もういくらもない。


 ため息をついて、私は再び美羽を見た。


「本当に、手だけでいいの?」


 シートパックなら、まだ一週間分くらいは残っていたはずだ。



◇



 例えば、テナントビルの内部階段。


 週末の繁華街、人が多いように見えて、無人の空間なんていくらでもある。


 美羽は私の手を握ったまましばらくうつむいていたが、意を決したように唇をぶつけてきた。


 少し湿った、吸い付くような小さい唇。


 感触を確かめる間もなく唇は離れた。


 まただ、ただ触れるだけのキス。

なんなんだろう、知らないわけでもないだろうに。


 まるで、さそい水みたいだ。


 閉じていた目をこわごわと開いて、美羽は不安げに私を見た。


「ショコラ、あの……私」


 天井で蛍光灯がチラチラと点滅する。

じっと、美羽の目を見つめたまま、頬にかかった髪を指で払う。


 美羽がくすぐったそうにまばたきをする。


 形をなぞるように、美羽の両頬をゆっくりと撫でる。


「ショコラ……んっ」


 手のひらを美羽の頬に置いたまま、私は覆いかぶさるように唇を合わせた。


 薄い皮膚を隔てて、綿菓子のように頼りなかった唇は急激に熱を帯びてくる。

 

 ぐわんと、目の前が揺れた気がした。

頭の中が閃光のような痺れに侵されていく。


 もがくように私の肩をつかんだ手は、背中を撫でると電源を落としたようにゆるむ。


 閉じた世界の中、美羽が私にその身をゆだねるのがわかった。


 緩めるな。


 胸で暴れまわる衝動の声を、遅れて脳が理解する。


 もっと、奥へ。

もっと、もっとだ。もっとずっと深くへ。


 現実が剥がれていく。


 ここは、どこだ?

とても懐かしいような、それでいて得体の知れない場所。


 触れ合った一点から、体ごと吸い込まれてしまいそうだ。

いや、むしろ沈んでしまいたかった。

このどこまでも柔らかく、熱い肌の中に。


 じっとりと生温かく響く、脈動を体の芯が受け止める。

翻弄するように美羽の背中に手のひらを這わせながら、しがみついていたのは私の方かもしれなかった。


 いつまでそうしていたのか。

時間にしたらほんの短い間だったような気もする。


『誰にもバレずに稼いじゃおう、さくらんぼナビ24』


 遠くで宣伝トラックの派手な音が聞こえる。


 唇を離したとき、美羽はぐったりと私に体を預けていた。

へたり込んでしまいそうなのをこらえて、壁に寄りかかる。


 ワンピースの薄布を介して、外壁パネルのひやりとした硬さが背中に伝わってくる。


 いま、なにが起こった?


 蛍光灯の頼りない光がパチリと揺らぐ。


 私はただ、キスを……そう、キスをしただけ。

いやでも、どうして私はキスなんて……


「ねえ、ショコラ」


 腕の中で美羽が私を見上げた。

潤みきった瞳、まるで別の生き物のように頬も唇も、耳まで真っ赤になっている。


 バチッと、蛍光灯が爆ぜるように、目の前の世界が歪む。


「あの、あのさ」


 美羽がぎゅっと服をつかんだ。


「あの、さっき、見たの……ジャグ浪2の更新きてた」


 吐息の混ざった切れ切れの声は、体の芯を直接揺さぶっていく。


「その、うちでさ、見ない? 一緒に」


 熱に潤んだ瞳と、甘い指先。

この若い獣はそれがどんな作用をもたらすのか、きっと理解している。


『高・収・入! バイトなら、さくらんぼナビ24で今すぐ検索』


 不自然なほど明るい、リズミカルな音が近づいてくる。


 許されると思っているのだ。

既婚者を箱の中に引きこむことが。

自身が備えた、ありあまる力を行使することが。


 若くて、甘くて、傲慢だ。


 私は美羽の背中に回していた手をすっと引いた。


「夕飯の支度があるから、帰るわ」

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