第3話 絡みつく蔦
『盛夏の候、皆様におかれましては|』
指先の動きに合わせて、白い画面に文字が並べられていく。
ええと……ますますごけんしょうのこと、と
『ご腱鞘|』
変換キーを押した瞬間、現れた文字に首の後ろが冷える。
じわりと、内からにじみ出るような曖昧な痛みが手首をよぎった。
不吉な文字の先、縦棒のカーソルがチカチカと点滅する。
バックスペースキーを押してキーボードから指を離す。
少し休憩しよう。
軽く手首を回すと、タンブラーの中でぬるくなったお茶に口をつける。
スマホをつけて、メッセージアプリを起動する。
企業の宣伝用アカウントから3件ほどメッセージが入っていた。
箱の中身が空だったときのような、安心と落胆の混ざった気分になる。
小さくため息をついてスマホをロックする。
『ちゃんと帰れた?』
あの日届いた、美羽のメッセージへの返信はただひと言。
『帰れた』
それだけだ。
何日かの沈黙をはさんで、美羽からはぽつぽつと連絡がきた。
『普段は飲みに行ったりするの?』
『インスタントさんの新シリーズ見た?』
『今、なにしてる?』
ひとつもメッセージを返してはいない。
そもそもがあの場限りのつもりだったし、大学生と主婦だ、生活の軸だって違う。
それに……きゅっとタンブラーを握る。
『好きなの』
美羽の気持ちに応えられない以上、会うべきではないだろう。
「おいショコラ、サボってんなよ」
明るい声が聞こえて顔を上げる。
デスクの横に立っていたのは営業部の社員だった。
「ほら、ガソリン、共喰いしとけ」
笑顔で差し出されたのはフィルムに包まれたお菓子だった。
おそらくはコンビニの商品だろう、半透明のパッケージに『濃厚ガトーショコラ』と印字されている。
「なんです? これ、ワイロですか?」
笑いながらお菓子を受け取る。
「バレたか」
彼はデスクの上に束になった名刺を置いた。
「これ、悪いけど入力しといて」
「はいはい、やっときます」
どうせ急ぎの仕事もない。
私は書きかけのワードを閉じるとエクセルを起動させた。
束ねていた輪ゴムを外して、一番上の名刺を手に取る。
『HW企画 代表取締役社長 渡辺 均』
ああ、ワタナベヒトシだからHWか。
妙に納得しながら電話番号、メールアドレス、住所を入力する。
ふと名刺を裏返すと、ボールペンの走り書きがあった。
『麦水 既 娘(携帯ショップ) 釣』
再び表に返して名刺を重ねる。
デスクの端に寄せたガトーショコラがちらりと目に入る。
『甘味は世の中に必ずしも必要のないもの、いわば嗜好品です』
不意に、記憶がよみがえった。
『つまり、私たちの仕事は無くてもいい種類のものなんです。だからこそ、みなさんはただ利益を追求するだけではなく……』
あれはいつのことだったか。
ものすごく昔だった気もするし、ほんの最近のようにも感じる。
入力を終えた区切りでガトーショコラをかじる。
甘みを抑えた密度の濃いひと口はずしりと存在感があった。
◇
タイムカードの印字を指さして「よし」と声を出したあとシャープペンで日付に丸をする。
事務所のドアを閉めて階段を降りる。
歩道に出たら一連の動作のようにスマホを取り出してメッセージアプリを開く。
あ、と思わず小さい声が漏れた。
即座にロックをかけて携帯をかばんに突っ込む。
入っていた……中身が。
にわかに、喉の奥が渇いて胸がはらはらする。
いや、落ち着け……姿勢を正して早足で大通り沿いを歩く。
四つ角の信号で止まって、銀行の壁に寄って立ちながら携帯を取り出した。
メッセージは4件。
『校外学習でなんか有名な図書館きた』
『暑い』
『今度どこか遊びに行こうよ』
残りのひとつは画像だった。
送信時間は昼過ぎ。
太陽を浴びて光る木枠の大きな窓に板張りの廊下、図書館というよりは昔の小学校のように見える。
外壁に新たに這わせたのか、ツタ状の植物がやけに青々しくて、そこだけ全体の雰囲気から少し浮いていた。
周りの空気が動き出すのを感じて顔を上げると、信号が青に変わっていた。
もう一歩壁に近づいて青信号をやり過ごす。
強い西日が頬をさす。
こんなのは一過性のものだ。
放っておけばそのうち薄れて……若気の至りだとかなんとか、いずれ笑い話になるんだろう。
20歳の女子大生だったら、それが許される。
『土曜日、昼間なら』
送信ボタンを押してスマホをしまうと、私は再び青になった信号を渡った。




