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第2話 おもちゃ箱

 汗ばんだ胸元にブラウスがじっとりとはりつく。

休日のマンション、日はすでに高く、夜を引きずったような服はやけに場違いに感じる。


 そっと玄関ドアを開けたら、クーラーの冷気と共に揃えられた革靴が目に入った。


 ごくりとつばを飲み込む。

向こうはもう帰っているのか。


「ただいま」


 さりげなさを装ってリビングに入ると、もぞ……とソファで大きい影が起き上がった。


「あ、ああ……おかえり」


 読んでいた漫画雑誌をローテーブルの上に置いて、旦那はこちらを見た。


 視線だけが静かに交差する。


 唇をきゅっと結ぶ。

いつも、旦那の前で私はどんな顔をしていただろうか。


 迷いを表すように旦那の目が揺らぐ。

昨夜から今まで、私の辿ったみちを問いただすか、それとも謝罪するべきなのか、判断がつかないのだろう。


「ごめん」


 旦那は、おそらくは玄関ドアを開ける前に用意してたであろう台詞を言った。


 私は逃げ場を探すようにキッチンを見る。

シンクの上に置きっぱなしのスープカップとプレートを見つけた。


「あ……パン、食べた」


 後頭部にばつの悪そうな声が聞こえる。


「お腹空いて、その……いつ帰ってくるかわからなかったから」


「ああ、いいわよ」


 ブラウスの袖をまくるとシンクのレバーを上げる。

なんでもいい、この部屋に音を入れたかった。


「私は食べてきたから」


 今まで私はどんな声で旦那と話していたんだろう。

どんな目で旦那を見ていたんだろう。


 思い出せない。


 過剰に洗剤を含んだスポンジで、シンクは泡だらけになる。


 どうしよう。


 ひと晩の宿代が、ずいぶん高くついた。



◇



 蛇口をひねると、頭上から冷水が降り注いだ。

水道管にたまっていた水に引き締められた肌は、温水に変わったシャワーで再びゆるんでいく。


 髪を濡らしたらポンプを2回プッシュしてシャンプーを泡立てる。


 シャンプーはまだ残ってるけど、コンディショナーがだいぶ少なくなった。

無くなる前に詰め替え用を買っておかないと。


『好きなの』


 目を閉じた瞬間、美羽の薄い唇がよみがえって全身がざわつく。


 いったい何なんだ。

ため息をついて髪を洗い流す。


 あのおもちゃ箱みたいな部屋のにおいはこれで消えたはずだ。

それなのに、私は旦那の前でどう振る舞えばいいのかわからない。


 シャワーヘッドをホルダーに戻して、再び大きく息を吐く。


 原因は、旦那以外の人間に裸を見せたことでも、キスをしたことでもない。

相手が女か男かなんてそれこそどうでもいい。


『また、会える?』


 あのときだ……ほんの少し触れただけの、風みたいなキス。


『好きなの』


 揺さぶられてしまったのだ。私の中心が。



◇



 たっぷりと化粧水を肌になじませながら鏡の中の自分を見つめる。

少し日に焼けたか、頬が赤い。


 余った化粧水を肘にすり込むと、髪を拭きながら引き出しを開ける。


 結婚して2年とちょっと、旦那とはそれなりにうまくやってきた。

もともと穏やかな人で、小さないさかいはあってもこれまで大きなトラブルもなかった。


 引き出しから下着とTシャツ、サッカー生地のハーフパンツを取り出す。


 旦那が深酒と朝帰りを繰り返すようになったのはここ数ヶ月のこと。

浮気などできる人ではないのは知っているし、はじめの一回は怒りよりも心配で仕方がなかった。


『朝帰りはやめてほしい。あなたのことが心配だし、それに夜ひとりでいるのは寂しくて』


 そう言ったとき、旦那は申し訳なさそうに「ごめん」と頭を下げた。


 しかし、それからも旦那の深酒が治まることはなかった。

私が泣いても、怒っても、無視しても、いつも「ごめん」のひと言で済まされてしまう。


 離婚だなんだと騒ぎたてるようなことではない。

でも、旦那の帰ってこない夜をひとりで過ごすのは気が変になりそうなくらい嫌だった。


『終電逃しそう』


 昨夜、定型文のようになったメッセージを見たとき、それまであった怒りやら悲しみやらの感情がすっと引いた。


 気づいたときにはもう身支度もそこそこに、夜の街へと飛び出していた。


 ハーフパンツに脚を通そうとして、ふと思いなおす。


 いや、こっちだな。


 私はハーフパンツを引き出しに戻して、綿地のショートパンツをはいた。



◇



 リビングに戻ると、旦那は開いた漫画をローテーブルに置いたままスマホをいじっていた。

私は無言でソファの横に座る。


 目線はスマホに置きながら、旦那がこちらの気配をうかがうのがわかる。


「昨日ね、私も飲みに出たの」


 旦那は戸惑ったように「うん」と小さく言った。

開きっぱなしの紙面は野球漫画だろうか、見開きでバットを振りぬいた後ろ姿が描かれている。


「それでね、すごく若い女の子……大学生だって、なんか気が合ってさ、飲んでるうちに流れで泊めてもらったんだ」


 嘘は言っていない。


「そうか」


 旦那はそれだけ言うと、スマホをテーブルに置いてこちらを向いた。

顔の角度をわずかに変えて、私も旦那を見る。


 旦那は軽く息を吐いて、こちらへ手を伸ばす。


 指先が耳の後ろ、髪の毛に優しく差し込まれる。

見えないスイッチを押されたように、全身に甘い波が広がって力が抜ける。


 目を閉じると、ほんのわずか……焦らすような一拍のあと、柔らかく唇が重ねられた。


 視覚を封印した体が、ゆるやかな欲望を受けとる。


 下唇だけに与えられるキスは、その先があるサイン。

いつものように唇を緩めて旦那の首に手を回す。


 旦那とのセックスはひとことで言えば安心だ。


 嫌なことをしない。


 痛いことをしない。


 ちゃんと、気持ちいい。


 間違えることなく必要な道だけを通ってゴールへと昇り詰める。

まるで、クリアした後のダンジョンを辿っているようだ。


 いつものように汗ばむ肩を握りしめながら、背中をそらせて叫び声を上げる。


 危険はない、道に迷うこともない。


 そして、新しい発見もない。



◇



 ソファにいたはずなのに、目が覚めたのはベッドだった。


 窓の外は夕暮れになっていて、引き戸を挟んだリビングからは野球中継の音が聞こえてくる。


 引き戸を開けて、ソファでテレビを見ている旦那に声をかける。


「お腹すいてない?」


「すいたー」


 甘えるような旦那の横を通って冷蔵庫を開ける。

使いさしの野菜と豚こま肉が少し。


 大したものは作れないけど、できれば外出せずに済ませたい。


「焼きそばでいい?」


 冷蔵庫をのぞきながら言うと、後ろから「焼きそばだいすき」と声が聞こえた。


 キャベツともやしをキッチンに出して、ふとスマホをつける。


 瞬間、ぎゅっと心臓をつかまれた気がした。


『ちゃんと帰れた?』


 ロック画面に浮かび上がったのは、美羽からのメッセージだった。

そうだ……確か、動画を見ているときに連絡先を交換した。


 ちらりとソファに目をやる。

試合が盛り上がっているのか、旦那は食い入るようにテレビを見ている。


 再びスマホに意識を向ける。


 別に後ろめたいことなんてない。

朝ごはんを食べて、少し話して、一緒に動画を見ただけ。


 あのキスは事故みたいなものだ。


 連絡先は削除して、全部なかったことにすればいい。

どうせ失恋したばっかりの若い女、感情が混線しているだけだ。


「どうした?」


 旦那の声が聞こえて我にかえる。


「えっと、ソースと塩どっちがいい?」


「ソース」


「わかった」


 私はメッセージの通知をオフにすると、スマホをテーブルに置いた。

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