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第1話 実況プレイ

 あれ……いま、何時?


 ぼんやりした頭で枕もとを探る。

小型の電子機器の感触の代わりに、ぴしりと細い痛みが走った。


 身体の不調を拾うのは、いつも右の手首だ。


 ゆっくりと手首を戻す。

とにかく、ここにスマホはないらしい。


 リビングに置きっぱなしだったか……まあいいや、とりあえず洗濯機まわさなきゃ。


 起きあがろうとして、世界が揺れる。

まるで見えない生き物に押さえつけられるように、私はベッドに押し戻された。


 なんだろう……体が重い。


 寝っ転がったまま薄く目をひらく。

ぼんやりと、世界が輪郭を結んでいく。


 浮かび上がってきたのは、白い壁にブルーグレーのベッドカバー。


 視界を強制シャットアウトするように目を閉じる。


 待て。


 待て待て待て。


 目を閉じたまま胸に手を当てて、ふぅーっと長く息を吐き出す。


 おそるおそる、再び目をひらく。

依然として、ブルーグレーのそっけない現実がそこにある。


 ちらりとベッドサイドに目をやる。

ふたり掛けのソファと……おもちゃみたいなローテーブルの上には、デスクトップパソコンが置かれている。


 知らない、なんだこの部屋は。


 いや、落ち着け。

ひとまず状況を整理しないと。


 いまだはっきりしない頭で、必死に昨夜の記憶をたぐり寄せる。


 ひとり、閉じ込められた孤独の城。

部屋中に充満した静寂に耐えられなくなって、夜の街に飛び出して。


 光に吸い寄せられるようにクラブへ入った。


 はじめはジュースと変わらないような甘い酒。

全然酔えなくて、テキーラに切り替えて。


 あの夜が、どうやってこの見知らぬ部屋につながったのか。


 だめだ、思い出せない。


 それに……考えないようにしてたけど、さっきからお腹の辺りが心もとない。

シーツと肌が妙に近いというか、あるはずの布がないというか。


 いやな予感がする。

ゆっくりと、シーツをめくる。


 ああ、やっぱり。

シーツの下の肌色に絶望が覆い被さってくる。


 ブルーグレーの薄布の下、私は気だるい倦怠感のほかは何ひとつ身につけていなかった。


 そのとき、部屋のドアが開いた。

反射的にシーツを胸元まで引きあげる。


「あ、起きてる」


 のんきな声とともに、部屋に入ってきたのは女性だった。


 肩のところで切り揃えたショートカットの黒髪に、上下セットのルームウェア。

まだ若い、もしかしたら学生かもしれない。


「飲む?」


 彼女はひょいとペットボトルの水を差し出した。


 私はシーツに縮こまったまま、ただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。


 あなたはだれ?


 ここはどこ?


 私は、どうしてここにいるの?


 ベッドの上で固まる私としばらく視線を交わしたあと、彼女はふっと笑った。


「大丈夫、なにもしてないから」



◇



「なにも……してない?」


 口に出してしまってから、ことばの意味を理解する。


 なにを言ってるんだ、しっかりしろ。

そもそも女同士でいったい何をするというのか。


 いや、でも……それなら。

きゅっと胸元のシーツを握りしめる。


「あの、服は?」


「脱がせた」


 彼女はこともなげに言った。


 さっと背中に緊張が走る。

やはり、意識のない私を裸にしたのは彼女なのだ。


「と言っても、ブラウスとスカートだけ。苦しそうだったから」


 昨夜の労を思い出したように彼女は息をついた。

胸がぎくりとする。


「あとは自分で脱いでたよ」


「ああ」


 思わず両手で顔を覆う。


「覚えてないの?」


 顔を隠したまま私は頷いた。

何ひとつ覚えてはいない……でも、やらないとは言い切れない。


「昨日、すごい飲み方だったもん。危なっかしいって言うか……結構、みんな狙ってたと思う」


 腹の奥から、恐怖にも似た羞恥が湧き上がってくる。

記憶から抜け落ちた昨夜の私を、彼女は知っているのだ。


「お姉さんかわいいし」


 淡々としていながら、彼女の口調はどこか楽しげだった。


「だから私が一番乗り、お持ち帰りしちゃった」


 ため息が出る。

まるで昨夜の失態がのしかかっているみたいに、頭が重い。


 いい年して、自分の許容量を越えて飲んだ挙句、こんなに若い子の世話になって。

いったい何をやっているんだ。


「どうする? 服、着る?」


 のんびりと話す彼女に、私は力なく頷いた。



◇



 彼女が畳んでおいてくれたらしい。

服には目立ったシワも汚れもなくてひとまず安心した。


 薄手のブラウスに袖を通すと、まっさらだった体に社会の輪郭が戻ってくる。


「私、美羽(みう)っていうの」


 着替える私の横、ベッドに腰掛けながら彼女、美羽は簡単に自己紹介をした。

近所の女子大に通う、2年生だという。


 若い……仮に20歳だとして、私より8つ下になる。


「お姉さんは? 名前、教えてよ」


「ショコラ」


 美羽は2度まばたきをしたあと、表情を変えずに言った。


「で、本名は?」


 私は小さく息を吐いた。

このやりとりは慣れている。


「かばん、ある?」


 美羽から受け取ったかばんを探って財布を取り出す。


「本名よ、ほら」


 免許証の裏面を向けて美羽に渡す。

『新氏名:上田ショコラ』の文字と共に赤印が押してある。


 美羽はしばらく無言で免許証を眺めていたが、小さくつぶやいた。


「結婚……してるんだ」


 この瞬間、静かにラベルが貼られたのを感じる。


 美羽はすっと顔を上げて私を見た。


「どうして隠してたの?」


「別に隠してないけど」


「だってショコラ、指輪してなかった」


 やはり学生だ、世界が狭い。

美羽の中では既婚者たるもの、いついかなる時でも結婚指輪をはめていなければいけないらしい。


「締めつける感じが苦手で普段はつけてないの。隠してるわけじゃないわ」


 実際、旦那と出かける時や仕事の会食ではつけている。


「もういいでしょ、返してよ」


 表面をちらりと見てから、美羽は免許証をこちらに手渡した。


 そのとき、廊下で電子音がなった。


「あ、炊けた」


 美羽は廊下に目をやると、こちらに向き直って笑った。


「お腹空いてない? 朝ごはん作るから一緒に食べよう」



◇



 ソファはいかにも安物らしく、腰掛けるとスプリングがわずかに軋んだ。


「ありあわせだから、具は入ってないけど」


 美羽はそう言ってオムライスとインスタントのコンソメスープをローテーブルの上に並べた。

窓からの自然光のみで照らされた部屋、スープからは薄く湯気が上がっている。


 揃いの皿と、スープカップか。

一人暮らしだと思っていたけど、もしかしたら出入りする人間がいるのかもしれない。


「いただきます」


 半熟の卵はスプーンを入れると、とろりと柔らかくご飯に絡んだ。

ケチャップだけのシンプルな味付けは、昨夜から酷使しきりだった胃に優しく沁み込んでいく。


 人から作ってもらった料理を食べるなんていつぶりだろうか。


「おいしい」


 小さくつぶやくと、美羽は照れくさそうな顔で笑った。


「そう言ってもらえると、嬉しい」


 食後、美羽は紅茶まで淹れてくれた。


「ティーバッグだけど、一応アールグレイ」


 大きめのマグカップの中、お湯が紅に染まっていく。

ふわりと爽やかな香りがたちのぼってきた。


 私は、いったい何をしているんだろう。


 帰らなければいけないのはわかっているけど、なんの責任もないこの空間は妙に居心地がよかった。


「ねえ、ショコラ」


 カップに入れたティーバッグを揺らしながら美羽が言った。


「結婚って、幸せ?」


 いきなり何を言い出すのか。


「幸せも不幸せもないわ、生活よ、ただの」


 私の答えに美羽は少し考えるように黙りこんでから、首を傾げた。


「そうなの?」


「そう」


 私は紅茶をひと口飲む。

じわりと、食道を通って体が温められていく。


 小さく息を吐く。


「それ自体はただの状態だもん。大学生活だって、それが幸せとかじゃなくて、いいことも悪いこともあるでしょう?」


 ただし、結婚していることで守られている部分はかなりある。

言ったところで理解はできないだろうが。


 美羽は不思議そうな顔をしていたが、つぶやくように言った。


「そうなのかあ」


 マグカップを両手で包みながら、美羽は口を開いた。


「あの……私、春まで彼氏がいたの」


 美羽はじっと紅い水面を見つめている。


「でも、別れちゃって」


 ああ、なるほど。


 この若い女が、どうして10近くも年上の見知らぬ女を家に連れ帰ったのか、ようやく合点がいった。


 揃えた食器に、2人がけのソファ。

そして、明るい季節にもたらされた別れ。


 なんてことはない、美羽は答え合わせがしたかったんだ。


 自分の中に凝った整理のつかない感情。

それを、知らない言葉で出力してくれる、そんな無責任な相手が欲しかったのだ。


 いわば掃除の手伝いだ。

一晩の宿代くらいにはなるだろう。


 私はマグカップの取手に巻きつけられたティーバッグの持ち手を眺めながら言った。


「どんな人だったの?」


 日が高くなるにつれて、部屋の中は薄暗くなっていく。

窓の外、道路を車が通り過ぎていった。


「サークルの先輩だったの」


 美羽はうつむきがちに話し始めた。

 

「サッカーなんだけど、そこまで真面目なのじゃなくて……垓大の学生と、この辺りの女子大の子で構成されてるやつ。練習より飲み会の方が多いような」


 私は思わず美羽を見た。


 その手のサークルは私の学生時代にもあった。

有名大学の学生と仲良くなりたい女の子が入る、非常に実利的なサークルだ。


 それ自体はよくできた仕組みだと思うが、美羽がその世界に所属していたのは少し意外だった。


「女子大だから、ほら……彼氏ほしくて」


 私の視線をどういうふうに受け取ったのか、美羽はわずかに声を曇らせた。


 若い男女が集まれば恋のひとつも生まれるものだ。

美羽はひとつ年上の男子学生と親しくなった。


「別にイケメンってわけじゃないんだけど、優しくて、私が建築好きって言ったら彼も興味を持ってくれて、一緒に有名な建物見に行ったりして」


 相手の言葉で話せる男は強い。

手っ取り早く『わかってくれてる感』を出せるから。


 あとは余計なことを言わなければいいだけだ。


「でもね、春になって新入生が入ってきたら、あっさりふられちゃった。ほかに好きな人ができたって」


 明るく言おうとしたのだろう。

美羽の声はうわずっていて、それがかえって胸に刺さった。


「相手はサークルの新入生で、違う学校だけど、やっぱり女子大の子」


 いまでは山歩きが趣味という彼女につきあって、週末ごとに近郊の山に出かけているらしい。


 お見事。

顔も知らない男子学生に心の中で称賛を送る。

彼は美羽という女を攻略し、次へと向かったわけだ。


「それで結局気まずくなってサークルも辞めちゃって……なんていうのかなあ、もし、そのサークルじゃなくて、それこそ学内で部活でもしてたら、今頃はもっと違ったのかなって思うと、やりきれなくて」


 そこで、美羽の言葉は止まった。

泣かれたら厄介だと思ったけど、その様子はなさそうだったのでひとまずほっとする。


 私は両腕で膝を抱え込むと、口を開いた。


「美羽……は、その人といて、楽しかった?」


 美羽は静かな目でしばらく宙を見ていたが、やがて小さくうなずいた。


「じゃあ、それで十分なんじゃない?」


 人と人との関係なんて、なんの方向性もない、ただの偶然と衝動の連続だ。

それなのに、人はそこに意味を見出そうとする。


 人の気持ちなんていう、あいまいでうつろいやすいものに答えを定めようとするのだ。


 だから、おかしくなる。


「今がどうだって、その楽しかった時間がなくなるわけじゃないでしょう?」


 恋愛でいえば、わかりやすい『正答』は結婚だろうか。

しかし、それは決して勝利ではない。


「別に、私がそう思うってだけだけど」


 私はゆっくりとカップを傾ける。


 美羽は納得するかどうか決めかねるような顔でこちらを見ていた。



◇



「なんか暗い話しちゃってごめん、音楽でもかけようか」


 美羽はそう言ってキーボードのエンターキーを押した。

パソコンは切られているものと思っていたが、スリープにしていただけらしい。


 ちょうどいい、会話も途切れたし、帰ろう。


「じゃあ、そろそろ……」


 立ちあがろうとして、私はパソコンの画面にくぎづけになった。


 映し出されたのは大手の動画投稿サイト。

見慣れたアイコンに目が吸い寄せられる。


「インスタントさんの更新きてるじゃん!」


「え! ショコラ、インスタントさん知ってるの?」


 美羽が驚いた声を上げる。


「知ってるもなにも、ドキドキ動画の時からずっと見てる。うわ、ジャグ浪2の更新、1時間前だ」


 動画のサムネイルには、ゲーム画面のキャプチャに『どうしてこうなった』と文字がかぶせてある。


 インスタントさんとは、有名なゲーム実況者のことだ。

『ジャグ浪2』はインスタントさんの人気シリーズ『ジャグラー放浪記2』の通称でひょんなことからジャグラーの世界に足を踏み入れた主人公が伝説のスロプロを目指しながら知らず知らずのうちに陰謀に巻き込まれていく笑いあり涙ありの感動超大作ロールプレイングゲームだ。


「嬉しい! 一緒に見よう」


 美羽が再生ボタンをクリックすると、短い広告が流れて、動画が再生された。


『ちわーっす、インスタントです』


 動画に合わせて「ちわーっす」と言った瞬間、美羽が驚愕の表情でこちらを見た。


『そんじゃ、ジャグラー放浪記2、始めていきましょう。今日も可愛い女の子たちを攻略しつつ、伝説のスロプロを目指しましょう』



◇



「ゲヒェヒャハハハハ!」


 息が苦しい。

酸素をもとめて開いた口はその役割を果たさず、唇を震わせながら短い息を繰り返す。


「はっ、マジで、神回……地面を、舐め、舐めて誤魔化すはやばい」


 切れ切れに言葉を発すると、またお腹の底から笑いが湧き上がってきて、私は身をよじる。


「キ、キスの、グフッ、キスの練習は卑怯……あんなの、もう笑うしかないじゃん」


 美羽は体にこもった熱を逃すように脚をバタバタさせていた。

はだけたルームウェアの裾、ひざと腿の境目にうっすらと日焼けの跡が見えた。


 胸を押さえて息を整えると、私はマグカップの底でぬるくなっていた紅茶を飲み干した。

口に水分を含んだ途端にさっきの笑いがぶり返して少しむせる。


 吹き出しそうなのをどうにかこらえて手の甲で口の端を拭うと、私は美羽に向き直った。


「いろいろありがとう、私そろそろ帰るね」


「えっ」


 美羽の顔から笑いが引いた。


「帰っちゃうの?」


 美羽はすがるような目で私を見上げた。


 声の中に、甘えの使い方を知った女の媚を感じて少しイラッとする。


「そりゃ、帰るわよ」


 この全てが未完成な、ままごとみたいな部屋は確かに魅力的だ。

でも、ずっとここにいるわけにはいかない。


「ショコラ、あの、待って」


 遠慮がちに両腕を伸ばして美羽は私の肩に触れた。


「ごめん、ちょっとだけ、待って」


 雲が陽を隠したのか、部屋の中が一段暗くなる。


 小さいな。

美羽は私より背が高かったが、なぜかそう感じた。


「ショコラ、あの」


 肩をつかんだ手は小刻みに震えていた。


「また、会える?」


 美羽の瞳が熱っぽく潤む。


 あ……これ、あれだ、あの感覚。

さっと、左まぶたと頬の間の皮膚が敏感に熱を感じとる。


 …………かかった。


 人の内に、秩序もなく散らばっていた欲望が、一斉にこちらを向く瞬間。


 何もつけていない、素のままの美羽の唇は薄いピンク色で、かすかな光沢をはなっている。


 ごくりと、つばを飲み込む。


 この女……私に欲情してる。


「好きなの」


 発せられた言葉の残響が消える前に、唇が触れた。

作品を開いてくださってありがとうございます。

最後までお付き合い頂けたらとても嬉しいです。

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