プロローグ
私、なんでこんなところにいるんだろ。
スプモーニが中途半端に残ったプラカップを握ったまま、私は立ち尽くしていた。
耳がおかしくなりそうな爆音、激しく点滅する閃光の中、ひしめきあった人々は一心に体をくねらせている。
悲鳴のような笑い声をあげて、うしろから女の子がぶつかってきた。
うわあ、危ない。
飲み物をこぼさないよう必死で踏ん張ったら今度は足を踏まれた。
マジで来るんじゃなかった。
本日何度目かのため息は、爆音と煙の中に溶けていった。
発端は昼間。
講義の合間の休憩時間のことだった。
「クラブ?」
あまりにも縁のない言葉に思わず聞き返した。
「うん、知り合いがイベントやるから、美羽も来たらいいんじゃないかと思って」
彼女は笑顔でスマホの画面を差し出す。
「ぱーっと騒いで盛り上がっちゃえばさ、きっと気分も変わるよ」
気分が変わる……かあ。
確かにここ最近の梅雨空のような晴れきらない気分は自分でもうっとうしくて、変えられるもんなら私だってどうにかしたい。
少し前、私は彼氏と別れた。
インカレサークルの先輩で、付き合い始めたのが去年の夏。
もうすぐ一年だなあなんて考えてたときに別れを切り出された。
『好きな人ができた』
その好きな人ってのがサークルの新入生で、別れたあと彼は速攻で口説きにかかり、とんとん拍子に交際が始まったころ、私はサークルを辞めた。
「一般だと3000円だけど、招待だから500円引で2500円」
慣れた口調でイベントの内容を説明しているのは、同じ学部の子だ。
彼女とは製図実習の班が同じでたまに話すくらいの仲だったけど、私が彼氏と別れた話をしたら突如としてプレゼンが始まった。
私は差し出されたスマホの画面を見る。
スタイリッシュというかなんというか、エナジードリンクの缶みたいなデザインのフライヤーは、アルファベットが多くて何が書いてあるのかよくわからない。
わかるのは2500円が必要ということくらい。
決して安い金額じゃない……1週間分の食費だ。
でも、誘ってもらえたのは嬉しかった。
入学して早々に学外のサークルに入った私にとって、大学の人間関係は希薄だった。
あと、所属してたのが『チャラいやつ』だったからか、他の学生から線を引かれてるのもなんとなく感じてた。
よくやるよね、私には無理っていうあの感じ。
一回だけ、直接言われたこともある。
「そこまでして彼氏ってほしいもの?」
サークルの飲みがある日で、トイレのパウダールームで化粧を直してたときに横から急に。
同じ学部で顔は知ってたけど、一度も話したことのない子だったからすごくびっくりした。
都会は人が多いから、田舎と違って他人が何してるかなんて気にしないって思ってたのは、どうやら間違いだったらしい。
そんな感じで、大学の子と仲良くなるのは半ば諦めてたところがあった。
だから、こんなふうに元気づけてもらえると思ってなくて、荒んでいた心に優しさが沁みた。
「行ってみようかな」
私が言うと、彼女は嬉しそうに笑った。
「そうこなくっちゃ」
それが確か12時間くらい前。
逃げ場もなく降り注ぐストロボの点滅に目眩がする。
友達はフロアに入るやいなや、「じゃ、私ちょっと絡んでくる」と謎の用語を残してどこかに消えた。
生まれかけた友情がすごい勢いでしぼんでいくのを感じる。
とりあえず、もうちょっと端の方に行こう。
スニーカーは安物だけどお気に入りだ。
また踏まれたらたまらない。
「俺のこと、どう思う?」
どうも思わねえよ。
「楽しんでる?」
見ればわかんだろ。
2秒に一回エンカウントするナンパをかわし、ぶつかり、ぶつかられながら、壁際までたどり着いたときにはもう体力は尽きかけていた。
回復アイテムは、氷が溶けきって薄くなったスプモーニだけだ。
カップに口をつけて、フロアを見る。
お腹の底まで響くような爆音の中、思い思いに体を揺らす人たちはみんな笑っている。
音楽に乗って、強い光に高揚して、お酒に酔って、たまたま隣り合った人と軽い会話をして。
きっと、ここはそういう場所なんだ。
そうやって楽しむんだ。
回復するはずが、ほとんど水みたいになった液体は急激に体を冷やしていく。
もう、帰ろうかな。
天井にたまる煙を見ていたとき、声が聞こえた。
「テキーラ」
場の興奮に似合わない、妙に冷めた声だった。
見ると、バーカウンターの端で女の人がショットグラスをあおっていた。
薄手のブラウスにタイトスカート。
学生って感じじゃない、社会人かな。
ひと息で飲み干すと、彼女は机にグラスを置いた。
「テキーラ」
息をつく間もなく置かれた酒を、彼女はすっと飲み干す。
「テキーラ」
よく見ると、カウンターの上にはショットグラスが残骸みたいに並んでいた。
ひとつ千円として……いや、そうじゃない。
淡々とショットグラスを空にする彼女を眺める。
私はいわゆる飲みサーという集団に所属していた。
調子に乗って無茶な飲み方をする人は沢山見てきた。
彼女はそういうのとは違った。
なんというか、すごく切実な目をしていた。
まるで何かから逃げてるみたいに。
「アレ、いけんじゃね?」
すぐ横で男の人の声がした。
おそらく、彼女を見ている。
「すげえ飲み方、失恋したばっかりとかかな」
「美味しいじゃん、俺らで慰めてやろうぜ」
あまりにも下卑た会話に胸が悪くなった。
今まで自分がいた世界の健全さを思う。
別に、上品なサークルだったわけじゃない。
騒いで迷惑をかける人もいたし、加減を知らずに飲んで吐いた人の後始末なんて日常茶飯事だった。
『ヤリサー』とか『出会い系』とか嫌なふうに言われてるのも知ってた。
でも、女性のことを「アレ」なんて言う人はいなかった。
無遠慮な視線に晒されながら、彼女は水も飲まずにグラスをあおり続ける。
「もうちょっと温まったら、いこうぜ」
横からは笑いを含んだ声が聞こえる。
『今日はありがとう、先に帰るね』
短いメッセージを打つと、私は彼女に向かって歩いていた。
テキーラは脚にくる。
あの感じだと、あと1、2杯で……
グラスを置いた瞬間、ぐらりと彼女の体勢が傾いた。
「大丈夫?」
抱きとめるように、彼女を両手で支える。
彼女は驚いたように身を起こそうとしたが、力が入らないのか、私にもたれかかる形で体を預けた。
どうか、吐かれませんように……心の中で小さく祈りを捧げる。
「今日はもう終わりにしてさ、帰ろう?」
私の言葉に彼女は首を振った。
「嫌だ」
私の胸もと、うつむいた彼女から弱々しい声が聞こえてくる。
「帰りたくない」
聞き分けのない態度に少しイラっとする。
ひとりじゃまっすぐ立つこともできないくせに。
このままここで、失恋した女性を「美味しい」なんて言うような奴らのおもちゃになった方がいいのか。
「だって、家に帰ってもひとりぼっちだもん」
だもん、じゃねえよ、いくつだ。
私は彼女の目をまっすぐに見た。
「大丈夫、ひとりじゃないから」
肩をつかんでいた手をそっと下ろして、彼女の手を握る。
「うちにおいで」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回が最終話です。




