エピローグ
『ちゃんと帰れた?』
送ったメッセージには既読がついただけ。
返信はなかった。
あんなに深い時間を共にした後なのに薄情だとは思ったけど、そっけないのはいつものことだし、それに、ショコラが私を好きなのはもう理屈じゃなくて体で理解していた。
だから、そのときは大して気にしてなかった。
ちょっと変だなって思ったのは3日くらいしてから。
お母さんの買い物に付き合って市内に出た時だった。
この前撮ったレストランの写真をプリントしたかったし、あわよくばトレーシングペーパーと製図用シャーペンを買ってもらおうという下心もあったし、なによりも懐かしさ以上のコンテンツがない実家は退屈で仕方がなかった。
お母さんの運転する車でぼーっと景色見てたら、早く免許取らないとなって思って、そしたら今度ショコラが来たときは車でいろいろ連れてってあげられるのにって、でもショコラってどういう所が好きなんだろ……この辺りだったら温泉か一応国宝の寺とかもあるけど、興味あるかな、なさそうだよな。
やっぱりケーキ系がいちばん喜ぶのかな、でもそんなの都会にいくらでもあるしなあとか、すごいのんきなことを考えてた。
その帰り、新しくできたというカフェでお茶をした。
ショッピングモールの一角だけど、白とワインレッドで統一された店内はクラシカルでなかなか素敵だった。
ただ、シャンデリアがラブホテルと同じやつだったから笑いそうになって、そのあとちょっと切ない気分になった。
そこで黒い森っていうケーキを頼んだ。
初めて見る、スポンジの上に鰹節みたいに薄く削ったチョコレートとさくらんぼが乗ってるやつ。
ケーキをスマホで撮って、ショコラにメッセージを送った。
『これ知ってる?』
『黒い森っていうらしい』
『田舎ひまー』
黒い森をひと口食べて固まった。
なんていうのか……素材の味で勝負しすぎっていうか、さくらんぼは酸っぱいし、チョコレートもビターな感じで全然甘くなくてむしろ苦いし、スポンジは香りのきつい洋酒がしみこませてあってなんかべちゃべちゃしてた。
つまり、全然おいしくなかった。
でも、それは私の舌のレベルが低いだけで、普段から高級なケーキとかいろいろ食べてるひとだったらこれのおいしさもわかるのかもしれない。
ちらりとメッセージアプリを見る。
さすがにまだ既読はついてないか。仕事中だしな。
「なにをニヤニヤしとるん?」
お母さんに言われてあわててスマホをしまう。
「別に、ニヤニヤしてないし」
「あやしい」と笑うお母さんを適当にごまかして話題を変える。
ショコラとの関係を定義する言葉を私は知らない。
あとでお母さんが注文した煮リンゴの入ったチーズケーキをひと口もらったけど、そっちは普通に美味しかった。
カフェを出る時、もう一度メッセージを見たけど、やっぱり既読はついてなかった。
家に戻ってからもメッセージが気になって、雲形定規まで買ってもらったのに製図の練習は全然はかどらなかった。
まだ既読はつかない。
次の日になっても、3日たっても、黒い森に既読がつくことはなかった。
既読のつかない画面を眺め続けること1週間、ようやく私も理解した。
もう、ショコラに私のメッセージが届くことはない。
知らない間に、扉の向こう側はコンクリートで埋められていた。
◇
坂道をひたすら歩いた先、小高い丘の上にその建物はあった。
大正時代に建てられたという洋館、石張りの豪奢な外壁は圧巻だ。
外観を3枚ほどカメラに収めてから、入口をくぐる。
入館料の千円を払って、建物の写真が印刷された半券を受け取る。
順路の矢印に沿って階段を上がり、いかにも邸宅というような、木と石で飾られた応接間をスマホで撮っていく。
前に来たときもそうだったけど、見学客は私しかいないみたいで、写り込みを気にせずに写真を撮れるのはありがたい。
階段を上がって3階に出ると和室が現れる。
開け放された襖の奥、木漏れ日が揺れる窓辺を写真に収める。
さっきまでの堅い空間とはうってかわって、畳の部屋は生活を感じさせる。
いいよな、ここ。
ずっといられる気がする。
有名建築っていうよりかは、妙に落ち着くような……たとえばあの部屋の隅で、畳に寝っ転がって動画とか見てるうちにうたた寝しちゃったり。
『そんな大きい家、誰が掃除するのよ』
なんの予告もなく、心の芯に強烈な一撃が打ち込まれる。
蒸し暑い日、欲望そのものみたいな建物の中で、紙袋の上に引いた幻の城。
あのとき、ショコラは私と別れることを決めてたんだろうか。
ショコラとの記憶は、いつまでも私を逃がしてはくれない。
容赦なくあふれる思い出が傷口を押し広げていく。
初めて会ったのは真夜中のクラブ。
酔っ払って「帰りたくない」って子どもみたいに駄々こねて、挙句に人のベッドで服を脱ぎ散らかしたくせに、目を覚ました途端やけに達観して「幸せも不幸せもないわ」とか言い出すし、かと思ったら動画を見てバカ笑いして。
なにがなんだかわからないうちに、一緒に笑ってる自分に気づいた。
それで、好きになっちゃった。
単純すぎて自分でも笑えるんだけど、笑ってばかりもいられない。
ショコラは既婚者だ。
あまり踏み込んじゃいけないのかと思っていたら、わりとショコラも乗ってきた。
最初はかまってもらえるのが嬉しくて舞い上がってたんだけど、だんだん嬉しいだけじゃ済まないことにも気づいてきた。
決定的だったのがあのライブ配信の日。
私はもう完全に浮かれてて、隅々まで部屋を掃除して、カレーを作って、缶チューハイだけどお酒も少し用意して、ケーキなんて遅い時間だと売り切れるって聞いてたからわざわざ昼休みに予約しに行ったのに別に講義終わってからでも普通に売ってたし。
でも、ショコラはそんなものは求めてなかった。
カレーも、ケーキも、ライブ配信も、全部どうでもいいって感じで一直線に私に触れてきた。
『こういうことがしたくて呼んだんでしょ?』
嫌だって言ってもやめてくれなかった。
執拗な指先に、私はまるで人格なんてなかったみたいにもてあそばれて、涙を流しながら何度も悲鳴をあげた。
夜半に目が覚めたときショコラはいなくて、裸のままベッドに取り残されていた。
みじめすぎて泣いた。
そのあとの試験も全然集中できなくて、多分構造力学は落とした。
このままじゃ設計のゼミに入れなくなる……まあそこはショコラとは関係ないけど。
私から連絡しなければショコラからは来ない。
もう、終わりにしたほうがいいのかもしれない。
でも会いたい。
ぐちゃぐちゃな気分のまま夏休みになった。
地元の友達と遊んだときにノリで行ったひまわり畑。
「ガッカリ観光地!」とか言って笑ってたけど、青空とひまわりを見てたらなんだかショコラにも見せたいなって思って、スマホで写真を撮って送った。
そしたら、その日のうちに来た。
本人が、いくつも県境を越えて。
もちろん、嬉しかった。
すごく嬉しかった。
でも、同時にちょっと怖かった。
いったい私のどこに、そんな引力があったのか。
それから、あてもなく田舎をフラフラして、古くて安っぽいいかにもなホテルに入った。
そこでショコラに抱きしめられたとき急に、今までドロドロぐちゃぐちゃ考えてた愛とか好きとか、その手のいろいろの答えが、本当に突然、すとんと落ちてきた。
ああ……そうだったのか。
好きっていうのは、相手の体の声を聞くことだ。
それで、こっちも声を返して、そうしたら嬉しくなってまた抱き合って。
こんな簡単なことに今まで気がつかなかったのか。
世界の真理を見つけたような、充実した気持ちでその日はショコラと別れた。
いつもくすんだ空気が漂う、古ぼけた田舎町が、その日はキラキラに光って見えた。
そしてそのあとすぐ、頬に残ったショコラの体温すら消えないうちに、私の声はショコラに届かなくなった。
階段を上がると、最上階は広々としたダイニングになっていた。
石造りの暖炉を写真に収めて、開け放されたガラス戸からバルコニーに出た。
バルコニーの先では男の人がこちらに背を向けて景色を見ていた。
見学客は私だけかと思ってたけど、先客がいたのか。
自分の部屋が急に公共物になったような、若干の気まずさを感じる。
あれ、でもあの後ろ姿。
短く刈り込んだ髪から伸びる、角ばった首すじにスポーツシャツ。
やけに見覚えがある。
まさか……いや待て、そんなわけない。
頭の中が整う前に、バルコニーの先客は振り返った。
「もしかして、美羽か?」
「先輩!」
立っていたのはとても懐かしい、他人だった。
◇
緑豊かな山となだらかな斜面、広がる街並みの先には海が見える。
どことなく地元に似ているようで、やっぱり全然違う。
建築がすごいとかはひとまず置いといて、私はこの眺めが好きだ。
「元気か?」
手すりにもたれて景色を見ながら先輩は言った。
「どうだろ……あまり元気ではないかな」
言いながら、同じように景色に目をやる。
こんなときどんなふうにするのが正解なのかわからない。
少し前まで、先輩と私の間の空気はもっとゆるかった。
初めてデートに誘われて、初めて好きって言われて、初めてキスをして、初めて部屋に上げて、初めてケンカして、初めて仲直りして……そして、初めて別れ話をした。
たくさん実績を解除した、私の初めての恋人だ。
「なにかあったのか?」
先輩は心配そうな顔で聞いてきた。
お前がそれを言うかって気もするけど……私は遠い海を眺める。
「ここ最近、ちょっと仲良くなった人がいてさ」
ショコラとのことを人に話すのは初めてだ。
「最初は酔った勢いだったけど、ふたりで出かけたりして……私の田舎にも来てくれて」
あの日ショコラと一緒に見た海は、もうたどり着けないほどに遠い。
「でもね、急に連絡がつかなくなっちゃった。多分だけど、ブロックされてる」
声が震える前に言い切った。
あらためて口に出すと、やっぱりきつい。
「それ、本当にブロックされてるのか?」
横で静かな声が聞こえた。
視線を向けると、先輩と目が合った。
「だって変だろ、地元に来るくらい親しくしてたのに……何か、行き違いがあるんじゃないか?」
「ううん」
私はゆっくりと首を振る。
「そういうのじゃないと思う、それに、これでよかったのかも」
どうしようもない、苦しさを押さえこむみたいに、笑った。
「結婚してる人だったから」
先輩は大きく目を開いて私を見たあと、うつむいた。
「そうか」
なんかちょっと、戸惑ったような声だった。
いやまあ、元カノのこんな話聞かされてんだから無理もないけど。
「それは、仕方ないかもな」
なんで先輩にこんなこと話してるんだろ。
うつむく横顔の奥、風に揺れる木々を眺める。
「今日は、登山はしないの?」
言った瞬間後悔した。
なにげない言葉のつもりだったのに、自分でも引くほど刺々しい声が出た。
先輩は顔を上げると、遠くを見ながら言った。
「あー、彼女とは別れた」
ぱん! と胸のなかでなにかがはじけた気がした。
「え、なんで?」
それなりに仲良くやってた私を振って、先輩は彼女と付き合った。
私との『それなり』よりも、もっとすごい何かを彼女に見つけたんじゃなかったのか。
「言わせるのかよ、それを」
先輩は斜め上を見るように瞳を動かして、片頬だけで笑った。
困ってるときの顔だ。
「よくわからないんだって」
そう言って先輩は乾いた笑い声をあげた。
「どういうこと?」
もしかしたら無神経な発言だったかもしれない。
先輩の困った笑顔がきゅっと歪む。
「告白されたから付き合ってみたけど、俺のこと好きかもよくわからないし、一緒にいても楽しくないんだと」
彼女から、とても申し訳なさそうに言われたらしい。
「うわあ」
思わず声が出た。
「笑ってくれよ」
先輩はため息をつくとがっくりと肩を落とした。
私を傷つけてまで付き合いたかった女の子に手ひどく振られて、私は私で怪しげな炎にフラフラ近づいて、ぶった切られて痛い思いをした。
「なにやってんだろうね、私たち」
「本当にな」
私たちは顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。
なんか……不思議だ。
私と先輩は今となったら他人と同じ、いや、もしかしたらそれ以上に遠い存在になったんだと思う。
それなのになんでだろう……ものすごく離れてるはずなのに妙に近い。
例えていうなら、行き先は違うんだけど、バス停の待合いでたまたま隣に座ったくらいの距離感。
よく知ってるようで、それでいて決してからまることのない関係は、妙な気楽さがあった。
ショコラとも、いずれそうなるのかな?
こんなことを考えだすといつも、それでもいいから会いたいって気持ちと、そんなんなるくらいなら死んだほうがマシだって気持ちが私の中でケンカする。
まあ、考えるだけ無駄か。
だって、私はもうショコラにメッセージを送ることすらできない。
「お前、どうすんの? これから」
もたれていた手すりから体を離して先輩が言った。
「閉館時間ギリギリまでいるよ。もう少し内装撮りたいし、あとでパースに起こすから外観の夕景も撮っておきたい」
先輩は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「がんばってるんだな」
「うん、製図はやっぱり下手だけど、できることから少しずつやっていかないと」
私の言葉を先輩はうんうん頷きながら聞いていた。
「わかる、大事だよな、そういうの」
あれ……?
違和感というか寂しさというか、なんともいえないモヤモヤしたものが胸を覆う。
今のは先輩が私にくれた言葉だ。
付き合ってたとき、製図も勉強も全然できなくて焦ってて、冗談めかして先輩に愚痴ったことがある。
『あーあ、なんでこんなに上手くいかないんだろ』
『私も先輩みたいに頭よかったら、こんなことで悩まなかったのに』
いま思い出しても情けなくなる言葉だ。
でも、先輩は真剣な声で言った。
『大事なのは足を止めないことだ』
『小さいことでも、できることからひとつずつやっていけば、いつかは絶対力になるだろ?』
想像以上にまじめに返されたのに驚いて、単純かもしれないけどそれ聞いて頑張ろうって思って、別れた後も指針というか、その言葉は私の中に残った。
それなのに……もしかして、当人は言ったことすら忘れてる?
「どうした?」
先輩は不審そうに私の顔を見た。
「あのさ、先輩」
一度ガラス戸に目をやって、再び先輩へと視線を戻す。
「今日、どうしてここに来たの?」
「ああ」
そんなことかと言うような軽い口調で先輩は言った。
「美羽といろいろ見に行っただろ? それまでは興味もなかったけど、近代建築っていいなと思って、出先でも結構建物をみるようになったな」
先輩は石造りの壁を眺める。
「特に、ここはインパクトあったから、もう一回見たかったんだ」
きゅっと、痺れるような切なさが喉の奥に沁みた。
「そうだったんだ」
発した言葉はほとんど声にならなかった。
たぶん先輩には聞こえなかったと思う。
私も建物に目を向ける。
特徴的な彫刻の施された石壁は、周囲の緑と溶け合っている。
何気ない行動や言葉が、誰かの中に残る。
それは、いいことばっかりじゃない。
これから先、ゲーム実況動画を見たり、ジャグラー……は多分もうやらないだろうけど、ケーキを食べたり、壁紙のダマスク模様を見るたびに、ショコラとの思い出は針みたいに私の胸を刺すんだろう。
でも、たとえばひまわりを見たときとか、イカ玉を食べたときなんかに、ショコラは私のことを思い出すかもしれない。
そう思うと、少しだけ心に風が通る気がした。
「じゃあ、俺、行くから」
「うん」
室内へと歩きかけて、思い出したように先輩は振り返った。
「またサークルに顔出せよ、みんな会いたがってるぞ」
私は小首を傾げて曖昧に笑った。
「うん、気が向いたらね」
つられたように笑うと、先輩はもう振り返らずに建物の中に消えていった。
口もとは笑った形のまま、私はしばらくその方向を見ていた。
あんな辞め方をして、今さらサークルになんて戻るわけがない。
めちゃくちゃ頭いいくせに、そんなこともわからないんだな。
体を回して景色を眺める。
傾きかけた日差しが街をオレンジに染めていく。
ショコラは家に帰れたんだろうか。
スマホを構えて、懐かしい光に包まれた街を一枚撮った。
どういうわけか、世界はあまり私に優しくない。
いまだに勉強はよくわからないし、図面を引くのも下手だ。
大好きだった人は愛を確信した直後に私の前から去っていった。
散々だな……空っぽで、泥まみれだ。
オレンジ色の街を背にして、石張りの洋館に向きなおる。
それでも、時間は前にしか進まない。
この先なにがあったって、私は私にできることをやるだけだ。
きっと未来のどこかには、笑っている私もいるだろう。
おしまい
最後まで読んで下さって本当にありがとうございます。
感想、評価、リアクションなどいただけたらとても嬉しいです。
黒い森のケーキ、私は好きです。




