第13話 あしたのパン
深い紺色に、銀のレバーハンドル。
蛍光灯に照らされた玄関ドアが妙に重く立ちはだかる。
夢から覚めたように、私は帰ってきた。
でも、何事もなかったように戻るなんてできないだろう。
私は眠っていたわけではない。
昨日からの私の行動、今に至るまでの顛末を、旦那の納得がいくように示さなければ、この中に収まることはできない。
鍵を取り出して、手が止まる。
すべてを包み隠さずに話せばいいのだろうか。
昨日のこと、いや、ライブ配信から?
すべてを話すというなら、出会った日のことから始めなければいけないのではないか。
正体もなく酔っ払って、10近くも下の学生の部屋で目覚めた。
そんなゆきずりの相手に夢中になって、自分から会いに行って、半ば強引に関係を持って。
挙句、すべてを放り出して海辺の田舎町まで追いかけていった。
それから……ひまわりを見て、海を見て、動画を見て、笑い合って、炎天下を歩いて、無駄足を踏んで、キスをして、とりとめのない話をして、抱き合って、雨の音を聞いて、手をつないで。
事実をそのまま差し出して、本当にそれでいいのか。
話さない方が誠実なこともあるのではないか。
いや、そもそも誠実とはなんなのか。
ずっと裏切っていたのに。
旦那をひとりにして、私は楽しんでいたのに。
鍵を持つ指先が冷える。
小さく息を吐いて呼吸を整える。
この扉の先で何が起こるのかはわからない。
決めているのはひとつだけ。
なにがあっても、美羽にはもう会わないということだけだ。
鍵を挿しこんだ。
回した感触が妙に軽いというか、空回りだった。
施錠されていなかったのだ。
ごくりとつばを飲み込んで、鍵を抜く。
部屋の中で何か動いた気配がした。
気のせいかもしれないが。
ドアノブに手をかけた瞬間、ノブが回ってドアが開いた。
開いたドアの先、玄関に立っていたのは旦那だった。
「ショコラ、おかえり」
◇
旦那の後について、リビングのソファに腰を下ろす。
ベランダには昨日、家を出る前に干した洗濯物がそのままになっていた。
もし夕立でも降っていたら洗い直しだ。
「見れたのか?」
「え?」
「ひまわりを見に行ったんだろ?」
そういえば、そんな話をしていた。
「見れたよ」
頭に浮かんだのは、暗い海辺、眠ったようにうつむくひまわりの姿だ。
「よかったな」
旦那の口調は乾いていて、どこかなげやりだった。
バルコニーを見ていた視線は、一度旦那の横顔を経由して、ローテーブルの上に落ち着く。
「いや、よくないだろ」
苦々しく言うと、旦那は手で顔を覆って大きくため息をついた。
「わかんねえ」
手のひらの下から、感情を押し殺したような声が聞こえてくる。
「わかんねえ……わかんねえよ」
旦那は繰り返しつぶやいていた。
「心配するなって……するだろ、あたりまえだろ」
かろうじて聞こえるくらいの小さい声。
大きい体を縮こまらせて、かすかに震えている。
旦那のこんな姿は初めて見た。
「おい」
重い声と、暗い視線がこちらに向けられた。
「なに黙ってんだよ、なんか言えよ」
のどがカラカラに乾いていく。
でも、今は水すら喉を通りそうにない。
「あの」
ひざの上でぎゅっとこぶしを握る。
「あのね」
姿勢を正して、まっすぐに旦那を見る。
旦那の表情が身構えたように硬くなる。
「1か月……いや、もっと前かな」
私の声は自分でも驚くほど低く、張りつめていた。
「私が、昼に帰ってきた日があったでしょ?」
話すのか、美羽とのことを。
孤独と焦燥に巻き込んで好き放題に傷つけた。
最後は、正式な手続きも踏まずに切り捨てた女の話を。
「あの日ね、クラブに行ってたの」
体に響く重低音と高揚を誘う過剰な光。
研ぎ澄まされた孤独の切先を鈍らせるように、強い酒を何杯も飲んだ。
「そのとき、ちょっと飲みすぎちゃって」
「やめろ」
私の告白に、旦那の声が叩きつけられた。
「ごめん」
旦那は消え入りそうな声で言った。
「聞きたくない」
うなだれたまま「ごめん、ごめん」と旦那は繰り返す。
「もういいから……戻ってきたなら、それでいいから」
声が震えている。
自分を守るようにうずくまった姿は、怯えているようにも見えた。
握りしめていた手をゆるめる。
ゆっくりと腕を伸ばして、手のひらで旦那の肩に触れた。
ピクっと小さく肩が跳ねる。
肩口をそっと撫でて、両腕で包み込むように旦那を抱きしめた。
腕の中で、こわばっていた体は次第にゆるでいく。
旦那は私の鎖骨のあたりに頭を預けた。
硬い髪の毛が頬に触れた。
「もう、どこにも行かない」
なだめるように言うと、旦那が小さく頷く。
「愛してる」
「うん、俺も」
窓の外、風が出てきたのか、洗濯物が揺れている。
「ごめんね」
これでよかったのかはわからない。
でも、たぶん正解なんてないのだろう。
「心配かけて、本当にごめん」
私の声は、旦那にはどんなふうに届いているのだろうか。
『ごめん』は回復の魔法ではない。
そんな言葉で、怒りや孤独、絶望が消えることはない。
抱きしめ合ったところで、つけた傷も、つけられた傷も、元どおりに塞がるわけではないのだ。
私たちはこうやって、お互いを傷だらけにしながら生きていく。
腕の中で丸まっていた旦那が顔を上げた。
じっと目をのぞきこむと、私の肩をしっかり握った。
肌の表面が空気の揺らぎを感じとる。
ゆっくり目を閉じて、唇の力を抜く。
ためらいを煮詰めたような、もどかしい一瞬が通り過ぎる。
「お腹すいたー」
「ええ?」
のんきな声に目を開く。
すぐ近くで、旦那が照れたように笑っていた。
「だって俺、朝からマクドと牛丼しか食べてない」
「なにそれ、結構食べてるじゃない」
ふふっと笑って、私はソファから立ち上がる。
「私もお腹すいたな、何か作るわ」
冷蔵庫を開ける。
しかし、想像以上に何もない……使えるのは卵くらいか。
「チャーハンでいい?」
「チャーハンだいすき!」




