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第12話 午後の川辺

 開け放されたガラス戸を出たら、どこかで見たような花壇と昼下がりの空があった。


 駅前のロータリーにはドアを開いたまま停車中のバスと古びた百貨店。

向かいのテナントビルにチェーン居酒屋とカラオケ屋の看板が大きく掲げられている。


 最新が半歩遅れて届くような街。

薄い膜が張ったような、質量を持った空気が肌にまとわりついてくる。


「あたし今週マック8回目だけん!」


 大きい声に驚いて顔を向けると、セーラー服を着た女の子達がじゃれあうように歩いていた。


「お前やべえな」


「そんなんもう、行くしかないやろ」


 楽しそうに笑いながら少女達は通りを駆けていく。


 美羽も、ほんの数年前はあんな少女だったのだろうか。


「ごめん、お待たせ」


 美羽の声で目線は地上に戻ってくる。


「どこ行く?」


 言いながら美羽は私を見ると、イタズラっぽく笑った。


「とりあえず、映画でも見る?」


 含みのある物言いに、こちらも口の端を上げて応じる。


「タイムマシンが出てこないやつね」


 私たちは視線を絡ませたあと、どちらからともなく笑った。


「じゃあ、行こう」


 不敵な笑みと裏腹に、美羽の声には緊張が含まれていた。



◇



「ショコラ?」


 立ち止まった私に気がついて、先を歩いていた美羽が振り返った。


 道沿いにある小さな洋菓子店、クラシカルでどこか素朴なケーキが並ぶショーケースの一角に、私の目は吸い寄せられていた。


「あれ、サバラン」


「サバ……なんて?」


 視線で促すと、美羽は疑問符を凝縮した顔で店内を見た。


「お菓子なんだけど、扱ってるの珍しいと思って」


 蛍光灯の下、銀紙に乗せられたオレンジ色の生菓子はつややかに光っている。


「食べたいの?」


 子どもに尋ねるような美羽の言葉に、私は真顔のまま頷いた。


 店に入ると、小麦粉とバターの甘い香りがした。

昔流行った曲のオルゴールアレンジが流れている。


 サバランを2つとブルーベリーのレアチーズケーキを買った。

持ち運び時間を聞かれたので適当に1時間と答える。


 会計のとき、紙製のカードを渡された。


「20ポイントでプチギフトと交換いたしますので」


 格子の枠の中にスタンプが3つ押されている。

もう来ることはないだろうけど、断るのも面倒なので受け取って財布に入れた。


 洋菓子店の小さな紙袋を持って再び街を歩く。


 はりぼてのように立ち並んでいた高層の建物は5分も行かないうちに姿を消して、古い商店と住宅の入り混じった通りに出た。


 道の奥には連なる山々が静かな存在感を示している。


 古びた美容院の角を曲がると、既視感のある建物が見えてきた。


 特徴的な装飾の外壁に、大きく掲げられた料金表。


 ご休憩、ご宿泊……サービスタイムに学割。

欲望を満たす場所は、都会だろうと地方だろうと変わりはない。


「ずいぶん、派手な映画館ね」


 冗談めかしたつぶやきには答えず、美羽は私の手を握った。

神社の時よりも強く、痛いくらいだ。


 しかし……どうしたものか。

私は非常にわかりやすい建物を見上げる。


 看板の派手な電飾は青々とした山と不思議に調和している。


 こんなときの作法を、私は知らないのだ。



◇



 モスグリーンの地に金色のダマスク模様。

かつて洗練されたデザインだった壁紙は、多用されすぎて今は逆に安っぽい。


 ローテーブルの上には『素敵なひとときをお過ごしください』のプレートと共に、ラミネート加工されたチラシとミネラルウォーター、知らないメーカーのスナック菓子が置いてある。


「色彩学……大学の講義で習ったんだけど」


 部屋の大部分を占めるベッドに腰掛けて美羽が言った。


「人の目ってさ、物体そのものを見てるわけじゃなくて、物体に反射して目に入った光を脳が補正して形にしてるんだって」


「そうなんだ」


 ミネラルウォーターをひと口飲んで、適当に相槌を返す。

今にはじまったことではないが、美羽の話は唐突だ。


「それ聞いた時さ、目に映るものって信用ならないんだなって思って」


 美羽は天井に視線を泳がせる。

シャンデリアの照明からは、雫型のガラスがじゃらじゃらと垂れ下がっている。


「私がいままで見てきた世界は……なんていうのかな、そのものを見てるわけじゃなくて、反射した光を脳が補正してて……」


 言いながら、美羽の視線はゆっくりと私の上に戻ってくる。


「だからさ、もしかしたらショコラも、私の中で勝手な像を結んでるだけで、本当は全然違う姿なんじゃないかって、思ったりするの」


 また、妙なことを考えるものだ。

本当の姿、存在を確かめるなんて、すごく簡単なのに。


「触ってみればいいじゃないの」


 私はベッドに腰を下ろすと、指先で美羽の頬に触れた。



◇



 苦しいほどに息が上がる。

空調は寒いくらい効いていたのに、流れる汗でいつのまにか全身はびちゃびちゃに濡れている。


 表情をゆがませながらも、美羽が上げる声にはまだどこか余裕が感じられた。

ここじゃないな……ゆっくりと来た道を引き返す。


 何度か探るうち、ある地点で声もなく、美羽が体を震わせた。

美羽の目が驚いたように見開かれる。


 なるほど、こっちが正解ルートか。


 じわじわ、ときおり焦らすように立ち止まりながら指先で美羽を追いつめていく。


 声を結ぶことのないまま、逃げ道を求めるようにもがく口を唇で塞ぐ。

閉じられた視界の中、荒れ狂うような情動が直に流れ込んでくる。


 そうだ、行こう。

もっと奥へ……もっと、ずっと深くまで、一緒に。


 そのまま、熱に浮かされて正体もなく溶けていく美羽の中に、私は沈み込んでいく。


 翻弄しているようで、深く、美羽に侵入しているようで、不思議なことに、すべてをさらけだしているのは私のほうだった。



◇



 滝のような雨音が聞こえる。

おそらく、曇りガラスの向こう側は土砂降りだ。


「建築士の免許とったら、家を建てたいな」


 美羽は全身を包んだ大判のバスタオルから腕を出して、役目を終えた洋菓子店の紙袋にさらさらとペンを走らせる。


「川沿いでさ、2階のリビングに広く窓をとって、こう、川に向かってバルコニーが張り出してて……」


 ただの四角形だったものが図面としての意味を与えられていく。

さすが建築学生というのか、慣れた手つきには少し感心した。


「晴れた日とか川を見ながら、ショコラが焼いたケーキを食べるの」


 どうやらその家には私も住んでいるらしい。

それなら黙って見ているわけにはいかない。


「そんな大きい家、誰が掃除するのよ、マンションにしましょう」


 私は美羽の手の甲をそっと撫でると、指先をからませてペンを抜きとった。


「駅からあまり離れてるのは嫌だし、近くにスーパーも欲しいわ」


 言いながら、家の横に道路の線を引く。


「だいたい、この手のエリアには高いスーパーしか無いのよ……そうだ、ここにドンキホーテがあったら最高」


 道路を挟んだ向かいに四角を書いて、大きく『驚安の殿堂』と書き込む。


「ちょっと、私のヴィラの横ドンキにしないでよぅ」


 美羽の抗議を笑って受け流すと、私はペンを持ったまま唇を重ねた。



◇



 雨はすっかり上がっていて、雲の切れ間から差し込んだ光が蒸し暑い田舎街をやけにまぶしく照らしていた。


 ためらいがちに手の甲に触れた指先を、私はしっかりと握り返す。


 手をつないだまま、駅までの道を私たちはほとんど言葉を交わさずに歩いた。


「今日はありがとう」


 駅の入り口で美羽が言った。


「ショコラが来てくれて、本当に嬉しかった」


 美羽はぎゅっと強く握ってから、つないだ手を解いた。


「じゃあ、またね」


 ぴくりと頬がこわばる。

口角を上げて、できる限りの柔らかい表情で私は手を振った。


「うん、じゃあね」


 振り返らずに駅構内を歩く。

この地方の主要駅らしく人通りはそれなりにあるが、雑踏に紛れるには全然足りない。


 私がやろうとしていることは残酷なんだろうか、それとも、優しさか。


 わからない。


 もしかしたら、そのふたつにさして違いなんてないのかもしれない。


 ホームで電車を待つ間にソフトクリームを食べた。


 桃に梨に高原ミルク。

ご当地フレーバーは3つもあったけど、今の気分はチョコレートだった。


 ちょうど食べ終わるころ、ホームに電車が入ってきた。


 座席に座ると、大きくとられた窓から夕陽に染まる街が見えた。


 電車はすぐに走り出す。


 景色を焼き付けようと目をこらして、そんなことには何の意味もないと気付く。


 肌の上に、美羽がまだ残っている。


 落ち着かなくて、イライラして、切羽詰まって、苦しくて、叫びだしたいほどにやるせなくなって……それなのに、その先を知りたくてたまらない。


 私の中にある、自分では見つけることすらできなかった箱。

美羽はそれを指先ひとつで簡単に開けてしまう。


 やけにポップな電子メロディに続いて、車内放送が流れた。


 電車の加速と共に、さっきまでいた街はあっという間に過去になる。

座席シートは、全身が沈み込んでしまいそうなほど柔らかかった。



◇



 夕陽は山に隠れ、窓の外はほの青い残光に包まれていく。


 さて、どうしようか。


 一緒に住むとしたら、少なくとも美羽の卒業を待ってからだ。

リビングが広めの2LDKでも借りて、ふたりで動画を見ながら笑って、ごはんを食べて、キスをして。


 それだと今の収入ではちょっと心もとないな。

転職するか、それか何か資格をとるか。

いまの仕事に資格手当はないけど、簿記のひとつでも持っていたら評価が上がるかもしれない。


 ふっと口もとがゆるむ。

なんだか、ものすごくしょうもない理由で喧嘩をしそうだ。


 そうなったらやっぱり年上の私から謝るべきなんだろうか。

女同士ではきっと、小さな棘を押し流すための力技は通用しない。


 それとも、今のまま、今の生活を続けながら、ときおり抜け出して美羽に会いに行くのはどうだろう。


 あの地下鉄に乗って、古びた喫茶店の横を通って。


『こんなに放ったらかしで、もう来ないと思ってた』


 不満げに口をとがらせながら嬉しさを隠しきれない美羽をソファに押しつけて、今まで生きてきた中で、いちばん優しい口づけをして。


 目を閉じる。

記憶と願望が混ざり合った、想像の中の美羽を心ゆくまで楽しむ。


 思わず、ため息が漏れた。


 いっそのこと、湿気と虫がすごそうな、あの川沿いの家に住んでみようか。


 晴れた日は私の焼いたケーキを食べると言っていた。

そんなのどかな午後には、ラズベリージャムをたっぷり使ったヴィクトリアンケーキがよく合うだろう。


 せせらぎを聞きながら、ときおり通りすぎる風に吹かれていたら、それ以外のことなんて全部うたかたの中に消えてしまいそうだ。


 そうだ、それに、あの家のすぐ横にはドンキホーテもあった。

それにしても、私がドンキホーテを書き込んだときの美羽の顔。


 思考はとめどなく流れてきては、形をつくる前に電車の揺れの中にばらけていった。



◇



 少しうたたねしていたのか、窓の外はすっかり夜になっていた。


「やっぱり、若いうちに産んでおきたいけえ」


 後ろの座席から女の子の潜めたような声が聞こえてくる。


「授業参観でお母さんが老けてたら、子どもが可哀想じゃろ」


 合づちの代わりのように、ななめ後ろの座席で「ふふっ」と女の子の笑い声がした。


「うん、やっぱり25歳までにひとりは産んどかな」


 はじめは控えめだった声は、段々と大きくなっていく。


「そんなん、もう出会ってないとあかんやん」


 隣の女の子がのんびりした口調で言った。


「じゃけ、アプリじゃ」


 その言い方があまりに得意げだったので、危うく吹き出すところだった。


 勇ましいな、頑張るんだよ。

心の中で小さくエールを送る。


 ふと窓を見ると広がる田んぼの上、大きな月が光っていた。


 電車が揺れて、景色は次々に切り替わっていく。


 田園風景と、山、トンネル、そして小さな町が層になったように窓の外を通るうち、だんだん町の部分が多くなって、いつしかすっかり見慣れた風景になった。


 ふと思いついてスマホのメッセージアプリを開くと、美羽から一通だけメッセージが入っていた。


『ちゃんと帰れた?』


 シートに背を預けて、目を閉じる。

電車の揺れはもう眠気を誘うこともなく、いっそう意識を冴えわたらせていく。


 そう、帰るんだ。


 あの深い孤独な夜の底から。

すべてが甘く柔らかい、未完成の部屋から。


 ゆっくり目を開けると、私は美羽のアカウントをブロックして連絡先を削除した。


 大丈夫、帰れたよ。


 胸の奥でつぶやいたとき、車内アナウンスが長い旅の終わりを告げた。

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