第8話 用事がなくても、会いたい
始まります
レオンが食堂で眠った翌朝、長椅子には、きれいに畳まれた毛布が置かれていた。
その上に、食事代。
父が昨夜渡そうとして断られた分まで、きちんと含まれていた。
「明け方に起きたから、スープを出したよ」
鍋をかき混ぜながら、父が言った。
「ずいぶん謝ってた。お前にも、礼を伝えてくれって」
「起こしてくれればよかったのに」
「お前も寝てただろ」
それは、そうだった。
私は毛布を持ち上げた。
端と端が丁寧に重なっている。
あの大きな手で、これを畳んだのかと思うと、少しおかしかった。
*
昼の混雑が引いた頃、入口の鈴が鳴った。
「まだ食える?」
振り返ると、カイルが立っていた。
衛兵の制服姿。額に少し汗をかいている。
「食べられるよ。煮込み?」
「それと、パン多め」
「はい。いつもの席、空いてる」
言ってから、少し照れた。
まだ何度も来ていないのに、いつもの席なんて。
けれどカイルは、嬉しそうに窓際へ向かった。
「俺の席、できたんだ」
「空いてたらね」
「じゃあ、早めに来る」
「混んでる時間は相席だよ」
「厳しい店だな」
笑いながら腰を下ろす。
私は厨房へ注文を伝え、水を持っていった。
「今日は、休憩?」
「ああ。このあと、また巡回」
「衛生班の仕事は?」
「昨日でいったん終わり。療養所へ行く人も減ったから」
「よかった」
「本当に。お前も、もうふらついてないな」
「元気です」
胸を張ると、彼は私の手元を見た。
「重い物は?」
「持ってないよ」
少しだけ。
心の中で付け足した。
カイルの目が細くなる。
「今、何か隠したろ」
「何も」
「昔から、その顔するんだよな」
「どんな顔?」
「いい子のふりしてる顔」
ひどい。
抗議しようとしたところで、厨房から父に呼ばれた。
「リーナ、煮込み」
「はーい」
逃げたな、と背中に声が飛んできた。
*
料理を運ぶと、カイルはすぐ匙を取った。
「いただきます」
一口食べ、ふっと息をつく。
私はその表情を見るのが、少し好きだった。
外では働いている人が、ここでようやく肩を下ろす。
父の料理を食べて、ほっとする。
そういう店で働けるのは、嬉しい。
「今日、大変だった?」
尋ねると、彼はパンをちぎった。
「朝から夫婦喧嘩を止めた」
「え」
「盗まれたって奥さんが怒ってて。何がなくなったのか聞いたら、夕飯用の燻製肉」
「……旦那さんが食べたの?」
「夜中に、酒のつまみに」
私は口元を押さえた。
「笑い事じゃねえぞ。奥さん、本気で怒ってた」
「カイルは、どうしたの?」
「旦那のほうと一緒に肉屋へ行った」
「平和な解決だね」
「自分の足で買いに行くのが大事なんだと」
誰に教わったの、と聞く前に、彼が厨房へ目を向けた。
「お前の母さんも、そういうこと言いそうだよな」
「父さんには聞かないでね」
カイルが笑い、私も笑った。
ちょうど母が通りかかったので、二人そろって口を閉じた。
「何の話?」
「平和な王都の話」
カイルが真面目な顔で答えた。
母は私たちを見比べ、それから空いた皿を持っていった。
*
「昨日、レオンが来たよ」
私が言うと、カイルは匙を止めた。
「帰ってきたって聞いた」
「煮込みを食べて、そのまま寝ちゃった」
「あいつが?」
「うん。そこの長椅子で」
示すと、カイルはしばらく長椅子を見た。
それから、小さく息を吐く。
「……そっか。寝たのか」
「討伐で疲れてたんだね」
「ああ。そうだろうな」
いつもの冗談は返ってこなかった。
カイルは残りの煮込みを食べ、空になった皿へ匙を置いた。
「ごちそうさま。今日もうまかった」
「父さんに伝える」
「リーナは、もう昼飯食った?」
「まだ。あとで」
言った瞬間、彼がこちらを見た。
しまった、と思った。
「母さんと交代なの。もうすぐだから」
「ならいいけど」
「みんな、私のご飯を心配しすぎじゃない?」
「人の飯ばっか運んで、自分の分忘れそうだから」
否定したかったけれど、昨日の昼を思い出して黙った。
カイルが少し笑う。
「当たりか」
「……温め直せば食べられたもん」
*
それから、カイルはときどき昼を食べに来るようになった。
決まった曜日ではない。
早い日もあれば、夕方近くに来る日もあった。
同僚と一緒のときには、窓際にこだわらず、空いている席へ座る。
「カイル、ここへ来ると行儀いいな」
一緒に来た人が、そんなことを言った日もある。
「どこでもいいだろ」
「詰所じゃ、そんなゆっくりパン食わねえのに」
「うるせえな」
私は聞こえなかったふりをして、水を注いだ。
カイルと目が合った。
彼が困った顔をしたので、少し笑ってしまった。
*
数日後の午後、私は帳簿を前にため息をついていた。
仕入れの伝票と、帳面の数字が合わない。
二度計算した。
三度目も、同じところで違う。
昼の片づけはまだ残っているし、夕方に予約していたお客さんからは、人数を増やせないかと頼まれていた。
「リーナ、無理なら断っていいんだよ」
母に言われたのに、大丈夫と答えてしまった。
たぶん、席を少し詰めれば入れる。
料理も、何とかなる。
ただ、その「何とか」を考える頭が、今は動かなかった。
入口の鈴が鳴る。
「こんにちは……あ、カイル」
「何、その顔」
「普通の顔です」
「普通は、帳面をにらんで唸らねえだろ」
「唸ってた?」
「扉のところまで聞こえた」
私は両手で顔を覆った。
カイルが近くへ来る。
「忙しい?」
「ううん。大丈夫。今、注文聞くね」
「その前に、一回それ置けよ」
帳簿を指さされた。
「でも」
「俺、今日は飯じゃないから」
私は顔を上げた。
カイルは制服ではなかった。
落ち着いた色のシャツに、短い上着。
腰にあるのも大きな剣ではなく、護身用らしい短剣だけだった。
「お休み?」
「ああ」
「じゃあ、何か用事?」
彼は一瞬、黙った。
それから、私の向かいの椅子を指した。
「座っていい?」
「うん」
腰を下ろしたカイルが、帳簿へ目を落とす。
「何があった」
声が穏やかだった。
私は、いつものように首を振ろうとした。
大したことじゃない。
自分で何とかするから。
そう言えば、彼は困らない。
でも、口を開いたら、別の言葉が出た。
「……ちょっとだけ、聞いてくれる?」
カイルは頷いた。
「うん」
*
数字が合わないこと。
予約を増やすと答えたけれど、本当は少し迷っていること。
病気で休んだ分、ちゃんと働かなければと思ってしまうこと。
話してみると、どれも小さなことだった。
それでも重なると、息が詰まった。
カイルは途中で笑わなかった。
私が話し終わるまで、口を挟まずに聞いていた。
「休んだ分って、返さなきゃいけないの?」
やがて、彼が尋ねた。
「……分かんない。でも、父さんも母さんも大変だったから」
「二人とも、そう言った?」
私は首を振った。
「もっと休めって」
「じゃあ、そうしてほしいんだろ」
私は帳簿の角を指でなぞった。
分かっている。
分かっているけれど、誰かに迷惑をかけたまま座っているのは、落ち着かなかった。
「お前が頼んでくれたら、嬉しい人もいると思うけど」
顔を上げる。
カイルが、真面目な目でこちらを見ていた。
「俺とか」
返事に困った。
彼は少し笑い、帳簿を指さした。
「計算は、得意じゃないから役に立たねえけど」
「そこ、得意って言うところじゃない?」
「嘘ついても、すぐばれる」
私は笑った。
笑うと、肩の力が抜けた。
*
伝票は、母に一緒に見てもらった。
昨日の分が一枚紛れていた。
予約の席は父にも相談して、料理の出し方を変えることにした。
終わってみれば、思っていたほど大変なことではなかった。
「ほら。最初から言ってくれればよかったのに」
母に額を軽くつつかれた。
「……はい」
席へ戻ると、カイルは出してもらったお茶を飲んでいた。
「解決?」
「うん」
「よかったな」
窓からの光で、彼の髪が明るく見えた。
制服でないせいか、いつもより近く感じる。
私は向かいへ座り直した。
「それで、今日は何の用事だったの?」
カイルが杯を置いた。
私を見る。
「次の休み、いつ?」
「店は四日後が休みだけど」
「俺も、その日休み」
「そうなんだ」
頷くと、彼は少しだけ姿勢を直した。
「出かけない?」
私は瞬きをした。
「買い物?」
「それでもいいけど」
「何か運ぶ物があるとか?」
「ない」
「じゃあ――」
「用事がないと、誘っちゃ駄目かよ」
カイルは困ったように笑った。
その顔を見た途端、胸が跳ねた。
「……駄目じゃない」
「なら、よかった」
「どこに行くの?」
「南広場の市。休みの日にしか出ない店、あるだろ」
「ああ。焼き菓子とか、雑貨とか?」
「そう。お前、見て回るの好きそうだから」
行きたい。
すぐ、そう思った。
でも、そのあとに、これは二人で行くのだろうかという考えが浮かんだ。
聞けばいいのに、何となく聞けない。
カイルが私の返事を待っている。
「……行く」
答えると、彼が笑った。
「じゃあ、午前の鐘が三つ鳴る頃、ここに迎えに来る」
「うん」
「荷物、用意しなくていいからな」
「分かってるよ」
「玉ねぎも、じゃがいもも」
「買い出しじゃないんでしょう?」
「ああ」
彼は、私をまっすぐ見た。
「リーナを誘ってる」
頬が熱くなった。
私はお茶に手を伸ばした。
まだ、少し熱かった。
*
カイルが帰ったあと、母が空の杯を下げに来た。
「よかったね」
「何が?」
「四日後、晴れるといいねえ」
全部聞こえていたらしい。
私は帳簿を開いた。
もう数字は合っているのに、確かめるふりをした。
「いつもの服でいいかな」
小さく呟く。
母が、布巾を持つ手を止めた。
「いつもの、って?」
「仕事のじゃなくて。出かけるときの」
「好きなのを着ればいいよ」
そう言ってから、少し笑う。
「自分が着て、嬉しくなる服にしなさい」
私は窓の外を見た。
通りの向こうに、もうカイルの姿はなかった。
四日後。
買い出しでも、配達でもない。
用事がなくても、会える日。
午前の鐘が鳴る頃、私はどんな顔で扉を開けるのだろう。
考えたら、もう少しだけ、落ち着かなくなった。
終わります!




