第7話 英雄様にも、おやすみを
始まります。
父が鍋の蓋を開けると、煮込みの匂いが店いっぱいに広がった。
私はカウンターに並べた匙を、一つずつ拭いていた。
「リーナ、それが終わったら座ってな」
「もう元気だよ」
「昨日も同じことを言って、夕方には眠そうだっただろ」
母に言われて、口を閉じる。
冬霞熱が治って、店へ戻って三日目。
熱も咳もなくなったけれど、いつもの調子で動こうとすると、思ったより早く疲れた。
だから今は、椅子に座ってできる仕事が多い。
皿を拭く。注文の札を整理する。帳簿の数字を確かめる。
立ち上がるたびに母がこちらを見るので、こっそり働くことも難しかった。
「帰ってきたぞ!」
通りから、大きな声がした。
入口近くのお客さんが振り返る。
「誰が?」
「西じゃない、東の討伐隊だよ! 一つ目を倒したって!」
父が厨房から顔を出した。
「サイクロプスか?」
「ああ。街道の砦に居ついてたやつ。レオンたちが仕留めたらしい!」
私は手を止めた。
レオンが帰ってきた。
無事に。
通りでは誰かが口笛を吹き、別の誰かが酒を頼んでいた。
「こりゃ今夜は、どこも混むね」
母が窓の外を見る。
父はもう、追加の鍋を火にかけていた。
*
夜の王都は、いつも以上ににぎやかだった。
扉が開くたびに、遠くの歌声や笑い声が入り込む。
サイクロプスは、街道沿いの古い砦をねぐらにしていたらしい。
通行する荷馬車が襲われ、商人たちは遠回りを余儀なくされていた。
その道が、また使えるようになった。
「これで、向こうの町まで二日縮まる」
食事をしていた商人が、嬉しそうに杯を持ち上げる。
「荷を待ってる連中も喜ぶぞ」
「英雄様に乾杯だな!」
いくつもの杯が鳴った。
私は席へパンを運び、空いた皿を下げた。
みんなが笑っている。
討伐の話を聞くとき、私に分かるのは、その帰りを待つ側のことばかりだった。
レオンは今頃、どこにいるのだろう。
また女性たちに囲まれて、大きな声で笑っているのかもしれない。
「リーナ、そこまで」
母が私の持っていた皿を受け取った。
「お茶を飲んで休みなさい」
「あと、一往復だけ」
「その一往復、さっきも聞いた」
私はおとなしく、カウンターの椅子へ戻った。
*
最後のお客さんが帰る頃には、通りの魔道灯が夜更けの明るさに落ちていた。
父が火を小さくし、母が売上を数え始める。
私は椅子に座ったまま、明日の献立を書いていた。
扉の鈴が鳴った。
「すみません。今日は、もう――」
顔を上げて、言葉が止まる。
入口に、レオンが立っていた。
黒い外套に、腰の剣。
髪が少し乱れていて、頬には薄く赤みが差している。
「……まだ、食えるか」
いつもより、少し低い声だった。
父が厨房から声をかけた。
「煮込みならありますよ。どうぞ」
レオンは軽く頭を下げた。
店内へ一歩入り、私を見る。
そのまま、しばらく黙った。
「レオン?」
「……治ったのか」
私は瞬きをした。
病気だったことを、知っていたらしい。
「うん。もう大丈夫」
彼の視線が、私の顔から、手元の帳面へ移る。
「働いてるのか」
「座ってできることだけ。母さんが厳しくて」
「当然だ」
即答だった。
母が隣で、満足そうに頷く。
「話の分かる方でよかった」
レオンはもう一度、私を見た。
「咳は」
「出ないよ」
「熱は」
「ない」
「……そうか」
ようやく、入口から離れた。
*
カウンターの端へ座ったレオンの前に、水を置く。
外套から、冷えた夜風と酒の匂いがした。
「討伐、お疲れさま。帰ってきたんだね」
「ああ」
「サイクロプス、倒したって聞いたよ」
「もう、あの道には出ねえ」
「よかった。今日来た商人さん、すごく喜んでた」
レオンは水を一口飲んだ。
「なら、よかった」
それだけ言って、杯を置く。
父が煮込みをよそい、パンと一緒に差し出した。
「熱いので、気をつけて」
「いただきます」
大きな手が匙を取った。
すくった煮込みを口へ運び、ゆっくり飲み込む。
それから、もう一口。
私は自分のお茶を持って、少し離れた椅子へ座った。
「今日は、お祝いの席じゃないの?」
「いた」
「抜けてきたの?」
「ああ」
「みんな、探してない?」
「大人だ。勝手に飲んでる」
その言い方に、思わず笑った。
レオンがこちらを見る。
「何だ」
「人気者も、大変だね」
「……酒を注がれる回数は増えた」
「かなり飲んだ?」
「少し」
母が帳簿から顔を上げた。
「お水、おかわりを入れましょうか」
「……お願いします」
どうやら、少しではないらしい。
*
レオンは黙々と食べていた。
私は明日の献立へ目を戻したけれど、何となく気になって、ときどき横顔を見た。
近くで見ると、目の下に疲れがある。
右手の甲には、新しい傷が一本走っていた。
「怪我、してる」
言うと、レオンは自分の手を見た。
「かすっただけだ」
「痛くない?」
「もう塞がってる」
確かに、血は出ていなかった。
でも、指の付け根も、手首も、どこか腫れぼったく見える。
「治療院には行った?」
「隊付きに診てもらった」
「そっか」
安心して頷くと、彼は匙を置いた。
「お前は、無理するなよ」
「うん」
「治ったと思って動くと、また寝込む」
「母さんみたいなこと言うね」
「聞かねえからだろ」
返す言葉がなかった。
レオンは少しだけ口元を緩めた。
その笑い方が、今日はいつもより柔らかい。
「夜も、ちゃんと寝ろ」
「寝てるよ。病気のとき、十分寝たもん」
「まだ足りねえ」
「レオンこそ、眠れてる?」
彼は答えず、パンをちぎった。
私は少し身を乗り出した。
「討伐から帰って、そのままお酒でしょう。疲れてるんじゃない?」
「このくらいで、どうにかなるか」
「そう言う人ほど、休まないんだよね」
レオンが私を見る。
何か言い返すのかと思った。
けれど、彼は少し黙ってから、低く言った。
「俺がいる限り、安心して眠れ」
私は手元のお茶へ目を落とした。
前にも聞いた言葉だった。
あのときは、不安でいっぱいだった。
今は、疲れた顔の彼が言うから、胸の奥が別のふうに鳴った。
「……じゃあ、レオンが眠るときは?」
「あ?」
「誰が安心させてくれるの?」
彼は私を見たまま、動かなくなった。
少しして、杯へ手を伸ばす。
「そんなもん、いらねえよ」
水を飲んで、顔をそらした。
耳が、ほんの少し赤かった。
お酒のせいかもしれない。
*
煮込みの皿が空になった。
父が鍋を片づけ、母が入口近くの椅子を上げ始める。
私はレオンの前から皿を下げた。
「足りた?」
「ああ。うまかった」
「よかった。父さん、喜ぶ」
返事がない。
見ると、レオンは片肘をつき、目を閉じていた。
「レオン?」
「……聞いてる」
「お水、まだ飲む?」
「ああ」
杯へ水を注ぐ。
彼は手を伸ばしかけたけれど、そのまま止まった。
ゆっくりと、顎が下がる。
次の返事は、なかった。
私はしばらく、その横顔を見つめた。
「……レオン?」
静かな寝息が聞こえた。
厨房から出てきた父が、隣に立つ。
「寝たのか」
「うん。たぶん」
「早かったなあ」
父は少しかがんで様子を確かめ、声を落とした。
「ずいぶん疲れてたんだろう」
起きているときには大きく見える体が、椅子の上で少し丸くなっていた。
片手はカウンターの上。
指先には、力が入っていない。
私はその手を見た。
剣を握っていた手。
誰かを助け、魔物を倒して、帰ってきた手。
今はただ、木の上に置かれていた。
*
父が声をかけながら、腰の剣を外した。
レオンの眉がわずかに動いたけれど、目は開かなかった。
「ここに置きますよ」
すぐそばの、倒れない場所へ納める。
母は二階から厚手の毛布を持ってきた。
「椅子じゃ、首を痛めそうだね」
「奥の長椅子へ移せるかな」
父の言葉に、私はレオンの肩へ声をかけた。
「レオン。少しだけ、起きられる?」
返事はない。
もう一度呼ぶと、ようやく瞼が動いた。
「……何だ」
「こっち。横になれるから」
「帰る」
そう言いながら、立ち上がらない。
父と顔を見合わせた。
「帰る前に、少し休んでいってください」
父に肩を支えられると、レオンはようやく腰を上げた。
数歩先の長椅子へ移り、座る。
私が毛布を広げている間に、また目を閉じた。
「……もう、寝てる」
呟くと、母が小さく笑った。
「よっぽどだね」
靴を脱いでもらい、父と一緒に足を長椅子へ上げる。
少し窮屈そうだったけれど、カウンターよりは楽なはずだ。
私は毛布を胸元まで掛けた。
*
近くで見る寝顔は、思っていたより若かった。
眉間の力が抜けている。
大きな声で笑う英雄でも、私の前で言葉を探す人でもない。
疲れて、眠っている一人の人だった。
外では、まだ歌声がしていた。
誰かが英雄の名前を呼び、歓声が上がる。
その英雄は、うちの食堂の長椅子で眠っている。
私は毛布の端を、少しだけ直した。
「……安心して眠っていいのは、あなたもだよ」
返事はなかった。
寝息だけが、静かに続いていた。
*
「リーナ」
母が、小さな声で呼んだ。
「閉店の札、出しておいで」
「うん」
「今日はもう、寝かせてあげよう」
入口へ向かい、札を裏返す。
扉を閉めると、通りのにぎわいが遠くなった。
父が明かりを一つ落とした。
私は長椅子のそばに、水の杯を置いた。
目が覚めたとき、喉が渇いているかもしれない。
それから少し迷って、明日の献立を書いた帳面を持ってきた。
離れた席へ腰を下ろす。
静かな店内に、紙をめくる音がした。
いつもなら頼もしく見える背中に、今夜は毛布が掛かっている。
その端が、寝息に合わせてゆっくり動く。
私はしばらく眺めてから、帳面へ目を戻した。
明日のおすすめは、温かいスープにしよう。
起きたらきっと、また大丈夫だと言う人のために。
終わります!




