第6話 熱の向こうの、懐かしい人
あらあら!
最初は、仕込みの火が強すぎるのだと思った。
厨房に立っていると、頬が熱い。
それなのに、背中はぞくぞくした。
「リーナ、その皿、さっき拭いたよ」
母に言われて、私は手元を見た。
乾いた皿を、いつまでも布巾でこすっていた。
「あれ……」
「ちょっと、こっち向いて」
額に手が触れた。
母の表情が変わる。
「あなた。火、見てて」
呼ばれた父が振り返るより先に、私は椅子へ座らされていた。
「大丈夫。少し休めば」
「大丈夫な人は、そんな顔色してないよ」
言い返そうとして、咳が出た。
喉が痛い。
一度咳き込むと止まらなくなって、母が背中をさすってくれた。
厨房の隅で、鍋がことこと鳴っている。
まだ、昼の仕込みが終わっていない。
「玉ねぎ……」
「玉ねぎは逃げないから、黙って座ってなさい」
母の声が、少し遠く聞こえた。
*
冬霞熱。
ここ数日、王都で広がっている流行り病だった。
高い熱と悪寒。咳と、体の痛み。
治ったあともしばらく力が入らなくなる人がいるらしい。
市場の店が何軒か休んでいたのは知っていた。
食堂でも、窓を開ける回数を増やしていた。
それでも、かかるときはかかる。
治療院で診察を受けた私は、裏手の療養棟へ移された。
「しばらく、ここで休んでもらうね」
寝台の脇で、ユリウスが言った。
口元を薄い布で覆い、袖の上から白い保護衣を着ている。
「お店は?」
「今、お母さんに説明してる」
「私、帰れない?」
「今は、ほかの人にうつす可能性があるから」
「……そっか」
母も父も、接客をする。
家には店がある。
分かっているのに、知らない寝台に横になると、急に心細くなった。
ユリウスが掛け布を直した。
「何か必要なものは?」
私は少し考えた。
「……仕事をしなくていいっていう、お墨付き」
彼の目元が緩んだ。
「それなら、いくらでも出せる」
*
眠って、起きて、水を飲んだ。
それだけのことが、ひどく大変だった。
窓の外は明るいのに、手足が冷たい。
掛け布を引き寄せると、今度は暑くなる。
「インフルエンザみたい……」
呟くと、薬を持ってきたユリウスが頷いた。
「俺も、それに近いと思う」
「魔法で、ぱっと治ったり」
「熱を和らげたり、弱った体を助けたりはできる。でも、病気そのものを全部消せるわけじゃない」
「残念」
「本当にね」
杯を受け取ろうとすると、指に力が入らなかった。
ユリウスがすぐに底を支える。
「ゆっくり」
苦い薬だった。
飲み終わって顔をしかめると、彼が水を差し出した。
「昔より、薬を飲むの下手になってない?」
「今の薬のほうが苦いんだよ」
「それは、そうかもしれない」
彼は真面目に頷いた。
*
昼過ぎに、エミリアが来た。
淡い栗色の髪をまとめ、ユリウスと同じ保護衣を着ていた。
「こんにちは、リーナさん。具合はいかがですか?」
「……寝てるのに、疲れます」
「熱があると、そうですよね」
彼女は優しく笑って、私の額に手をかざした。
小さな光が指先に集まる。
首筋に張りついていた嫌な熱が、少し和らいだ。
「ここでは、頑張らなくて大丈夫ですよ」
その言い方が自然で、私は素直に頷けた。
ユリウスから、婚約者を紹介されたのは数日前だった。
エミリアは私が彼と同郷だと聞いて、懐かしい話ができる相手に会えてよかったと笑った。
前世のことをどこまで聞いているのか、私は知らない。
ただ、二人が一緒に働く姿を見ると、長く積み重ねてきたものがあるのは分かった。
「ユリウス、お昼は?」
「さっき食べた」
「パンだけじゃなくて?」
彼が黙った。
私は思わず笑い、すぐに咳き込んだ。
「ほら。笑わせないで」
「俺、まだ何も言ってないんだけど」
「言わなくても分かるから」
エミリアが水を取ってくれる。
私は両手で受け取って、少しずつ飲んだ。
*
夕方、廊下が慌ただしくなった。
新しく運ばれてきた人がいるらしい。
エミリアは呼ばれて席を立ち、ユリウスは私の脈を確かめた。
「もう少し、そばで様子を見るね。熱が高いから」
「うん」
扉は細く開けられたままだった。
職員の足音が行き来する。
遠くで桶のぶつかる音がして、誰かが湯を頼んでいた。
「みんな、忙しそう」
「少し、患者さんが増えてる」
「ユリウスも休んでね」
「今は自分の心配をして」
椅子に座った彼が、薬の時間を紙へ書き込む。
私はその横顔を見た。
「予防する薬、作ってるって聞いた」
「護息薬。俺だけじゃなくて、王都の治癒師や薬師で試してる」
「ワクチンみたいな?」
「目指してるのは、そういうもの。ただ、まだ確認することが多い」
「私も飲める?」
「今のリーナには、まず治療と休養」
「……もう少し早ければよかったな」
口にしてから、慌てて首を振ろうとした。
「違う。責めてるんじゃなくて」
「分かってる」
ユリウスは静かに答えた。
「俺も、そう思ってるよ」
紙を押さえる彼の手には、細かな文字がいくつも書きつけられていた。
手を洗うたびに薄れて、その上からまた書いたようだった。
*
「カイルは?」
聞くと、ユリウスが顔を上げた。
「衛生班と動いてる。療養所への案内とか、物資を運んだりとか」
「そっか」
「今日、お店へ寄ったらしい。お母さんから聞いて、こっちにも来たよ」
「来たの?」
「面会はできなかったけど」
枕元の小卓を示される。
そこには、小さな紙袋が置いてあった。
「喉にいい飴だって。食べられるようになったら渡してくれって」
袋には、見慣れない少し角張った字で名前が書かれていた。
リーナへ。
その下に、小さく。
ちゃんと寝ろ。
私は笑った。
「カイルも、寝てるといいけど」
「同じことを言っておく」
紙袋の横には、小さな花瓶があった。
黄色い花が二本挿してある。
「これは、エミリア?」
「うん。窓の外が見えにくいからって」
「……きれいだね」
ユリウスも花へ目を向け、頷いた。
「レオンは、まだ帰ってないんだっけ」
「東の討伐に出てる。数日は戻らないらしい」
私は掛け布の上で指を折った。
衛兵。
治癒師。
冒険者。
みんな、今日も働いている。
私だけ寝ているのが、少し申し訳なかった。
「リーナ」
考えていたことが分かったように、ユリウスが呼んだ。
「休むのが、今の仕事」
「……はい」
「返事が不満そう」
「仕事なら、得意なほうを選びたかった」
「選べません」
きっぱり言われて、私は口を閉じた。
*
日が傾くにつれて、熱が上がった。
節々が痛い。
寝返りを打つだけで、体の中がきしむようだった。
ユリウスが冷たい布を替えてくれる。
扉の向こうで誰かに声をかけられ、短く返事をしたあと、また椅子へ戻った。
「まだ、いてくれるの?」
「もう少し。交代の人が来るまで」
「忙しいのに、ごめんね」
「謝らなくていい」
冷たい布が額に触れた。
気持ちよくて、目を閉じる。
時間の流れが曖昧だった。
さっき話したことが、ずっと前のようにも思える。
「……昔さ」
「うん?」
「風邪って、人にうつすと治るって言ったよね」
ユリウスが小さく笑った。
「言ったね」
「今なら、おかしいって分かるけど」
「うん」
「治るなら、誰かに頼みたくなるね」
少し間があった。
「……うつしてみる?」
懐かしい軽口だった。
私は目を開けた。
ユリウスも、自分の言葉に気づいたように口を閉じた。
「ばか」
熱のせいか、声に力が入らない。
「奥さんに怒られろ」
「……まだ、奥さんじゃないよ」
「じゃあ、未来の奥さんに」
彼は困ったように笑った。
「そうだね」
椅子が、小さく鳴った。
少しだけ遠くなる。
私は天井へ視線を戻した。
「こんな話、してたね」
「何の話?」
「大学のとき。どうでもいい冗談」
「……してた」
「講義のあととか」
「帰り道とかね」
私は頷いた。
痛かった胸の奥が、今は静かだった。
あの頃の悠真と、目の前のユリウス。
懐かしい言葉は重なる。
でも、彼がこれから帰る場所には、エミリアがいる。
「リーナ」
「うん」
「眠れそう?」
「……少し」
「じゃあ、寝よう」
声が優しかった。
私は目を閉じた。
*
大学の門が見えた。
塀にもたれて、悠真が待っている。
私が手を振ると、スマートフォンをしまった。
「遅い」
「ごめん。資料が」
「知ってる」
差し出された手を握る。
温かかった。
どこへ行くのか聞こうとしたら、悠真が笑った。
近い。
そう思った。
唇に、柔らかな感触が触れた。
ほんの一瞬。
知っている気がした。
胸がきゅっとして、それから、ゆっくりほどけていく。
目は開けなかった。
*
「……水、ここに置いておきます」
声が聞こえた。
少し離れた場所で、ユリウスが誰かに話している。
「薬は次の鐘のあとに。熱が下がらなければ、先生を」
「分かったわ。あなたも休んで」
年配の女性の声が返った。
椅子を戻す音。
足音。
扉が静かに動いた。
私は眠ったまま、その音を聞いていた。
*
翌朝、窓の光で目が覚めた。
額の布は、いつの間にか外されていた。
昨日より、息がしやすい。
体を起こそうとすると、まだふらついたけれど、頭の奥にあった重さは薄くなっていた。
「おはようございます」
エミリアが入ってきた。
「……おはようございます」
「熱、下がりましたね」
額へ手をかざし、彼女が微笑む。
「よかった。今日は少し、食べられそうですか?」
私はお腹へ手を当てた。
小さく鳴った。
エミリアと目が合う。
二人で笑った。
「食べられそうです」
「では、お粥を持ってきますね」
彼女が小卓を整える。
花瓶の水が替わっていた。
カイルの紙袋も、水の杯も、手の届く場所にある。
私は、そっと唇に触れた。
夢の感触が、まだ少し残っていた。
「どうしました?」
エミリアに聞かれ、首を振る。
「懐かしい夢を見たんです」
「いい夢でした?」
少し考えた。
それから、頷いた。
「はい」
*
熱が下がっても、すぐには帰れなかった。
咳が落ち着くまで休み、食事を取り、廊下を少し歩く。
最初は窓まで行くだけで疲れた。
母が持ってきてくれた着替えには、家で使っている石鹸の匂いがした。
カイルからは、もう一枚、紙が届いた。
退院したら荷物は俺が持つ。
その下に、念を押すように書いてあった。
じゃがいもも。
私は寝台の上で笑った。
ユリウスは回診のときに、エミリアやほかの職員と一緒に顔を出した。
「食べられてる?」
「今朝は、おかわりした」
「なら、順調」
短いやり取り。
それで、十分嬉しかった。
*
一週間後、ようやく家へ帰れることになった。
着替えの包みを抱え、療養棟の入口へ立つ。
久しぶりの外の空気は、少し冷たかった。
「最初の二日は、軽い仕事だけですよ」
エミリアが言った。
「重い物も、まだ持たないでください」
「はい」
「返事だけじゃなくて」
隣のユリウスが付け足す。
私は二人を見た。
「……同じこと言うんですね」
エミリアが笑った。
「私も、この人に何度も言っているので」
「今、その話する?」
「今だからです」
二人のやり取りを聞きながら、私は包みを抱え直した。
ちゃんと頭を下げる。
「お世話になりました。二人とも」
「元気になってよかったです」
エミリアが答えた。
ユリウスも頷いた。
「また、店に食べに行くよ」
「うん。二人で来てね」
その言葉は、思っていたより自然に出た。
エミリアが嬉しそうに、隣の彼を見る。
「約束ですよ。休み、合わせましょうね」
「うん」
私は笑って、手を振った。
*
家へ帰る途中、パン屋の前を通った。
焼きたての札が出ている。
甘い匂いに、足が止まった。
クリームの入ったパン。
辛い具を包んだ揚げパン。
並んだ二つを見て、少しだけ笑う。
「今日は何にする?」
店のおかみさんが声をかけた。
私は棚を見渡した。
「りんごのパン、ください」
一つ受け取って、両手で包む。
まだ温かかった。
帰ったら、お茶をいれよう。
母の小言を聞いて、父の仕込みを眺めながら、今日は座って食べよう。
私はパンをつぶさないように持ち直して、家へ向かって歩き出した。
まーまー




