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生まれ変わったこの街で、もう一度恋をする  作者: 凡夫 成


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第5話 あの手の、その先

始まります


 じゃがいもは、袋に入ると急に重くなる。


 市場で一つずつ選んでいたときは、もう少し買っても大丈夫だと思った。


 玉ねぎも同じだった。


 帰り道、私は左右の手に提げた袋を見比べた。


 どちらを持ち替えても、重いものは重い。


「……買いすぎた」


 父に頼まれた分に加えて、安くなっていたにんじんまで買ったのがよくなかった。


 レオンと会った翌朝。


 市場はいつもどおりのにぎわいだった。


 荷車を引く人が通り、店先では焼きたてのパンが並べられている。


 あの人も、もう起きているのだろうか。


 カイル。


 その名前を心の中で呼んでみる。


 晴斗、と呼ぶと、半袖のシャツを着た男の子が浮かぶ。


 カイル、と呼ぶと、あの日、人混みの向こうで笑った衛兵さんの顔になる。


 同じ人なのに、まだうまく重ならなかった。


「おい。そのままだと底、抜けるぞ」


 横から声がした。


 顔を上げる。


 衛兵の制服。


 腰の剣。


 私よりずっと高いところにある顔。


 カイルが、袋の底を指さしていた。


「そっち。濡れてるだろ」


「あ……本当だ」


 玉ねぎの袋に、湿った跡が広がっていた。


 隣の露店から流れた水が、いつの間にか染みたらしい。


「ちょっと貸してみ」


 彼が手を差し出す。


 私はその手を見た。


 大きい。


 指の付け根には硬そうな跡があって、甲には細い傷が一本あった。


 胸が、強く鳴った。


「……晴斗?」


 差し出された手が止まる。


 カイルが私を見た。


 ほんの一瞬、笑うのを忘れたような顔をした。


 それから、片方の口元が上がる。


「やっと、分かった?」


 私は頷こうとした。


 でも、その前に目の奥が熱くなった。


「おい」


 カイルが少し慌てる。


「ここで泣くなよ。俺、何かしたみたいだろ」


「……してない」


「じゃあ、ほら。荷物」


 返事をする間に、両手の袋を取られた。


「あ、それ重い」


「知ってる。見りゃ分かる」


 彼は近くの露店へ声をかけ、丈夫な空き袋を一枚もらった。


 濡れた袋ごと包み直す。


 手際よく持ち上げてから、私を見た。


「少し、歩けるか」


 私は、何度も頷いた。


     *


 市場の裏手に、小さな広場があった。


 噴水の縁には、買い物途中の人が腰を下ろしている。


 カイルは木陰のベンチへ荷物を置いた。


「座る?」


「うん」


 隣に腰を下ろす。


 近くで見ると、やっぱり知らない顔だった。


 でも、私が黙っていると、彼は首を傾げた。


「そんなに見るなよ」


「……だって」


「男前になった?」


 思わず笑ってしまった。


 カイルが、ほっとしたように息をつく。


「そっちの顔のほうがいい」


 その言葉に、また泣きそうになった。


 私は膝の上で手を握った。


「本当に、晴斗なんだね」


「ああ」


「会えると思ってなかった」


「俺も」


 カイルは広場の向こうを見た。


「パレードの日、お前の声を聞いてさ。まさかと思った」


「声?」


「礼を言っただろ。あのときの言い方が、何か似てて」


「顔は違うのに」


「顔も違うし、ちっこかったお前が大人になってるしな」


「晴斗だって」


 私が言うと、彼は自分の胸元を見下ろした。


「まあ、そうだな」


「……大きくなったね」


 口にしてから、変なことを言ったと思った。


 カイルが吹き出す。


「親戚のおばちゃんかよ」


「違う。そうじゃなくて」


「分かってる」


 笑いながら、彼は私を見た。


 その目が、少しだけ優しくなる。


「お前もな」


 私は俯いた。


 あの夏の先に、こんな会話があるなんて知らなかった。


     *


「レオンから聞いた?」


 カイルが尋ねた。


「うん。昨日の夜」


「あいつ、ちゃんと話せたか」


「ちゃんとって?」


「いや。……何でもない」


 彼は笑って首を振った。


「会いに行くつもりだったんだ。勤務が変わって、ちょっと立て込んでさ」


「聞いた。忙しかったんでしょう?」


「夜勤が続いただけ。今日は上がり」


「え。じゃあ、今から寝るところ?」


「帰ったらな」


 私は彼の顔を見た。


 よく見ると、目元に少し疲れがある。


「ごめん。引き留めちゃった」


「俺が歩けるかって聞いたんだろ」


「でも」


「眠くなったら寝る。今は、もう少し話したい」


 さらりと言われて、返事が遅れた。


 カイルは気づかず、噴水へ目を向けた。


「俺、今は二十五」


「五つ上なんだね」


「やっと敬ってくれる?」


「昔から敬ってたよ」


「嘘つけ。俺のこと、何回たたいたと思ってんだ」


「晴斗がいたずらするからでしょ」


「ああ。なら、しょうがねえな」


 反省していない言い方だった。


 私は笑った。


 彼も笑う。


 ほんの少しの間、小学校の帰り道に戻ったような気がした。


     *


「どうして、衛兵になったの?」


 腰の剣へ目を向けると、カイルは柄に軽く触れた。


「昔の俺なら、冒険者だと思った?」


「うん。危ないところに、真っ先に走っていきそう」


「ひでえな」


「違う?」


「……否定はしねえけど」


 彼は前を向いたまま、少し黙った。


 噴水の水が、一定の音を立てていた。


「死んだときさ」


 低い声に、私は顔を上げた。


「寂しかったんだよな」


 カイルは足元を見ていた。


「何が起きたか、ちゃんと分かってたわけじゃない。でも、もう帰れないのかなって思ったら」


 そこで、言葉を切った。


 私は黙って待った。


「母さん、怒ってるかな、とか。明日の約束、どうしようとか」


 膝の上の指が動いた。


 私も、あの約束を覚えている。


「お前、待ってるだろうなって」


 喉の奥が詰まった。


「……待ってたよ」


「うん」


「次の日も」


 カイルは目を閉じた。


 少しして、ゆっくり開く。


「だからかな。こっちで仕事を決めるとき、衛兵もいいなって思ったの」


「だから?」


「誰かが帰ってくるのを待ってる家って、あるだろ」


 広場の端で、子どもが母親へ駆け寄った。


 カイルはそちらを見ながら続けた。


「道で揉めてるやつを止めて、迷子を家に届けて。門の外へ出ることもあるけど……そうやって、一日終わればいいかなって」


 私は、彼の横顔を見つめた。


 あの頃の晴斗は、遠くへ行きたがった。


 塀の向こう。坂の上。立入禁止の看板の先。


 今のカイルは、誰かを家へ帰す仕事をしている。


「似合ってるね」


 彼がこちらを見る。


「衛兵の仕事」


 カイルは少し困ったように笑った。


「制服が?」


「そういう話じゃないよ」


「分かってる」


 その笑顔に、胸の奥がゆっくり温かくなった。


     *


「今、食堂で働いてるんだって?」


「うん。家族の店」


「レオンが言ってた。《麦の灯》だろ」


「知ってる?」


「前、同僚がうまいって言ってたな。俺はまだ入ったことない」


「じゃあ、来てよ」


「行く」


 迷いのない返事だった。


 嬉しくなって、私は少し身を乗り出した。


「煮込みがおすすめ。あと、父さんの揚げ物も。昨日はパンが足りなくなったんだけど――」


 そこまで話して、思い出す。


「そうだ。レオンも、今日来るかもしれない」


「へえ」


「煮込みのこと聞かれたから」


「あいつが」


 カイルは何か考えたあと、小さく笑った。


「何?」


「いや。飯くらい、自分で食いに行けるよなと思って」


「英雄って、行くお店も決まってるの?」


「そういうわけじゃない」


 彼は笑ったまま、私を見る。


「リーナは?」


「何が?」


「恋人、いるの」


 急に聞かれて、私は瞬きをした。


 カイルは膝に肘をつき、何でもない質問みたいにこちらを見ている。


「……今はいないよ」


「今は?」


「去年、別れた」


「そうか」


 彼の肩が、ほんの少し下がった。


 私は首を傾げた。


「カイルは?」


「俺もいない」


「そうなんだ」


「何。その意外そうな顔」


「だって、頼りになりそうだから」


「なりそう、かよ」


「頼りになった。今日も、この前も」


 言い直すと、彼は急に口を閉じた。


 それから顔をそらして、鼻の頭を軽くこする。


「……そりゃ、どうも」


 今の返事は、少しだけ小さかった。


     *


 噴水の向こうを、二人の衛兵が歩いてきた。


 こちらに気づき、一人が手を上げる。


「カイル! まだ帰ってなかったのか」


「今から帰る」


「ちゃんと寝ろよ。明後日は西門の外だろ」


「ああ。分かってる」


 もう一人が、私へ軽く会釈した。


「お邪魔しました」


「してねえよ」


 笑い声を残して、二人は通りへ戻っていった。


 私はカイルを見た。


「門の外にも行くんだね」


「巡回や、荷馬車の護衛でな」


「魔物も出る?」


「出るときは」


 彼は私の顔を見て、言葉を足した。


「一人じゃ行かない。ちゃんと準備もする」


「……うん」


 危ないことはしないで。


 言いかけて、飲み込んだ。


 危ない場所へ行くのも、彼の仕事なのだ。


 カイルは少しの間、私を見ていた。


 さっき恋人のことを尋ねたときとは違う、静かな目だった。


「リーナ」


「うん?」


 彼の口が開いた。


 私は続きを待った。


 けれど、カイルは足元の荷物を持ち上げた。


「……店、案内して」


     *


「一つは自分で持つよ」


「底が抜けかけてる」


「じゃあ、こっちのじゃがいも」


「もう持った」


「カイル、夜勤明けでしょう」


「リーナも、これから仕事だろ」


 言い返せなくなった。


 彼は両手に袋を提げて、私の隣を歩いている。


 市場へ向かう人たちとすれ違うたび、少し体の向きを変えて荷物をよけた。


 制服の袖がまくられ、腕の筋が動く。


 私は自分の空いた手を見た。


 小学生の頃は、晴斗に手を引かれてばかりだった。


 速すぎると怒ると、彼は少しだけ遅くなる。


 でも、面白いものを見つければ、すぐ走り出した。


 今のカイルは、先へ行かない。


 私が足を緩めると、自然に隣にいる。


「どうした?」


「ううん」


「腹減った?」


「何でそうなるの」


「昔、腹減ると急に静かになってた」


「それ、覚えてなくていいよ」


 笑いながら曲がり角へ来た。


 荷車が通り過ぎるのを待つ。


 カイルが、車輪と私の間に立った。


 大きな肩で、向こう側が見えなくなる。


 その瞬間、胸が小さく跳ねた。


 懐かしい、とは少し違う気持ちだった。


     *


「ただいま」


 店へ入ると、母がカウンターから顔を上げた。


 私を見て、カイルを見て、両手の袋へ目を落とす。


「あら。お手数をおかけしました」


「市場で会ったので。袋が破れそうになってて」


「だから、一度に買いすぎるんじゃないって言ったのに」


「今日は言われてないよ」


「いつも言ってるでしょう」


 カイルが横で笑った。


 私は少し恨めしく彼を見る。


「何?」


「いや。お前んちだなって」


「どういう意味」


「にぎやかで、いい」


 その言い方が優しくて、私は返事に迷った。


 母が荷物を受け取り、厨房へ声をかける。


「あなた、衛兵さんが手伝ってくださったよ」


 父が顔を出す。


「そりゃ、ありがとう。何か食べていくか」


 カイルが私を見る。


 私は頷いた。


「まだ朝のスープ、あるよ。食べてから帰ったら?」


「……じゃあ、いただこうかな」


 窓際の席へ案内する。


 椅子に座ったカイルは、店内をゆっくり見回した。


「ここで働いてるんだな」


「うん」


 私は水を置いた。


「どう?」


「いい店」


「まだ何も食べてないのに」


「じゃあ、食べてからもう一回言う」


 彼が笑った。


 私は厨房へ戻り、スープをよそった。


 パンを添えて、少し考える。


 夜勤明けなら、お腹もすいているかもしれない。


 もう一切れ載せようとしたところで、母が隣から皿をのぞいた。


「今日は、パンが多いねえ」


「働いたあとだから」


「そう」


 母はそれだけ言って、口元を緩めた。


 私はお盆を持って、窓際へ向かった。


     *


「お待たせ」


「ありがと」


 カイルがスプーンを手に取った。


 一口食べて、目を細める。


「うまい」


「よかった」


「いい店だな」


「約束、守ったね」


 私が笑うと、彼も笑った。


 窓から朝の光が差している。


 彼はここに座っていて、温かいスープを食べている。


 私はその前に立っている。


 夢みたいだと思った。


 でも、空になっていくお皿も、彼がパンをちぎる音も、ちゃんとここにあった。


     *


 食事を終えたカイルは、代金を置いて立ち上がった。


「今日は、帰って寝る」


「うん。ちゃんと休んでね」


「また来ていい?」


「もちろん。次は煮込みを食べて」


「分かった」


 扉のところで、彼が振り返る。


 名前を呼ばれる気がして、私は顔を上げた。


 カイルは何かを言いかけた。


 少しだけ迷って、それから笑う。


「じゃあ、またな。リーナ」


「またね、カイル」


 扉が閉まる。


 ガラス越しに見えた彼が、片手を上げた。


 私も手を振り返した。


 姿が見えなくなるまで待ってから、窓際の席へ戻る。


 お皿は、きれいに空になっていた。


 重ねて持ち上げようとして、私はふと頬に触れた。


 少し熱い。


 会えて嬉しかったから。


 泣きそうになったから。


 そう思いながら、荷車の横で私をかばった、大きな肩を思い出していた。

終わりー

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