第4話 英雄様は、目を合わせない
始まります!
ユリウスと再会してから、五日が過ぎた。
あれからも治療院へ料理を届けに行ったけれど、ゆっくり話す時間はなかった。
廊下ですれ違って、挨拶をする。
「今日は、もう食べた?」
「今から」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
そんな短いやり取りだけ。
それでも、帰り際に手を振れる人が増えたことが、嬉しかった。
ユリウスには、この世界で結婚を約束した人がいる。
私にも、ここで暮らしてきた二十年がある。
まだ少し胸は痛むけれど、次に会ったら何を話そうと考えられるくらいには、落ち着いていた。
*
「リーナ、これを《銀の杯》まで頼めるか」
夕方の混雑がようやく落ち着いた頃、父が大きな包みをカウンターへ置いた。
「配達?」
「ああ。向こうの火の魔道具が壊れたらしい。直るまで、料理を少し回してほしいって」
「分かった。代金は?」
「向こうで受け取ってくれ」
包みを抱えると、煮込みの温かさが腕に伝わった。
母が入口から外を確かめる。
「大通りを通るんだよ。届けたら、まっすぐ帰っておいで」
「はーい」
若き王アオキスが即位してから、夜の王都はずいぶん歩きやすくなった。
それでも、明かりのある道を選ぶのは昔からの習慣だった。
*
夜のエドキオには、昼間とは違う匂いがする。
炭火で焼く肉。甘い果実酒。店先で焚かれた香。
魔道灯の下を、仕事帰りの人たちが歩いていた。
《銀の杯》の入口には、華やかな服をまとった女性たちが集まっている。
近くの娼館で働く人たちだ。うちの食堂にも来てくれるので、何人かは顔を知っていた。
「この国で安心して暮らしたくば、俺と付き合え!」
よく通る声に、私は顔を上げた。
女性たちの真ん中で、黒髪の男性が杯を掲げていた。
レオン・グラディス。
五日前、パレードで見た英雄だった。
「まあ、頼もしい。じゃあ今夜は、私と?」
「抜け駆けしないでよ。先に誘ったのは私」
「慌てるな。順番に話くらい聞いてやる」
隣の女性に腕を絡められ、反対側からは肩を叩かれている。
それを少しも気にせず、レオンは楽しそうに笑っていた。
「付き合わなくても守ってくれるんでしょうね?」
「当たり前だろ」
「それなら、返事はまた今度」
「つれねえな。今夜こそいい返事が聞けると思ったんだが」
女性が彼の胸を軽く叩く。
レオンはその手を受け止め、何かを耳元で言った。
途端に、彼女が声を上げて笑う。
私は少し足を緩めた。
英雄様というのは、討伐以外でも忙しいらしい。
「あら、リーナちゃん」
女性の一人が私に気づいた。
「こんばんは。お料理、届けに来ました」
「助かるわ。さっきからお腹が鳴っちゃって」
「聞こえなかったぞ」
レオンが口を挟む。
「聞こえても黙ってるのがいい男よ」
「難しい注文だな」
笑いながら顔を向けた彼と、目が合った。
杯を持つ手が止まる。
口元に残っていた笑みが、ふっと消えた。
「……こんばんは」
私が言うと、レオンは一度だけ頷いた。
「ああ」
さっきまでの声より、ずっと低かった。
女性に絡められていた腕を、そっと抜く。
そして私の顔を見たかと思うと、すぐ横の看板へ視線をそらした。
まただ。
パレードのときと同じ。
「レオン?」
隣の女性が、不思議そうに顔をのぞき込む。
「知り合い?」
「……ああ」
彼は短く答えた。
その返事に、胸のどこかが引っかかった。
大学の教室。
落とした資料を拾ってくれた、大きな手。
友達には普通に話すのに、私に向き直ると言葉が少なくなった人。
顔は違う。
体格も、声の響きも。
でも、目をそらすときの仕草を、私は知っている気がした。
「……黒瀬、くん?」
レオンが私を見た。
今度は、そらさなかった。
彼は杯を近くの樽へ置くと、人差し指を唇へ当てた。
しー、と。
私は包みを抱えたまま、息をのんだ。
*
「親父、奥を借りるぞ」
レオンが店内へ声をかけた。
酒場の主人が顔を出すより早く、女性の一人が口笛を吹いた。
「おや。今夜はずいぶん地味目だねえ」
私は自分の服を見下ろした。
仕事用のブラウスに、長いスカート。出る前にエプロンは外したけれど、袖口には少し小麦粉が残っている。
「その娘じゃ、あんたの相手はもたないだろ」
「レオン、少しは手加減しておやりよ」
笑い声が重なった。
一拍遅れて意味が分かり、頬が熱くなる。
「違う。そういうんじゃねえ」
レオンが言った。
さっきまでなら、笑って何か言い返しそうだった。
けれど今は、妙に真剣な顔をしている。
「あら。いつから説明するようになったの?」
「だから、話をするだけだ」
「誰も、話をしないなんて言ってないわよ?」
レオンは口を開いた。
閉じた。
それから私を見る。
「……本当に、話だけだ」
「うん。聞こえてるよ?」
「いや、お前に……」
そこで、また止まった。
女性たちが顔を見合わせる。
「へえ?」
さっき腕を絡めていた女性が、ゆっくり笑った。
「レオン。こっちをご覧よ」
「何だ」
「耳、赤いわよ」
「うるせえ」
「いつもみたいに言えばいいじゃない。『朝まで帰さねえぞ』って」
「言ってねえだろ、そんなこと」
「似たようなことは言ったわね」
「頼むから、黙ってろ」
その声があまりに切実で、女性たちは一斉に笑い出した。
私はますます、どうしていいか分からなくなった。
レオンが一歩、私の横へ移る。
大きな体で、女性たちの視線を少し遮るように。
「……気にしなくていい」
私に向けた声は、急に静かだった。
「悪気はない」
「うん」
「嫌なら、ここでもいい。お前が……話せる場所で」
私は彼を見上げた。
華やかな女性たちに囲まれていたときとは、まるで様子が違う。
私と話すだけで、そんなに気を遣わせているのだろうか。
「大丈夫。私も聞きたいことがあるから」
そう答えると、彼の肩がわずかに下がった。
「……分かった」
「その前に、これを渡してもいい?」
抱えていた料理を示す。
レオンは包みを見て、それから私を見た。
「ああ。そうだったな」
「英雄様、しっかりなさいよ」
背後から声が飛び、彼は振り返らずに片手を上げた。
*
料理を渡し、代金を受け取ってから、奥の小部屋へ向かった。
入口で、顔見知りの女性が私の袖を軽く引いた。
「ごめんね、リーナちゃん。からかいすぎた」
「いえ……びっくりしただけです」
「嫌なら、いつでも出ておいで」
彼女はそう言ってから、レオンへ目を向けた。
「その娘を困らせたら、うちにご飯届けてもらえなくなるんだからね」
「分かってる」
「本当に分かってる顔ねえ」
「……もういいだろ」
また笑い声が起きた。
レオンは扉を開け、私が入るのを待った。
自分は廊下に立ったまま、尋ねる。
「閉めていいか」
「うん」
扉が閉まると、にぎやかな声が少し遠くなった。
*
小さな丸テーブルを挟んで座る。
レオンは水差しを取り、杯へ水を注いだ。
差し出しかけて、なぜか手を止める。
それから私の目の前へ、そっと置いた。
「……水でいいか」
「ありがとう」
指が触れたわけでもないのに、彼はすぐに手を引っ込めた。
さっきは女性の手を平気で握っていたのに。
私は杯を両手で包んだ。
「黒瀬くん、なの?」
「ああ」
彼が頷く。
「黒瀬朔。前はな」
名前を聞くと、教室の景色が浮かんだ。
窓際の机。
床に散らばった資料。
別に、と短く返していた声。
「本当に……?」
「朝倉陽菜」
彼が私の名前を言った。
「合ってるよな」
「うん」
レオンは長く息を吐いた。
それから、またテーブルへ目を落とした。
私は少し笑ってしまった。
「何だ」
「ううん。やっぱり黒瀬くんだなって」
「……そうか」
「私と話すとき、そんな感じだった」
彼の眉が、わずかに寄る。
嫌だったのかな、と不安になったところで、彼が口を開いた。
「今は、レオンでいい」
「あ、うん。私もリーナで」
「分かった」
名前を変えると、目の前の彼が少し近くなった。
思い出の教室から、今いる部屋へ戻ってきた気がした。
「パレードのとき、気づいてたの?」
「ああ」
「顔、全然違うのに?」
「鑑定が使える」
レオンはようやく私を見た。
「物の性質や、人の持ってる力が分かる。使い方によっては、魂に残った名前も」
「前世の名前?」
「ああ。誰にでも見えるものじゃないが」
私は自分の胸元へ目を落とした。
ここに、陽菜という名前が残っているのだろうか。
「じゃあ、顔に何かついてたわけじゃないんだ」
「は?」
「急に目をそらされたから。変な顔してたかなって」
「してない」
返事は早かった。
それきり黙るので、私は水を一口飲んだ。
「レオンは、いくつ?」
「三十五」
「三十五!?」
「……そんなに驚くか」
「だって、同級生だったのに。私、二十歳だよ」
「こっちへ来る順番は、同じじゃないらしい」
十五年。
改めて彼を見る。
大きな手には古い傷があり、腰の剣の柄は使い込まれていた。
私が子どもだった頃には、もう彼は大人だったのだ。
「ずっと冒険者を?」
「十六から」
「長いね」
「気づいたらな」
「英雄になるの、大変だった?」
レオンが少し考える。
「なろうと思ってなったわけじゃない。依頼を受けて、帰ってきて、また次の仕事をしてたら、そう呼ばれるようになった」
「仕事なんだね」
「ああ。討伐が終わっても、報告が残る」
「英雄も報告書、書くんだ」
「むしろ増えた」
思わず笑うと、彼も少し口元を緩めた。
「世界が変わっても、仕事が終われば疲れるのは同じなんだね」
「……そうだな」
彼の肩が、ようやく椅子の背についた。
*
「レオン以外にも、転生した人っている?」
「いる。知ってるだけでも何人か」
「やっぱり、そうなんだ」
私が言うと、彼は視線を上げた。
「誰かに会ったのか」
「うん。五日前に。前の……大学の知り合い」
恋人、と言いかけてやめた。
今のユリウスを説明する言葉として、それを先に出すのは少し違う気がした。
レオンは何も聞かなかった。
「鑑定で分かっても、勝手には話さない。前のことを知られたくないやつもいるからな」
「そうだよね」
私も毎日、陽菜として暮らしているわけではない。
母に呼ばれればリーナとして振り返るし、父の煮込みの味にほっとする。
この世界で好きになったものも、大切な人もいた。
「……カイルには、会ったか」
レオンが尋ねた。
「カイル?」
「衛兵だ。背の高い」
「あ、あの人!」
私は顔を上げた。
「パレードの日に、パンがつぶれないように通してくれた」
レオンが頷いた。
「知り合いなの?」
「ああ」
「不思議だったんだよね。初めて会ったのに、笑った顔が……」
そこで、言葉が止まった。
レオンの顔を見る。
彼は、私の続きを待っていた。
「……まさか」
杯を持つ指に、力が入る。
「前の名前、知ってるの?」
レオンは一度だけ頷いた。
「本人も、お前に会いたがってる。店へ行くって言ってたが、急に勤務が変わってな」
私は息を吸った。
うまく吸えなかった。
「名前は?」
「瀬戸晴斗」
椅子の上で、膝が動いた。
立ち上がろうとしたのかもしれない。
でも、足には力が入らなかった。
あの笑顔。
片方だけ上がる口元。
パンは無事かと尋ねた、少しふざけた声。
「……晴斗」
名前がこぼれた。
もう一度呼ぶと、目の奥が熱くなった。
「あいつも、気づいたらしい。声を聞いて、顔を見て」
「でも、何も……」
「仕事中だったし、確信も持てなかったそうだ」
私は両手で口元を押さえた。
生きている。
大人になって、働いて、あの街角で笑っていた。
私が知らないままになっていた、その先の晴斗がいる。
「会える?」
「ああ」
「……明日も、いる?」
レオンが私を見た。
すぐに、頷く。
「いる。明日も、王都にいる」
私は下を向いた。
涙が落ちそうになって、慌てて袖で押さえる。
向かいで椅子がきしんだ。
けれど、レオンは近づいてこなかった。
水差しだけが、静かに私のそばへ寄せられた。
*
「……ごめんね」
しばらくして顔を上げると、レオンは閉じた扉を見ていた。
私の声に、こちらへ向き直る。
「落ち着いたか」
「うん。ありがとう」
「あいつには、もう一度伝えておく」
「仕事の邪魔にはならない?」
「休みくらいある」
その言い方がおかしくて、私は少し笑った。
「そうだね。衛兵さんにも休みはあるよね」
「ああ」
胸元へ手を当てる。
ユリウスに会った。
レオンに会った。
晴斗も、ここにいる。
嬉しいのに、胸の中が落ち着かなかった。
「……また、いなくなったらどうしよう」
言ってから、顔を上げた。
「ごめん。変なこと」
「変じゃない」
レオンは、今度は目をそらさなかった。
「俺がいる限り、王都は無事だ」
静かな声だった。
「安心して暮らせ」
酒場の入口では、大きな声で似たようなことを言っていた。
でも、今は笑っていない。
返事を急かすこともなく、私を見ていた。
私はゆっくり息を吐いた。
「……ありがとう」
「困ったら、ギルドに言え。俺に伝わる」
「忙しいでしょう?」
「飯を食う時間はある」
「ご飯?」
彼の視線が、テーブルへ下がった。
「……食堂で働いてるんだろ」
「うん。《麦の灯》っていうの」
「場所は」
「中央大通りから、二本入ったところ」
「分かった」
そこで会話が止まる。
誘ってくれたのだろうか。
それとも、来てくれるのだろうか。
私が考えている間に、レオンは立ち上がった。
「送る。遅くなった」
*
部屋を出ると、入口近くにいた女性たちが一斉にこちらを見た。
「まあ、お早いお戻りで」
「本当に話だけ?」
「そう言っただろ」
レオンが短く返す。
一人が私の顔を見て、笑みを引っ込めた。
「……あら。大丈夫?」
目が赤かったのかもしれない。
私は慌てて頷いた。
「はい。懐かしい話をしていたので」
「そう」
彼女はそれ以上聞かなかった。
代わりに、レオンの腕を軽く叩く。
「ちゃんと家まで送るのよ」
「分かってる」
「今夜はやけに聞き分けがいいじゃない」
「……またな」
その背中に、明るい笑い声が追いかけてきた。
*
夜風が、熱の残る頬に心地よかった。
レオンは私の隣を、少し間を空けて歩いた。
通りの向こうから、女性が手を振る。
「レオン! 帰ってたの?」
「ああ。店、まだ開いてるか」
「今夜は遅くまでね。寄っていきなよ」
「また今度、顔を出す」
自然な返事だった。
その女性を見送ったあと、私はレオンを見上げた。
「顔が広いんだね」
「長くいるからな」
「私と話すときと、全然違う」
彼の足が一瞬、遅くなった。
「……そうか」
「うん。私、何か話しにくいこと言ってる?」
「違う」
すぐに返ってくる。
でも、その先はなかった。
前から歩いてきた酔客が、足をもつれさせた。
レオンの手が私の背へ伸びかける。
触れる前に止まり、代わりに彼自身が一歩前へ出た。
「気をつけろ」
「お、おう。悪い」
酔客が通り過ぎる。
レオンは何事もなかったように、また隣へ戻った。
「……ありがとう」
「ああ」
気軽に誰かの肩を抱ける人なのに、私には触れようとしない。
嫌われている感じはしなかった。
それが、かえって不思議だった。
*
《麦の灯》の窓から、明かりが漏れていた。
厨房では父が鍋を動かし、母がテーブルを拭いている。
「ここだよ」
レオンが看板を見上げた。
「上が家か」
「うん。家族で住んでる」
「そうか」
私は扉に手をかけた。
「送ってくれてありがとう。何か食べていく?」
レオンは店内を見た。
父と目が合い、軽く会釈する。
「今日は、戻る」
「お仕事、残ってる?」
「ああ」
彼は一歩下がった。
でも、帰らなかった。
外套の端を指で直し、看板をもう一度見る。
「……煮込みは」
「え?」
「今日、届けてたやつ」
「ああ。うちの定番だよ。明日もある」
「そうか」
私は少し考えてから、扉を開けた。
「お昼を少し過ぎると、座りやすいよ」
レオンが私を見る。
「来るなら、そのくらいがおすすめ」
「……分かった」
口元が、わずかに緩んだ。
大勢の中で見せていた笑顔よりも、ずっと小さい。
「じゃあ、またな。リーナ」
「うん。またね、レオン」
店へ入ると、母が布巾を置いた。
「おかえり」
「ただいま。遅くなってごめん」
「送ってもらったんだね」
「うん。前から知ってる人で」
父まで厨房から顔を出した。
「今の、レオン・グラディスだろ?」
「明日、ご飯を食べに来るかもしれないって」
父の手が止まった。
母は窓の外を見て、それから私へ視線を戻した。
「……あら、そう」
妙にゆっくりした返事だった。
「何?」
「何でもないよ。ほら、手を洗っておいで」
私は頷き、もう一度だけ窓を見た。
レオンが通りを戻っていく。
さっきまで隣にあった大きな背中が、どんどん遠くなる。
あんなに歩くのが速い人だったんだ。
私は自分の足元を見て、それから、もう一度彼の背中を見送った。
終わります!




