第3話 あの頃の続きと、今の私たち
始まります!
「……悠真?」
名前を呼ぶと、ユリウスは泣きそうな顔で笑った。
「うん」
たったそれだけの返事だった。
聞きたいことは、たくさんあった。
いつからここにいるのか。どうして治癒師になったのか。私のことを、いつから疑っていたのか。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「さっきの卵焼き」
「え?」
「取ったの、悠真のほうだよ」
ユリウスが目を丸くした。
「……そうだった」
「私が唐揚げをもらって、交換だって」
「うん」
「最後に食べようと思ってたのに」
「それ、あのときも言ってた」
彼が笑った。
つられて私も笑おうとして、うまくできなかった。
頬を涙が伝った。
「あれ……」
慌てて拭う。
一度拭いても、また落ちてくる。
ユリウスが手を伸ばしかけて、途中で止めた。それから服のポケットを探り、白いハンカチを差し出した。
「これ」
「……ありがとう」
受け取った布を目元に当てる。
きちんと畳まれていて、薬草の匂いが少しした。
「会えた」
自分で言って、ようやく実感した。
「本当に、会えたんだね」
彼は何度も頷いた。
*
薬の確認を終えたユリウスは、年配の治癒師に声をかけていた。
「すみません。少し、休憩をいただいてもいいですか」
「今から取るところだったろう。弁当も食べなさい」
白髪の女性は、私たちを一度見比べた。
何も聞かず、中庭へ続く扉を開けてくれる。
「風があるから、上着を持ってね」
中庭には薬草の鉢が並び、その奥に小さな木のベンチがあった。
ユリウスがお弁当を持って座る。
私は一人分ほど間を空けて、隣に腰を下ろした。
さっきまで話していた人なのに、急に顔を見るのが難しくなった。
「……何から聞けばいいんだろう」
私が言うと、ユリウスも弁当の蓋を見つめたまま頷いた。
「俺も、分からない」
俺。
その一人称を聞くと、胸がきゅっとなった。
配達に来た私と話すとき、彼はいつも「僕」と言っていた。
「悠真も、赤ちゃんから?」
「うん。気づいたら、知らない人に抱かれてた」
「私も。何を聞こうとしても泣き声にしかならなくて」
「分かる」
「寝返りもできないし」
「天井しか見えないんだよな」
顔を見合わせる。
今度は、ちゃんと笑えた。
「俺、今年で二十一」
「え。私、二十歳」
「じゃあ、今は一つ上か」
「同級生だったのにね」
ユリウスが頷く。
違う顔。違う名前。
年齢まで違う。
私は膝の上で、借りたハンカチを握った。
「あのとき」
ユリウスの手が止まる。
「守ってくれて、ありがとう」
風が鉢植えの葉を揺らした。
「私、何もできなかった。悠真がどうなったのかも、分からなくて」
「陽菜」
呼ばれて顔を上げる。
彼は少し迷ってから、静かに言った。
「間に合ったと思ったんだ」
「うん」
「引っ張れば、助けられるって」
お弁当を支える指に、力が入った。
「でも、こっちで目が覚めてから、ずっと考えてた。陽菜はどうなったんだろうって」
私は唇を結んだ。
無事だったよ、とは言えなかった。
大丈夫だったよ、とも。
彼の目が、私の顔へ戻る。
「会えてよかった」
その言葉に、私は頷いた。
「……私も」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
*
「で、リーナさん」
少しして、ユリウスが弁当の蓋を置いた。
「はい」
「俺の昼飯、また冷める」
思わず笑ってしまった。
「そうだった。食べて」
「さっきから食べろって言われてるのに、全然進んでない」
「今日は仕方ないでしょ」
「まあね」
彼はパンをちぎり、煮込みにつけた。
私も、残していた焼き菓子を口に入れる。
少し硬くなっていたけれど、甘かった。
「どうして治癒師になったの?」
「こっちの家が、薬草を扱う仕事をしてたんだ。手伝ってるうちに、治癒魔法も少し使えるって分かって」
「それで王都に?」
「十四のとき。ここの先生に弟子入りした」
「じゃあ、私より長いね。うちは店を開いたの、六年前だから」
知らなかったことが、一つずつ増えていく。
彼が育ったのは、王都から馬車で三日ほどの町。
両親がいて、弟がいること。
治癒師の勉強は、魔法を使う練習より、覚えることのほうがずっと多かったこと。
「骨の名前、また最初から覚えると思わなかった」
「前も覚えたの?」
「覚えてない。だから余計に」
「何それ」
笑うと、ユリウスも肩の力を抜いた。
「リーナは? ずっと店を?」
「小さい頃から手伝ってたよ。最初はお皿運びだけだったのに、今は仕入れも帳簿も」
「幹事の次は、食堂のまとめ役か」
「成長したでしょ」
「引き受ける量が?」
「そこは褒めて」
彼は声を出して笑った。
中庭の向こうから、誰かが桶を置く音が聞こえた。
私はベンチの背にもたれ、ようやく足を休ませた。
「世界が変わっても、忙しいと疲れるんだね」
「治癒魔法でも、寝不足はなくならないしな」
「なくならないんだ」
「少し楽にはできる。でも、あとで先生に怒られる」
「それは寝なさい」
「はい」
素直な返事に、また笑った。
*
通りのほうから、楽器の音が聞こえた。
パレードはもう終わったはずだけれど、お祭り気分は夕方まで続くらしい。
「今日、英雄を見たよ」
「レオン・グラディス?」
「うん。すごい人気だった」
「怪我人も、あの人を見ようとして押された人が多かった」
「治療院からすると、困った人気だね」
「無事に帰ってきてくれたのは、ありがたいけどね。西の街道、しばらく薬の荷が止まってたから」
「ああ、父さんも油が高いって言ってた」
魔物の被害も、人間と魔族の争いも、店の仕入れにまでつながっている。
遠い場所の出来事だと思っていても、届くはずの荷物が来なければ、翌日の献立が変わる。
「今の王様になってから、王都は暮らしやすくなったよね」
私が言うと、ユリウスは頷いた。
「昔は、夕方になると先生が往診を止めてた。今は大通りなら行けるから」
「魔道灯、増えたもんね」
「あと、役所の番号札」
「分かる!」
思わず声が大きくなった。
「あれ、絶対、誰か思いついて持ち込んだよね?」
「アオキス王、転生者だったりして」
「私も思った。窓口ごとに列を作るより、番号で呼んだほうが早いって」
「でも、初めて行ったとき、番号札取らずに座ってた」
「悠真が?」
「一時間くらい」
「前の世界でもありそうな失敗」
「慣れてると思って油断した」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
王様に前世の記憶があるかどうかなんて、分からない。
ただ、同じものを見て、同じように「これ、あっちにもあったね」と言える相手がいる。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
*
弁当箱が空になった頃、私はハンカチを畳み直した。
「これ、洗って返すね」
「急がなくていいよ」
「じゃあ、次の配達で」
「うん」
ユリウスは空の弁当箱に蓋をした。
それから、両手を膝に置いた。
「……話しておきたいことがある」
声の調子が変わって、私も背筋を伸ばした。
彼は一度、治療院の窓を見た。
「俺、許嫁がいるんだ」
中庭の音が、少し遠くなった。
私は彼の横顔を見た。
言葉を理解してから、ゆっくり頷く。
「……そうなんだ」
「ここの先生の、お孫さん。別の治療院で働いてる」
彼の指が、膝の上で組まれた。
「弟子入りした頃から知ってて。勉強もうまくいかなくて、帰ろうかと思ったときも、ずっと付き合ってくれた人なんだ」
私は足元へ目を落とした。
石畳の隙間に、小さな草が生えていた。
「結婚するって決めたの?」
「うん。去年」
胸の奥が、少し痛んだ。
思い出の中の悠真は、私と同じ大学へ通っていた。
でも、今の彼には、私が知らない二十一年がある。
さっきまで聞いていたのは、そのほんの一部だった。
「ごめん」
私は顔を上げた。
「謝らないで」
少し強く言ってしまい、声を和らげる。
「……そうだよね。私たち、ずっと別々に暮らしてたんだもん」
彼は黙っていた。
私も、自分の指先を見た。
「私も、いたよ。恋人」
ユリウスがこちらを向いた。
「今も?」
「ううん。去年、別れた」
市場で働いていた、穏やかな人だった。
仕事帰りに食事をして、休みの日には出かけた。
好きだった。
それでも、一緒にいる時間が減って、話がかみ合わなくなって、最後には二人とも次の約束をしなくなった。
「こっちでも、ちゃんと好きになった人がいた」
「……そっか」
「うん」
前世の恋を忘れたわけではなかった。
でも、覚えているからといって、毎日それだけを考えていたわけでもない。
店を手伝って、友達ができて、誰かを好きになった。
ユリウスも同じだった。
会えたら、続きから始められる。
心のどこかで、そんなふうに思ったのかもしれない。
大学の門で待ち合わせをした、あの日の続きから。
「……変な感じだね」
私は言った。
「さっきまで、学生に戻ったみたいだった」
ユリウスが小さく頷く。
「俺も」
「でも、午後の講義には戻れないんだね」
「今から解剖学の講義なら、先生に頼めるけど」
「それは遠慮します」
彼が笑った。
私も笑えた。
少しだけ、胸が痛いまま。
*
「ユリウスさん」
中庭の扉が開いた。
受付の女性が、申し訳なさそうに顔を出す。
「すみません。次の方が」
「はい。今、行きます」
彼が立ち上がる。
私もベンチから腰を上げた。
「あ、思ったより足、休めた」
「ずっと立ち仕事だもんな」
「帰ったら母さんに、休憩済みって言われそう」
「それは黙っておいたほうがいい」
「治癒師が悪いこと教えてる」
「体を休めるためだから」
そんなやり取りをしながら、弁当箱を包む。
彼が結び目の片方を押さえてくれた。
慣れた手つきだった。
私はその手を一瞬見て、それから包みを持ち上げた。
治療院の入口で、ユリウスが足を止める。
「陽菜」
胸が小さく鳴った。
彼も気づいたように、言い直した。
「……リーナ」
「うん」
「また、話してもいい?」
私は頷いた。
「今度は、私もお茶を飲みながらね」
「用意しておく」
「あと、ちゃんとお昼食べてから」
「分かった」
彼が笑う。
今度は、私もまっすぐ笑い返した。
「じゃあ、またね。ユリウス」
「またね、リーナ」
通りへ出ると、夕飯の支度をする匂いがした。
籠を抱えた人が歩き、店先では値段をまける、まけないのやり取りが続いている。
私は空の弁当箱を抱え直した。
帰ったら、母に少し遅くなった理由を聞かれるだろう。
夜には皿を洗って、明日の仕入れを確認する。
ユリウスも、今頃は次の患者さんを診ている。
会えなかった間に、私たちにはそれぞれの暮らしができていた。
店へ続く角を曲がる前に、もう一度だけ振り返る。
青い屋根の治療院が、人の行き交う道の向こうに見えた。
悠真がいる。
そのことが、まだ不思議だった。
嬉しくて、少し寂しくて、それでも足取りは来たときより軽かった。
次に会ったら、この世界で初めて作った料理を焦がした話をしよう。
きっと、また笑われる。
終わります!




